第四十七区画「領主は開業前夜に語るようです」
眠れなかった。
十月三十一日の夜。最終の点検も、値札の確認も、明日の段取りの読み合わせも、全部終わっている。テオの情報網やノルトールの商会を通して、各商人には、噂を流し終えている。
いずれは、王国内だけでなく、ファルサやガルドラ……ゼノス帝国にも、噂が届くだろう。
そして、セリアには「履行してください」と言われている。寝るべきだった。
寝台に入って、天井を見て、目を閉じて。
……三十を数えたところで、起き上がった。
◆◆◆◆
外は、驚くほど静かだった。
北方の十月末の夜気は、もう冬そのものだ。息が白い。空には月と、痛いほどの星。
街を横切って、南へ。三国交差点へ向かう道は、この春に敷き直した街道だ。轍が月明かりで銀色に光っている。
南門の詰所には、灯りが点いていた。
「——止まれ。……あ、りょ、領主どの!?」
夜番のゴブリンが、飛び上がった。隣で毛布にくるまっていたドワーフの若いのが、慌てて槍を取る。
「ご苦労。見回りだ」
「こんな時間に、ですか」
「眠れなくてな。……お前たちこそ、寒くないか」
「へいき! 火鉢、ある! 窓、指いっぽん、開けてある!」
子ゴブが得意げに胸を張った。……昨日教えた【換気の定め】が、もう身についている。
「よし。合格だ」
「あ、りょうしゅ! 記帳!記帳、する!」
「……俺もか」
「きまり! りょうしゅが、きめた!」
ぐうの音も出なかった。俺は台帳の第一巻に、記念すべき一人目として、自分の名前を書いた。
『十月三十一日 深更 タクミ 用向き:見回り』
……開業前から、来場者台帳が働いている。
◆◆◆◆
アエルナは、月の下に静かに建っていた。
昼間の熱気が嘘のようだ。誰もいない。何の音もしない。
正門をくぐる。風除室の扉を開けて、大広間へ。
——靴底に、床の冷たさが伝わった。
その瞬間だった。
……ああ。これだ。この、感触だ。
誰も踏んでいない、真新しい床。石の冷たさが、靴底を通して足の裏に上がってくる。掃き清められて、まだ誰の足跡もついていない。明日からここを何千という足が踏む。その最初の一歩を、俺が踏んでいる。
開業前夜の午前二時。
磨かれた床。高い吹き抜け。見上げた先の天窓。
——前の世界で。
俺は、まったく同じ場所に立っていた。
石倉拓海。四十二歳。職業デベロッパー。
その日は、三年がかりの商業施設の、開業当日だった。開店は午前十時。俺は前夜から現場に泊まり込んで、最終の確認をしていた。
消灯後の館内は、誘導灯の緑の灯りだけが点いている。天窓の外は、雨だった。
最後の仕事は、導線の確認だった。
図面ではなく、自分の足で歩く。エントランスから入って、右へ。エスカレーターの前で立ち止まって、視線の高さを確認する。柱の陰になる店舗の看板は見えるか。ベビーカーは通れるか。行き止まりに見える角はないか。
……三年だ。
用地の交渉から、テナントの誘致から、内装の監理から、近隣の説明会から。何百回も頭を下げて、何千回も描き直した。
俺は、エントランスの吹き抜けの真ん中に立って、天井を見上げた。
いい建物だった。
明日、ここに人が来る。子供が走って、親が呼び止めて、誰かが待ち合わせをして、誰かが初めての給料で何かを買う。
改めて、動線はこれでいいと。
——そう思った、次の瞬間だった。
胸の奥を、熱した太い鉄串で貫かれたような激痛が走った。
息が入らない。視界が明滅する。膝が落ちて、頬に、真新しいコンクリートの冷たさが当たった。
……そこから先は、走馬灯だった。
ゼネコンでの泥臭い現場監督時代。
不動産管理での昼夜を問わないクレーム対応と建物の運用。
そして大手デベロッパーに移って、用地の取得から企画から運営まで、胃を焼かれながら走り回った時間。
……二十年だ。
俺は、磨き上げられた天井を見上げていた。
そして、思った。
——いつも、そうだったな、と。
誰もが笑顔になる最高の場所を、いくつも創った。だが、自分がそこで休んだ時間は、一秒もなかった。
自分という資源を最大限まで削って、利益を最大化する。……そういう方法でしか、生きてこなかった。
だから、最後に願った。
もし次に生まれ変わることができるなら。
次こそ、自分のペースで。誰もが無理なく、豊かに安心して暮らせる、ホワイトな街を創りたい。
それが、石倉拓海の、最期の願いだった。
そこには、誰も、来なかった。
午前二時の誰もいない商業施設。俺が発見されたのは、朝方の警備巡回の時だった。
開業日の朝に、開業を待たずに死んだ男。
……そういう死に方をした。
◆◆◆◆
気がつくと、俺は膝をついていた。
アエルナの、大広間の真ん中。天窓から落ちる月の光のど真ん中で。
息が荒い。手が震えている。心臓が、あの時と同じ場所で、うるさく鳴っている。
——大丈夫だ。
これは発作じゃない。ただの記憶だ。三年前……いや、この世界に来てから一度も表に出さなかった記憶が、床の冷たさ一つで、全部戻ってきただけだ。
なぜ、同じ形にしたのか。
前の世界のものより、ずっと小さいし、木造だ。建物として、全然違うのは分かっている。
それでも、この吹き抜け。天窓。石の床。回遊の導線。……前の世界で俺が死んだ場所を、俺はわざわざ、もう一度建てた。わざわざ、同じ名前にした。
理由は、自分でも分かっていなかった。
でも、いま、分かった。
——見たかったのだ。
あの建物が、開くところを。
◆◆◆◆
「タクミ様」
声が、した。
顔を上げると、大広間の入口に、灯りが一つ立っていた。
セリアだった。
外套を羽織って、光る茸を掲げて、こちらを見ている。
「……なんで、ここに」
「あなたが、寝ないと思ったからです」
彼女は、静かに歩いてきた。靴音が、高い天井に反響する。
「あなたは、驚くほどよく眠る方です。工事の最中でも、賊が来た夜でも、竜と交渉した日でも。……日誌に記録があります。就寝から入眠まで、平均して、およそ二十を数える間」
「……そんなものを記録してるのか」
「これも業務の内です。領主の健康は、当領の最重要資産ですので」
彼女は、俺の三歩手前で止まった。
「ですが、今夜だけは、眠らない気がしました。……理由は、説明できません。ただ、そう思ったので、参りました」
俺は、まだ膝をついたままだった。立ち上がる気力が、少し足りなかった。
セリアは、床にしゃがみこみ、そして、その場に座った。
「タクミ様」
「……ああ」
「先月、名前の由来を伺った時、あなたは仰いました。『いつか話す』『多分、もうすぐだ』と」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
「今が、そのいつかではないのですか」
俺は、長い息を吐いた。
そして、話した。全部、話した。
こことは、別の世界があること。石倉拓海という、四十二歳の男がいたこと。その男が、二十年、建物を建てる仕事をしていたこと。用地を買い、企画を立て、テナントを集め、開業させ、その後の管理までやる、そういう仕事だったこと。
三年がかりの仕事の、開業当日の午前二時。誰もいない吹き抜けで、心臓が止まって、死んだこと。開業まで八時間だったこと。
気がついたら、白い場所にいて、女神と名乗る何かがいて、「二つ、持っていきなさい」と言われたこと。それが【万象の鑑定眼】と【神域の用途指定】だったこと。
そして、目を開けたら、伯爵家の三男坊として、産まれていたこと。
セリアは、口を挟まなかった。ただ、一度も目を逸らさずに聞いていた。
「……アエルナってのは」
俺は、天窓を見上げた。
「前の世界で、俺が……いや、俺と前の世界の仲間たちで建てた建物の名前だ」
彼女の睫毛が、微かに動いた。
「俺はその建物が開くところを、見られなかった。あの中を人が歩くのを、一度も見ていない。……客が入った時に、この導線がうまくいったのか、失敗だったのか。三年かけて考えたことの答えを、俺は知らないまま死んだんだ」
俺は、自分の建てた大広間を見回した。
「だから、同じ形で建てた。同じ名前をつけた。……我ながら、みっともない話だ。四十二年生きて、死んで、別の世界まで来て、やってることが前と同じで、しかも、一度死んだ場所をわざわざ建て直してる」
「みっともなくは、ありません」
即答だった。
「……そうか?」
「はい」
「タクミ様。一つ、申し上げてよろしいですか」
「なんだ」
「私は、あなたのお話を、信じます」
「……信じるのか。異世界だぞ。女神だぞ」
「信じます。——なぜなら、証拠があるからです」
セリアは、外套の下から、一冊の帳面を取り出した。
見たことのない、古い帳面だった。表紙は擦り切れて、角が丸くなっている。
「これら五年前から、個人的につけているものです」
彼女は、それを開いた。
「あなたは、ご自分では気づいておられません。ですが、あなたは五年間、ずっと、この世界に存在しない言葉を使ってこられました」
……あ。
「読み上げます」
彼女は、茸の灯りを引き寄せた。
「『いんふら』。初出は、五年前の秋。裏庭で、あなたが仰いました。『この家は、いんふらへの投資が足りない』と。
「……ああ」
「『てなんと』。『あんかーてなんと』。『しーえふおー』。『きゃっしゅふろー』。『でべろっぱー』。『ぜねこん』。『ろうさい』。『かんりきやく』。『りすくへっじ』。『ぐらんどおーぷん』。……そして」
彼女は、ページをめくった。
「『かーちぇいす』。これは、いまだに意味が分かりません。三年前、馬車で追われた時に仰いました」
「……それは、まあ、うん」
「以上、五年間で、二百三十七語」
二百三十七。嘘みたいな数字だな。でも、セリアがいうのなら、そうなのだろう。
「意味を尋ねても、あなたは笑って誤魔化されるか、こちらの世界の言葉に言い換えられました。……私は、【絶対記憶】を持っています。忘れられません。ですから、全部書き留めました」
セリアは、帳面を閉じた。
「五年間、ずっと不思議でした。この方の使う言葉は、どこの国の言葉でもない。訛りでもない。造語にしては、体系が整いすぎている。意味がすっと入ってくる。……まるで、一つの、完成した世界の言葉のようだと」
彼女は、顔を上げた。
「今夜、答え合わせが済みました。この二百三十七語すべてが、一つの世界を指していました。矛盾は、一つもありません」
……この子は。
五年かけて、俺の言葉の裏を、全部取っていたのだ。
「……怖くないのか」
「何がですか」
「君が仕えてるのは、伯爵家の三男坊じゃない。中身は、四十二歳のおっさんだ」
セリアは、しばらく黙った。
それから、少しだけ首を傾げた。
「……あなたは、私が家出をしてきた夜に、何を仰ったか、覚えておいでですか」
「……いや」
「『来歴は問わない。契約は、今日から結ぶものだ』」
彼女は、まっすぐ言った。
「私は、あなたの来歴を問いません。タクミ様は、タクミ様ですから」
俺は、天井を見上げた。
視界が、少し滲んだ。……歳を取ると、涙腺が緩くていけない。中身の話だ。
「セリア」
「はい」
「一つだけ、確認させてくれ」
「どうぞ」
「……俺の話を、帳簿の言葉で言うと、どうなる」
我ながら、妙な聞き方だった。
だが、この子になら、それが一番通じる気がした。
セリアは、少し考えた。それから、いつもの平坦な声で、こう言った。
「——確認しました。あなたの、前期繰越の全てを」
……ああ。
「前期の帳簿は、閉じられています。損失も、未回収の債権も、やり残した仕事も、全部あちらに置いてきた。私には、それを検める権限がありません」
彼女は立ち上がって、続けた。
「私が監査できるのは、当期からです。そして当期は、いまのところ、順調です」
「順調か」
「はい。人口百十三名。市場、開業前日。免税、残り四年半。……前期繰越の借方に何が積まれていようと、当期の数字は、悪くありません」
「立ってください」
セリアが、手を差し出した。
俺は、その手を取って、立ち上がった。
彼女の手は、小さくて、冷たかった。夜の中を、灯りを持ってここまで歩いてきた手だ。
「タクミ様。導線の確認は、お済みですか」
「……ああ。済んだ」
「では、報告してください。この建物の導線は、どうでしたか」
俺は、大広間を見回した。
正門から入って、右へ。センター広場の脇を通って、東の鍛冶場へ。北の食堂の匂いを嗅いで、西の薬局へ抜けて、南の酒と茸の前を通って、また入口へ戻ってくる。
……悪くない。いや。
「——いい導線だ。多分、うまくいく」
「確認しました」
セリアが、頷いた。
「では、寝てください」
「……」
「あと数刻で、開きます。あなたは、施主です。そして、領主です。開場の合図を出すのは、あなたの仕事です。寝不足の顔で、それをされては困ります」
彼女は、灯りを掲げて、出口の方へ歩き出した。
そして、二歩進んだところで、振り返らずに言った。
「タクミ様。……前の世界のあなたは、開業を見られなかったのですね」
「ああ」
「今度は、見てください」
彼女の声が、少しだけ、震えた気がした。
「今度の開業は、生きて迎えるんです」
◆◆◆◆
外へ出ると、東の空が、わずかに白み始めていた。
十一月一日。
血判状に判を捺してから、半年と一ヶ月目朝がもうすぐ、くる。
「セリア」
「はい」
「……なんで、ついて来てくれたんだ。本当のところは」
彼女は、少し前を歩いていた。振り返らなかった。
「業務です」
「そうか」
「……あの日、裏庭で、私を見つけてくださったのは、あなたでした」
小さな声だった。
「見つけてくださる方が、誰もいない場所に、一人でいる。……それが、どういうことか。私は、知っていますので」
俺は、何も言えなかった。
前の世界の午前二時、誰も来なかったあの床の上に、この子が来てくれた。そんな気がして、それを言葉にするには、俺は少し、まいっていた。
「タクミ様」
「……なんだ」
「今日のところは、これで結構です。ですが、いつか」
彼女は、そこで初めて振り返った。
夜明け前の薄明かりの中で、氷の令嬢が、少しだけ笑っていた。
「——私の帳簿も、いつか。全部お見せします」
「……いいな。CFOの個人帳簿を見るのは、最大のご褒美だな」
「ええ。当領で、最も価値のある機密ですから」
彼女は前を向いて、また歩き出した。
「ですが、今日ではありません。今日は、開業日ですので」
◆◆◆◆
その日の夜、俺は一度も、鑑定眼を使わなかった。値段のつくものは、まだ何もなかったからだ。
背中の向こうで、アエルナが、朝を待って静かに建っている。
開業まで、あと数刻。
——今度は、生きて、開けるんだ。




