第四十六区画「取扱説明会は最も重要なようです」
「さて、ここで最初の問題だ」
俺は、大広間の中央を指した。
「この真ん中。一番いい場所が、空いてる。なぜだと思う?」
沈黙。やがて、テオがおずおずと言った。
「……売れ残った、わけではございませんね?」
「違う。空けてある」
俺は、ぐるりと腕を回した。
「ここは【センター広場】だ。誰にも貸さない。……そして、この建物で一番稼ぐのが、この空き地だ」
「稼ぐ? 何も置いておらんのにか?」
バルガスは不思議そうに問う。
「催しをやるからだ」
俺は、指を折った。
「新酒の樽出し。薬草の効能講座。鍛冶の実演。子供らの唄。収穫祭。冬至の火祭り。……月に何度か、ここで何かをやる。人は、催しを見に来る。そして催しを見た帰りに、必ず何かを買って帰る」
「……なるほど」
「区画として貸せば、月に金貨数枚だ。だが催事場として空けておけば、館全体の客足が増える。うちの家賃は歩合が乗ってるから、店子が売れれば、大家の取り分も増える。つまり、空けておいた方が、儲かる」
バルガスが、腕を組んで唸った。
「……穴を掘って、金を埋めるような話じゃな」
「正しくは、埋めた金が、勝手に増える穴だ」
◆◆◆◆
「次。両端を見てくれ」
俺は、西と東を交互に指した。
「西の端が薬局と治療院。東の端が鍛冶直売所。この二つは、この建物の【磁石】だ」
「じしゃく」
「他所じゃ買えない物を置いてある店のことだ。エルフの薬と、ドワーフの打ち物。これ目当てに、遠くから客が来る。……で、この二つを、わざと一番遠くに離してある」
「なんでー?」
子ゴブが訊いた。今日の質問係みたいだ。
「これは、以前にも言ったかもしれないが、客に、歩いてもらうためだ」
俺は、大広間の端から端まで、ゆっくり歩いてみせた。
「ドワーフの打ち物を買いに来た客は、薬局まで行くのに、この道を通る。通る途中で、茸の匂いを嗅ぐ。酒の樽を見る。子供が騒いでるのを見る。……そして、予定になかった物を買う」
「……やっぱり、ずるい」
「ああ、ずるい。だが、こうも言える。ここに店を出す者は、全員、磁石の恩恵を受けるんだ」
俺は、貸し台の一つを叩いた。
「この台に一人で店を出しても、客は来ない。だが、薬局と鍛冶場の間に置けば、客は勝手に前を通る。……あんたたちが買っているのは、この台じゃない。この台の前を通る、客の流れだ」
しん、とした。
それから、茸の店をやる予定のゴブリンの若いのが、ぽつりと言った。
「……りょうしゅ。俺、店の場所、選ばせてくれって言おうと思ってた。でも、もういい」
「なんでだ」
「どこでも、客、来るんだろ。りょうしゅが、そう作ったんだろ」
「ああ、そう作った」
◆◆◆◆
「歩きながら、設備の説明をする」
俺は、大広間の南寄りにある長い台を叩いた。
「【検量所】ここが、この市場の心臓だ」
台の上には、統一規格の桝と、分銅と、天秤が並んでいる。
「三つの役目がある。一つ、量る。うちの市場では、商いは全部この桝と秤でやる。私物の桝は使わせない」
「……不便では」
「不便だ。だが、考えてみてくれ。旅の商人が、初めて来た市場で一番怖いのは何だ?」
「……騙されること、でございましょうな」
テオが即答した。
「そうだ。目方をごまかされる。粗悪品を掴まされる。だから商人は、知らない市場では買わない。……逆に言えば、『あそこの秤は正直だ』という評判が立てば、それだけで客が来る」
俺は、天井を見上げた。淡い札が灯っている。
『市場へようこそ。桝と秤は、正直に』
「うちには、それを保証する札もある。……もっとも、札が無くても同じことをやるつもりだった。仕組みが先で、札は念押しだ」
◆◆◆◆
「二つ目の役目。両替だ」
俺は、卓の端に積んだ貨幣を示した。
「三国の交差点に市場を作るってことは、三つの国の貨幣が混ざるってことだ。……で、これが揉める。必ず揉める」
「三つの、貨幣ですか」
「いや。九つだ」
俺は、指を三本ずつ、二度立ててみせた。
「王国にも、ガルドラにも、ファルサにも、それぞれ金貨と銀貨と銅貨がある。三国で、九種類だ。……そして厄介なことに、同じ『金貨』でも、国が違えば中身が違う」
「中身」
「混ぜ物の割合だ。純粋な金でできた金貨なんてものは、この世に一枚もない。柔らかすぎて、すぐ磨り減るからな。必ず銅や銀を混ぜる。……その混ぜる割合が、国ごとに違う。同じ時代でも違うし、同じ国でも時代で変わる」
「では、九種類どころでは」
「そうだ。古い鋳造と新しい鋳造を分ければ、二十でも三十でもきかない」
場が、明らかに引いた顔になった。
「……領主どの。それを、どうやって捌くんじゃ」
「だから、金属で考える」
「相場が、店ごとに違えば」
セリアが引き取った。
「同じ品が、支払う貨幣によって値段が変わることになります。客は、どの店で何を出せば得なのか分からなくなる。そして必ず、こう言い出す者が現れます。『あの店は、うちの国の金を安く見た』と」
「そこで、両替の相場は、領が一つに決めて、毎朝ここに掲示する。店ごとの勝手な換算は禁止だ。……どの店で払っても、同じ値になる」
「……それは、大変な手間ですな」
「大変だ。だがこれをやらない市場は、いずれ通貨ごとに客が分かれて、喧嘩になる」
◆◆◆◆
「そして、掲示するのは、貨幣の換算だけじゃない」
俺は、検量所の背後の壁を指した。
そこには、大きな板が一枚、掛けてある。まだ何も書かれていない、真新しい板だ。
「ここに、毎朝、三つの相場を書く。——金の相場、銀の相場、銅の相場だ」
「……金属の、相場ですか」
「そうだ。貨幣じゃない。金属そのものの値だ」
俺は、板に指で線を引いてみせた。
「上から三段。一段目が金、二段目が銀、三段目が銅。それぞれ、同じ目方あたりで、いくらの値打ちがあるか。……それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけでいい」
俺は、板を叩いた。
「さっき言った通り、貨幣は九種類ある。古い鋳造まで数えれば、三十種類だ。それを全部、板に書こうとしたら、板が何枚あっても足りない」
「……ですが、金属は」
「三つしかない」
俺は、三本の指を立てた。
「金と、銀と、銅。貨幣が何十種類あろうと、中に入ってる金属は三つだけだ。……だったら、板に書くのは三つでいい。あとは、その貨幣に金属がどれだけ入ってるかを、その場で測ればいい」
「……なぜ、金属の値を先に書くのですか」
訊いたのは、リーフェだった。
俺は、少し考えてから答えた。
「貨幣ってのは、約束だからだ」
「約束」
「金貨に『一枚』と刻んであるのは、『これは金貨一枚分の値打ちがありますよ』という、その国の約束だ。……そして約束ってのは、破られることがある」
場が、少し静かになった。
「だが、金属は約束じゃない。金は、どこの国で溶かしても金だ。銀は銀、銅は銅。……刻印が何と言おうと、中身の金属は嘘をつかない」
俺は、板を叩いた。
「だから、うちは金属で値を考える。貨幣は、その金属を数えるための道具にすぎない。この順番を間違えると、市場は、よその国の都合で振り回される」
◆◆◆◆
「相場は、誰が決めるのですか」
テオが、身を乗り出した。
「セリアだ。お前と、うちに来る各国の商人から聞き取った金属の取引価格を値を均して、毎朝決める。……根拠は、聞かれたら全部見せる」
「見せるのですか。相場の根拠を」
「見せる。隠した相場は、必ず疑われるからな」
セリアが、静かに補足した。
「聞き取りの記録は、日付ごとに残します。求めがあれば、どなたにも閲覧を許します。……そして、月に一度、掲示の相場と実際の取引の値がどれだけずれたかを、公表します」
「……ずれを、公表なさるのですか」
「はい。ずれない相場など、ありませんので。ずれた事実を隠さないことが、次の日の相場の信用になります」
◆◆◆◆
「それと、読めない者のために、もう一つ」
俺は、板の下に取り付けられた三本の鉤を指した。
そこには、三つの分銅が吊るされている。金色、銀色、赤銅色。大きさが、それぞれ違う。
「同じ値打ちになる目方の分銅を、その日の相場に合わせて掛け替える。金の小さいのが一つ、銀の中くらいのが一つ、銅の大きいのが一つ。……並べて吊るしてあれば、字が読めなくても『ああ、これくらいか』と目で分かる」
「……絵記号と、同じ考えですね」
リーフェが、そう言った。
「そうだ。市場ってのは、目で分かる方がいい」
◆◆◆◆
「タクミ様。一つ、伺ってもよろしいですか」
セリアが、板を見上げたまま言った。
「金属で値を考えるのであれば……貨幣そのものを、目方や中身で検める必要が、ありませんか」
……ああ。この子は、やはり、一歩先を見ている。
「ある。含有量が違うということは、偽造や改鋳の可能性もあるからな」
「では、どうなさるのですか」
「もう、作ってある」
俺は、検量所の卓の下を指した。
そこには、布の掛かった一式が置かれている。真鍮の天秤。水を張るための陶の鉢。糸で吊るした、小さな受け皿が二つ。
「バルガスに作らせた。……名前は、水秤だ」
「みず、ばかり」
「貨幣に、金がどれだけ入っているかを、その場で測る道具だ。明後日、開けた日に、客の前で実演する」
場が、ざわめいた。
「そ、そんなことが分かるのですか」
「分かる。理屈は、拍子抜けするほど簡単だ。……ただし、今日は種明かしをしない」
俺は、布の上を軽く叩いた。
「初日に、客の目の前でやる。説明されるより、見た方が信じるからな」
セリアは、布をじっと見て、それから俺を見た。
「……いつから、お作りになっていたのですか」
「地鎮祭の頃だ」
「二月、黙っておられたわけですね」
「セリアのことを驚かせたかったんだ」
「……後日、あなたが黙っている案件の一覧を、提出していただけますか」
「善処する」
◆◆◆◆
「三つ目。案内だ」
俺は、検量所の脇の一角を示した。
「迷子、落とし物、苦情、急病、揉め事。困った奴は全部ここに来る。ここに来れば、必ず誰かが対応する。……うちの街に来て『誰に言えばいいか分からない』という思いをさせない。それだけで、客の安心はまるで違う」
「担当は」
「日替わりで、全種族から一人ずつ出す。字の書ける者を必ず一人入れる。……セリア、当番表は」
「作成済みです。開業日は、私が立ちます」
◆◆◆◆
一行を連れて、館内を一周した。
厠と手洗い場は、東と南の二箇所。流し水を常時通してあり、汲み取りはしない。石灰の桶を隣に置く。
「これも、贅沢に見えるだろうが、一番大事な設備だ」
俺は、手洗い場の前で足を止めた。
「人が集まる場所で、病が出たら、街ごと終わる。一度『あそこで腹を下した』と噂が立てば、二度と客は戻らない。……大陸中の隊商に噂されたい言葉が、二つある。『あそこの秤は正直だ』と、『あそこの街では、病が出ない』だ」
リーフェが、深く頷いた。
「申し上げます。手を洗うだけで、防げる病は多くあります。……理屈は、私にも半分しか分かりません。ですが、里でも、傷を洗った者の方が治りが良かった」
「その半分で十分だ。手洗い場には、必ず水を切らすな。厠の掃除当番は、日当を割り増しにする」
「割り増し、ですか」
「誰もやりたがらない仕事に、一番払う。それが管理の基本だ」
◆◆◆◆
湯屋の前で、また質問が出た。
「領主様。北の湯は、ただで入れるのに……こちらは、やはり、銭を取るのですか」
訊いたのは、エルフの若い衆だった。もっともな疑問である。
「取る。理由は、薪だ」
俺は、釜場を指した。
「北の湯は、山の熱で勝手に沸いてる。だからタダでいい。あれはうちで働く者への手当だ。……だが、この湯屋は薪で沸かす。薪は、伐って、乾かして、運ぶ手間がかかる。誰かがその代金を払わないと、湯は沸かない」
「では、私たちも、こちらは銭を」
「いや。うちの民は北の湯があるだろう。こっちは、旅の客に売る湯だ。……北から来た隊商が、雪の中を歩いてきて、湯に入れる宿がある。それがどれだけ有り難いか。値段は、それに見合う分だけ頂く」
「タクミ様。付け加えます」
セリアが帳面を開いた。
「湯屋の薪は、建設で出た端材、鍛冶場のくず炭、そして薪炭林から賄います。薪炭林の管理は銀葉の氏族の業務であり、賃金が支払われます。つまり、湯銭の一部は、薪を育てた者に戻ります」
「……そういう、輪になっているのですね」
「輪にしないと、続かないからな」
◆◆◆◆
「さて。ここからは、耳の痛い話をする」
一行を大広間に戻し、俺は板を一枚立てた。
書いてあるのは、こうだ。
『開業前に、答えておくべきこと』
「うまくいく話ばかりしてきたが、この建物には、まだ片付いていない問題がある。開けてから発覚するより、今、全部言っておく」
◆◆◆◆
俺は、一つ目を書いた。
『一、冬に客は来るのか』
「これは、来ない」
輪が、ざわめいた。
「正確に言えば、減る。雪が降れば街道は細り、隊商は動きを止める。……開業したての店が、最初の冬に売上を落とすのは、どこの世界でも同じだ」
「そ、それでは」
「だから、冬に売れる物を並べる」
俺は、指を折った。
「湯。温かい飯。酒。薬。冬は風邪と凍傷の季節だ。鋳鉄の炉。毛織と革。……全部、うちにある。夏に売れる物を冬に売ろうとするから、冬は駄目なんだ。冬に欲しい物を並べれば、冬でも売れる」
「それと、もう一つ」
俺は、館内図の南の街道を指した。
「他所の市場が閉まるからこそ、開いている価値がある。冬に開いている市場は、大陸でも数えるほどだ。うちは、そこを取る」
「……冬営地、でございますか」
テオが、糸目を細めた。
「そうだ。雪で足止めされた隊商が、荷を置いて、馬を休ませて、湯に入って、修理をして、春を待てる場所。……宿代と、飼葉代と、湯銭と、飯代。冬の間、うちに落ちる」
「なるほど。……冬を、売るのですな」
「冬は、敵じゃない。商品だ」
◆◆◆◆
『二、寒くて、客が居つかないのでは』
「これは、本当だ。うちの吹き抜けは、冬には弱点になる」
俺は、正直に天井を指した。
「暖かい空気は上へ逃げる。天窓からは、夜通し熱が抜ける。この高い天井は、夏は気持ちいいが、冬は寒い。……設計した俺が言うんだから、間違いない」
「おいおい、領主どの」
「だから、六つ手を打つ」
俺は板に書いた。
「一つ、正門の内側に、もう一枚扉を立てる。開けっぱなしでも、外気が直に入らない小部屋にする。これはもう建ってる。風除室だ」
「二つ、天窓の内側に、板戸を吊る。昼は開けて光を採り、日が落ちたら閉めて蓋をする。開け閉めの綱は、下まで下ろす」
「三つ、通路の切れ目に、厚い垂れ幕を下げる。織りは森の民、革は石の民に頼む。これは、追加の仕事になるな」
「四つ、床に、木のすのこを敷く。石の床は、足元から体温を奪う。すのこ一枚で、体感がまるで違う」
「五つ、鋳鉄の炉を置く。煙突付きの箱型のやつを、バルガスに作らせる。……ついでに、これは売り物にする。北方の家なら、どこでも欲しがるはずだ」
「ふん。……儲け話に化けるのが早いのう」
「六つ。湯屋の釜の煙道を、宿の壁の中に通す。湯を沸かした熱で、そのまま客を寝かせる。そして、夏は通さないようにルートを分岐できるようにしておく」
リーフェが、はっとした顔をした。
「……乾燥室と、同じ考えですね」
「同じだ。捨てる熱を、拾って使う。うちの街の得意技だな」
*
『三、建具が狂うのでは』
これには、バルガスが先に手を挙げた。
「言うておくが、狂うぞ。間違いなく狂う。……二月で建てたからな。木材の歪みはどこか生じるじゃろうな」
「冬までに、扉は建て付けが狂う。柱と壁の間に隙間が空く。風が入る」
俺は、店子たちを見回した。
「これは失敗じゃない。……いや、半分は失敗だが、分かっててやった。急いで建てる代わりに、後で直す。それを承知で工期を決めた」
「では、どうなさると」
「先に言っておく」
俺は、板に大きく書いた。
『一年目の冬は、建具が狂います。順に直します』
「これを、掲示する。開業の日から、堂々と貼っておく」
「……隠さないのですか」
「隠して、客に見つかったら『欠陥だ』と言われる。先に言っておけば『そういう建物か』で済む。後から詫びるより、先に予定として言う方が、百倍安いんだ」
バルガスが、髭の奥で笑った。
「……お主、そういうところは、本当に商人じゃな」
「領主だ」
◆◆◆◆
『四、火が出たら』
書いた瞬間、輪の空気が変わった。エルフたちが、目に見えて硬くなる。
「……冬は、火を使う量が跳ね上がる。空気は乾く。木の建物に、人が集まる。この街で一番怖いのは、襲撃じゃない。火事だ」
俺は、隅を指した。
「水桶と砂袋を、館内の十二箇所に置く。冬は水が凍るから、砂も併せて置く。夜番は火の見回りを兼ねる。炉と炉の間、酒蔵と炉の間は、必ず距離を空ける」
「それと、灯りだ」
俺は、天井から下がる籠を指した。中で、淡い光が揺れている。
「灯り茸。ゴブリンの洞窟の茸を、エルフに増やしてもらった。冷たい光で、火を使わない。……全部を置き換えるのは、まだ無理だ。だが、館内の夜灯りは、これで賄う」
リーフェが、その籠を見上げていた。
「……火を使わない、灯り」
「君たちのためだけじゃない。木の建物に、火の灯りを吊るして客を入れる方が、どうかしてるんだ。……だが、まあ」
俺は、少し言い直した。
「里が焼けた者に、毎晩、火を見上げさせるつもりもない」
彼女は、目を見開いたが、何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。
◆◆◆◆
『五、炭の火で人が死ぬ』
書いた瞬間、輪が、ざわりとした。
「……領主様。それは、どういう」
「締め切った部屋で、炭をともしたまま眠ると、人は死ぬ。苦しまずに、静かに死ぬ」
俺は、板を叩いた。
「北方で、冬に必ず起きる。『冬の眠り死に』とか『悪い眠り』とか呼ばれてるはずだ。……朝、火鉢のある部屋で、家族が揃って冷たくなってる。心当たりのある奴は?」
何人かが、青ざめて頷いた。老エルフも、ドワーフの何人かも。
「原因は、悪い霊でも、呪いでもない。燃えた後の空気だ。閉じた部屋の空気は、燃えるうちに、人を殺す空気に変わる」
「そんな……では、どうすれば」
「開けておけばいい。それだけだ」
俺は、館内図の余白に、三行書いた。
『火を焚く部屋は、必ず一箇所、指一本の隙間を開けておくこと。眠る前に、炭火は外へ出すこと。寝床の枕元に、火鉢を置かないこと。』
「これを、【換気の定め】として、宿の全室と、館内と、住区の全戸に掲示する。読めない者には読み上げる。……これは、うちの領で一番、人の命を救う紙になるはずだ」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、リーフェが、掠れた声で訊いた。
「……領主様。なぜ、それを、ご存じなのですか」
俺は、板を持つ手を止めた。
「森の薬学にも、その病はありません。石の民の炉の知恵にも、その理屈はありませんでした。私は薬師です。……人が、なぜ死ぬかを、ずっと調べてきました。ですが、あなたの仰った理屈は、聞いたことがない」
輪が、静かだった。
全員が、俺を見ていた。
「……前にいた場所で」
俺は、言葉を選んだ。
「そういう事故を何度か見た。そして、なぜそうなるのかを学んだ。詳しくは、また今度話す」
「……はい」
リーフェは、それ以上訊かなかった。
だが、輪の後ろで、セリアが俺を見ていた。
あの目だ。数字が合わない帳簿を見つけた時の、あの目だった。
◆◆◆◆
『六、龍が客を驚かす』
空気を変えるために、俺は最後の一行を書いた。
輪が、どっと笑った。
「初めて来た客は、間違いなく腰を抜かす。だから、南門と正門に掲示を出す。——『当領の上空を飛行しているのは、当領の警備最高顧問です。危害を加えません。ご安心ください』」
「……あの御方、掲示に書かれるのですか」
「役職名は、本人の希望だ」
◆◆◆◆
「最後に、一つだけ約束をしておく」
俺は、板を伏せた。
「この建物は、必ずどこか間違ってる。開けてみて初めて分かる不具合が、山ほど出る。……客の流れが読み違いだったとか、この扉は要らなかったとか、あそこに厠がもう一つ要るとか」
俺は、店子たちを見た。
「だから、直す。月に一度、規約を見直す。苦情は名前を伏せて出していい。番号で出してくれれば、こっちで場所は分かる」
「……つまり」
テオが、しみじみと言った。
「この建物は、開いた日が、出来上がりではないのですな」
「そうだ。——建てて終わりじゃない。ここから、初めて始まる」
俺は、天窓を見上げた。
光の柱が、床に落ちている。二日後には、この下を人が歩く。物が動き、銭が回り、揉め事が起き、それを一つずつ紙で直していく。
……それが、俺の仕事だ。前の世界でも、この世界でも。
「明日は、最終の点検だ。店子は自分の区画に立って、看板を掛けて、値札を書く。——明後日、開ける」
「「「はい!!!」」」
◆◆◆◆
散会した後、セリアが帳面を閉じて、隣に並んだ。
「タクミ様。宿題の回答が、まだです」
「……なんの宿題だったかな」
「雇用契約書 第四条。週の労働は五日、休みは二日とする。甲である領主が、そこに含まれるのかどうか」
「解釈は、セリアに一任したはずだ」
「では、解釈を申し上げます。含まれます」
彼女は、こちらを見なかった。館内図を見たまま、静かに言った。
「明日の点検が終わったら、お休みください。開業の前夜は、寝てください」
「……善処する」
「善処ではなく、履行してください」
その時の俺は、まだ知らなかった。
その夜、俺が眠れないことを。
そして、開業前夜の午前二時に、この建物の真ん中で、全てを彼女に話すことになるということを。




