第五十区画「領地の価値はまだ査定できないようです」
昼。
食堂は満席になり、湯屋には行列ができた。
「領主どの! 湯が回らん! 客が出てこん!」
「長湯の禁止は、規約に書いてないからな……」
「書け! 今すぐ書け!」
湯屋の釜番が悲鳴を上げていた。……開業日にして、早くも管理規約の改定案件が発生している。それに、増築の検討も進めなければ、いけないみたいだ。
……息をつく暇もない。
厠と手洗い場も、想定の倍の頻度で使われていた。掃除当番は日当割り増しの精鋭部隊である。彼らが黙々と働いてくれたおかげで、この日、館内の水回りは一度も汚れなかった。
……前世の商業施設で、開業日の一番の裏方は、いつも清掃と警備だった。この世界でも同じらしい。
◆◆◆◆
昼過ぎ、南門から報せが来た。
「領主! 変な客だ! 毛皮の!」
「毛皮の商人か」
「ちがう! ぜんぶ毛! 顔も毛!」
……ん?
正門へ回ってみると、荷駄を連れた一団が、アーチの前で立ち止まっていた。
背が高い。しなやかな体躯。そして——耳と、尾がある。
獣人だ。
先頭の女が、こちらを見て、鼻をひくつかせた。
「……匂うと思って来てみれば。ここが源か」
「匂う?」
「水だ」
彼女は、はっきりと言った。
「西の岩場まで、風に乗って、いい水の匂いがした。うちの一族は鼻が利く。……数月ほど前から、東の風がやたらと旨いと言うのが、うちの婆連中の口癖でな」
……また水か。
俺の街は、地脈の次は、風に乗って宣伝しているらしい。
「ファルサの香料を扱っている。買い手はいるか」
「いる。うちの食堂と、薬師と、それから酒蔵が欲しがるはずだ。——記帳台へどうぞ。桝と秤は、うちの物を使ってもらう」
彼女は、片眉を上げた。
「魔物と、森の民と、石の民と、人間が、同じ屋根の下で商いをしてるな。……珍しい」
「うちは、種族で席を分けないんだ」
「ふん」
彼女は、鼻を鳴らした。それは、どうやら笑ったのだった。
「——気に入った」
◆◆◆◆
昼過ぎ、上空を大きな影が横切った。
群衆が、悲鳴を上げた。
巨大な翼が、アエルナの真上をゆっくりと旋回する。金色の鱗が、秋の陽を弾いた。
「り、龍だ! 龍がー!」
「落ち着いてください」
セリアが、拡声のために作らせた木の筒を口に当てた。
「あちらは、当領の警備最高顧問です。掲示の通りでございます。危害は加えません。本日は、開業を祝しての飛行です」
……なんだかんだで、あの御方は来てくれた。
竜は三度、悠然と旋回して、北の山へ帰っていった。
残された群衆は、しばらく呆然としていたが、やがて誰かが言った。
「……龍が、守ってる市場、だと」
「盗賊も、税吏も、来られんな」
その日のうちに、この街の噂は、確実に一段階、格が上がった。
最強の広告である。対価は、水と点検だけだ。
◆◆◆◆
午後。
俺は通路を歩き回っていた。混雑を捌き、迷子を届け、揉め事を裁き、品切れの補充を手配し、気がつくと、水も飲んでいなかった。
「タクミ様」
背後から、声。
「客足の記録を——」
「そちらは記録係が。……それより、こちらへ」
腕を掴まれた。
いや、掴まれたというより、有無を言わさぬ力で引っ張られた。
「おい、セリア」
「規約第二条、及び雇用契約第四条の解釈に基づきます」
連れて行かれた先は、センター広場の脇。木陰と、縁台。
その上に、淡い札が灯っている。
『休憩所 お疲れさまです。どうぞ、おかけください』
「座ってください」
「いや、まだ——」
「座ってください」
……逆らえる声ではなかった。
俺は、縁台に腰を下ろした。
その瞬間、日なたの猫のように、全身から力が抜けた。
「……あー」
情けない声が出た。
膝が、笑っている。朝から一度も座っていない。前世でもよくやった失敗だ。開業日というのは、興奮していて疲れに気づかないのだ。
セリアが、水を差し出した。
「飲んでください」
「……ああ」
冷たい湧水だった。半年前に、砂を押しのけて湧いていたのを見つけた、あの水、水路を引いて、ここまで供給できるようにした水だ。
俺は、それを飲みながら、目の前の光景を見た。
人が、歩いていた。
鍛冶場から薬局へ、薬局から食堂へ。俺が図面の上で何十回も引き直した線の上を、本物の人間が、本物の足で歩いている。
貸し台の前で、女性が値段を訊いている。
子供が、菓子の袋を抱えて走っていく。
商人が二人、樽の前で何か言い合っている。
センター広場では、いつの間にか子ゴブたちが唄を始めていて、その周りに人だかりができている。
誰かが、誰かと待ち合わせをしている。
誰かが、初めての稼ぎで、何かを買っている。
……ああ。こうなるのか。
俺は、これを見たかったのだ。
二十年、計画図面やら工程表と睨み合って、何百回も頭を下げて、紙を書いて。俺が本当に見たかったのは、たったこれだけのことだった。
自分の引いた線の上を、人が歩く。
それだけのことが、こんなに……。
「……タクミ様」
「言うな」
俺は、片手で目を覆った。
「……歳を取ると、涙腺が緩くていけない」
「はい」
セリアは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、俺の隣に、少しだけ距離を置いて座った。
しばらくして、彼女が言った。
「今度は、休めましたか」
前世の話を聞いた者にしか言えない台詞だった。
……ああ、そうか。
俺は、自分の創った場所で、一度も休んだことがなかったのだ。二十年、一度もだ。
今、初めて座っている。
俺は、目を覆ったまま、頷いた。
「……ああ。最高のハコだ」
◆◆◆◆
日没。
閉場の合図は、笛の一回。作業中断の合図と同じである。
客が引いていき、最後の荷馬車が南門を出て行った後、俺たちは大広間に集まった。
全員、限界だった。ドワーフは床に座り込み、ゴブリンは重なって寝ており、エルフは壁にもたれて動かない。
「では、初日の締めを申し上げます」
セリアが帳面を開いた。彼女もさすがに、いつもより声が掠れている。
「来場、記帳ベースで二百四十一組、延べ八百六十三名」
どよめきが起きた。
「うち、王国から九十一組、ガルドラから六十二組、ファルサから十八組、その他および行商が七十組。……本日、当領の人口の、七倍以上が訪れました」
「売上は」
「集計中ですが、概算で金貨、百八十枚を超えます」
場が、静かになった。
「え……」
「ひゃく、はちじゅう?」
「初日で、ですか」
「はい。ただし、これは店子の売上の総額です。当領の取り分は、家賃の固定分と歩合、それに湯銭、宿代、両替の手数料。……それでも、金貨二十二枚です」
彼女は、顔を上げた。
「本日一日で、当領は、建設費の、およそ一割を回収しました」
どよめきが、歓声になった。
バルガスが、床に座り込んだまま、天井を仰いだ。
「……信じられんわ。荒れ地に、市場が建って、初日に金貨が二十枚じゃと」
「忘れないでくれ」
俺は、全員の前に立った。
「これは、あんたたちが建てた建物と作り上げた品物が稼いだ金だ」
◆◆◆◆
「それから、報告がもう一つ」
セリアが、帳面をめくった。
「本日、十一月一日は、タクミ様がローゼンベルク伯爵家との血判状に判を捺した、四月一日から数えて、七ヶ月目にあたります」
彼女は、全員に向かって言った。
「王国の台帳における当領の査定額は、金貨一枚。……その土地が、七ヶ月で、初日に金貨百八十枚を動かす市場になりました」
「……査定額の、修正が必要だな」
「王国の台帳は、当領が更新できるものではありません」
「じゃあ、向こうが慌てて書き直すことになる」
俺は、大広間を見回した。
誰もいなくなった市場。天窓から、赤い夕日が落ちている。
「初日、黒字だ。全員、よくやった」
歓声は、もう上がらなかった。
代わりに、全員が、それぞれの座り込んだ場所で、力なく笑った。
……これが、開業日の正しい顔である。前世でもそうだった。開店初日の夜、全員が魂の抜けた顔で笑うのだ。
◆◆◆◆
解散の前に、ザグが手を挙げた。
「領主。カミに、報告する」
「……ああ、そうだな。忘れてた」
ゴブリンたちが、掲示板の前に集まった。門と、砦と、食堂と、そしてこの市場にも掲げてある、規約の写しの前である。
ザグは、鍋兜を脱いだ。
「カミ。今日、市場、開いた」
彼は、ゆっくりと言った。
「四月に、覚書、書いた。『山は、いつか帰れる。それまで、ここで生きる』ここで、生きてる。ちゃんと、生きてる。今日、たくさん、稼いだ」
ゴブリンたちが、一斉に頭を下げた。
その隣に、いつの間にかエルフたちが並んでいた。老エルフが、静かに言った。
「……儂らも、混ぜていただこう。神ではなく、紙にな」
そして、ドワーフたちが、金床のかわりに床を槌の柄で叩いた。
こん、と。
三つの祈りが、同じ紙の前で並んだ。
……この光景を見るために、俺はここまで突き進んで来たのかもしれない。
◆◆◆◆
その夜、俺は最後にもう一度、大広間に立った。
誰もいない。昼間の熱気の名残だけが、床に残っている。
昨夜、俺はここで膝をついた。前の世界で死んだ床の冷たさを、思い出して。
今夜は、違った。
床は、まだ人と陽の温度を持っていた。八百六十三人が歩いた床だ。
俺は、その真ん中に立って、天窓を見上げた。星が見えた。
……見たよ。
誰にともなく、そう思った。
……ちゃんと、開いたところを、見た。
背後で、扉が開く音がした。
「タクミ様。……また、ここですか」
「今夜は、感傷じゃない。最終の戸締りだ」
「では、ご一緒します」
俺たちは、灯りを一つずつ確かめて回った。厠の水を止めて、竈の火を落として、窓の掛け金を確かめて。
開業した建物の、一番地味で、一番大事な仕事である。
……建てて終わりじゃない。開けてから、ここから始まる。
明日も、この街は開く。明後日も、その次も。




