第四十四区画「三種族の合作は図面を超えてくるようです」
【十月上旬・棟が上がる】
弓なり梁を上げる日が、この工事の山場だった。
中央の大空間に架かる、長い曲がった梁である。重い。長い。しかも、曲がっている。真っ直ぐな材なら真ん中を吊れば釣り合うが、こいつは吊り点を間違えると、片側が跳ね上がる。
その前日、俺は組み上がった足場に手を当てた。
「【神域の用途指定】区画、この足場。用途【足場】付帯効果 落ちないことが正しい」
『足場、足元に、ご注意ください』
「……で、落ちんのか」
「落ちる」
バルガスが、じろりとこちらを見た。
「うっかりは減る。踏み外しかけた足が、なんとなく踏みとどまる。板が滑らない。……その程度だ。無茶をする奴は、普通に落ちる」
「では、命綱は」
「今まで通り、全員着用。札は、規程の代わりにはならない」
俺は、足場を見上げた。
「……ここを間違えると、人が死ぬんだ。『札があるから大丈夫』が、現場で一番危ない言葉になる」
◆◆◆◆
朝礼で、俺は珍しく長く喋った。
「今日の作業は、この工事で一番危ない。落ちたら死ぬ。潰されたら死ぬ。……だから、確認は三回やる。焦った奴、格好つけた奴、大声で急かした奴は、俺が現場から下ろす。棟梁でもだ」
「ワシも入っとるのか」
「一番危ないのは、あんただ」
ドワーフが櫓を組み、滑車を掛け、ゴブリンが綱を引く。エルフの職人が梁の上に乗って、位置を見る。笛の合図は一回目、止め。二回目、下げ。三回目、退避。
一本目は、慎重すぎるほど慎重に上がった。
二本目、中程まで上がったところで、綱が鳴った。
『吊り点:偏心/梁材に捻れ発生——このまま揚重を続行した場合、破断の危険:中』
「止め! 止めろ、笛一回!」
ピッ。
全員の手が止まった。梁は、宙で微かに揺れながら、斜めに傾いていた。
「……下ろす。ゆっくりだ。今日はここまで」
現場が、ざわめいた。日はまだ高い。あと三本は、上げられる時間は残っている。工程は、雨で二日遅れている。
「領主どの」
バルガスが、静かに言った。
「三本、上げられるぞ」
「上げられるな。……だが、今日はやめる」
「理由は」
「吊り点の計算が間違ってた。俺の指示だ。直すには、櫓の位置を組み替えて、綱の掛け方を変える。急いで組み替えた櫓の上で、重い梁を吊りたくない」
俺は、傾いて宙に浮いている梁を見上げた。
「……工期は、命より安い。三年前、あんたたちに『初雪までに』と言った男は、その計算を間違えた。俺は間違えない」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがてバルガスが、綱の方へ振り返って、吠えた。
「聞いたな! 今日は仕舞いじゃ! 櫓を解け、明日は組み直しから始める!」
その夜、俺と棟梁と、エルフの木工の頭は、詰所で櫓の図を引いた。吊り点を二箇所に増やし、天秤の梁を渡して荷を分ける。
前世の重量物の吊り方と、ガルドラの鐘楼の据え方と、樹上住居の吊り足場の技が、一枚の紙の上で混ざった。
翌日、二本目は静かに上がった。三本目、四本目も。
五本目が納まった時、誰かが吠え、それが歓声になった。ゴブリンが跳ね、ドワーフが足を踏み鳴らし、エルフが手を打った。
中央の大空間に、弓なりの梁が交差して、天が架かっていた。
◆◆◆◆
棟上げの祝いは、混沌だった。
ドワーフの流儀は、まず酒を柱に掛け、それから飲む。ゴブリンの流儀は、肉を焼いて、カミに紙を捧げる(誰が考えたのか、この日の「紙」は工程表だった)。エルフの流儀は、木に礼を言い、歌を捧げる。
全部、同時にやった。
「……領主どの、これはもう、なんの儀式かも分からんぞ」
「うちの街の儀式だ。誰の作法でもないなら、みんなでやるしかない」
そして俺は、屋根の上に登った。
「タクミ様? 何を」
「前の世界の風習だ。棟が上がった日は、屋根から菓子を撒く」
カゴ一杯の干し茸と、麦の焼き菓子と、木の実の砂糖がけ。
俺が撒いた瞬間、下は戦場になった。子ゴブが跳ね、エルフの幼子が両手を広げ、ドワーフの若い衆が本気の顔で腕を伸ばし、最終的に、一番大きな塊をかっさらったのは、丘から首を伸ばしてきた警備最高顧問だった。
『……不味い』
「顧問。菓子は、子供のものです」
◆◆◆◆
屋根仕事は、それからの十日ほどだった。
母屋を渡し、垂木を並べ、野地板を打つ。石灰窯で焼いた瓦を、下から順に葺いていく。屋根の上に人が並んで、瓦が手渡しで上がっていく光景は、遠目に見ると、大きな生き物の背中に鱗が生えていくようだった。
そして、天窓。
中央の吹き抜けの真上に、大きな明かり取りを開ける。硝子はまだ手に入らない。だから、薄く削った雲母の板を、木の格子に嵌めた。
その日の午後、足場の布を外した。
光の柱が、天窓から真下へ落ちた。
高い天井から、石の床まで。埃が舞って、その光の柱が目に見えた。誰も、何も言わなかった。屋根の上の職人も、床を掃いていた子供らも、皆が黙って、上を見ていた。
俺は、その光の下に立っていた。
……ああ。
前世で、俺が最後に立った場所も、こういう場所だった。
二階分をぶち抜いた吹き抜け。天窓。磨かれた床。あの日の午前二時、俺は誰もいないそのエントランスで、一人で導線の確認をしていた。それが、俺の人生の最後の仕事になった。
「タクミ様?」
セリアの声で、我に返った。
「……いや。いい光だ」
「はい。……とても」
彼女は、俺の顔を見なかった。上を見たまま、そう言った。
◆◆◆◆
【十月中旬・並行して、開業準備】
現場が屋根を架けている間、砦の執務室では別の戦いが始まっていた。
「タクミ様。家賃の件、まだ紛糾しています」
セリアが帳面を置いた。出店希望はうちの民から二十件近く上がっていて、その全員が、同じ質問をしてくるのだという。
「『家賃とは何か』が、まず通じません。この大陸の商いでは、店は自分で建てるものですから」
「そこからか」
「はい。『屋根を貸して銭を取る』という商売自体が、この世界にはありません」
……ある意味、当然か。前世でも、賃貸業が今の形になるまでには長い歴史があった。
俺は羊皮紙を引き寄せた。
「よし。全員集めよう。——読み聞かせだ」
◆◆◆◆
『交易市場アエルナ 出店規約(第一版)』
第一条(目的) 本規約は、アエルナに店を出す者(以下「店子」という)と、アエルナを持ち、営む当領(以下「大家」という)との間の、決まりを定める。
第二条(家賃) 家賃は、次の二つを合わせたものとする。
一、区画ごとに定めた固定の額。額は、区画の広さと場所による。
二、その月の売上に、定めた割合を掛けた額。
第三条(歩合の意味) 前条第二号は、店子が儲かれば大家の取り分も増え、店子が売れなければ大家の取り分も減ることを意味する。大家は、店子が儲かるように、道を整え、客を集め、祭りを催す義務を負う。
第四条(桝と秤) 商いには、当領の定めた桝と秤を用いる。私物の桝秤を用いてはならない。
第五条(帳簿) 店子は、売上の帳簿を付け、月に一度、大家の筆頭補佐官の検めを受ける。検めた数字は、家賃の算定にのみ用い、他に漏らさない。
第六条(禁止) 次の商いを禁ずる。
一、人を売り買いすること。
二、偽りの品を、本物と偽って売ること。
三、桝と秤を偽ること。
第七条(争い) 店子の間の争い、店子と客の間の争いは、当領の領主がこれを裁く。裁きに不服のある者は、次の月次の見直しの場で、これを申し立てることができる。
第八条(退店の自由) 店子は、いつでも店を畳んで去ることができる。大家は、これを妨げない。預けた敷金は、区画の傷みを差し引いて返す。
第九条(見直し) 本規約は、月に一度、店子の申し立てに基づいて見直す。』
◆◆◆◆
読み上げが終わると、案の定、最初の質問が来た。
「領主様。第二条の二号が、分かりません。……売れたら、余計に取られるのですか」
問うたのは、工芸屋をやりたいと言っているエルフの若いのだ。
「逆に聞くが、売れなかった月は、どうなる?」
「……安く、なる?」
「そうだ。開けたばかりの店は、大体、最初の数月は売れない。そこで重い家賃を取ったら、店は潰れる。潰れたら、俺の商売も終わりだ」
俺は、輪の全員に向けて言った。
「うちは、空き店舗の並ぶ市場を持ちたいわけじゃない。埋まって、繁盛して、客がぐるぐる回る市場が欲しい。……だから、あんたたちが儲からないと、俺が困るように、最初から仕組んである。第三条は、そのための条文だ。大家に、あんたたちを儲けさせる義務が書いてある」
しん、とした。
やがて、バルガスが、ぽつりと言った。
「……三年前の紙は、逆じゃったな」
「そうだな」
「ワシらが働けば働くほど、あの男が取っていく紙じゃった。……なるほどのう。同じ『割合』でも、書き方一つで、こうも変わるか」
◆◆◆◆
第四条の桝と秤については、実物を見せた。
ドワーフに打たせた、統一規格の桝と分銅である。全て同じ型で作られ、底に領の刻印が入っている。
「今日から、うちの市場ではこれしか使わない。……そして」
俺は、市場棟の中央に立った。
「【神域の用途指定】区画、この建物。用途【市場】付帯効果正しく量ることが正しい」
『市場へようこそ。桝と秤は、正直に』
淡い札が、高い吹き抜けの天井の下に灯った。
「効果は?」
「桝を誤魔化そうとすると、腕が重くなって、動かなくなる。……多分な。試したことはない」
「試す機会は、開業日に来るかと」
このセリアの予測は、見事に的中することになる。
◆◆◆◆
【十月下旬・仕上げと、門】
最後の十日は、細かい仕事の山だった。
床を張り、壁を塗り、建具を吊り、店の区画に境の柵を立て、看板を掛ける。厠と手洗い場に水を通し、湯屋の釜を据える。宿の寝台を運び込み、食堂に竈を築く。
仕上げは、地味な作業が果てしなく続く。だが、この段階になると現場の空気が変わる。全員が「もう建っている」ことを知っているから、疲れていても、顔が明るいのだ。
正門のアーチには、三種族が思い思いの意匠を彫った。
ドワーフは、石の縁に幾何の組み紐を刻んだ。定規と鑿で寸分違わぬ模様を、延々と。エルフは、木の柱に蔦と葉と、森の獣を彫った。左右で対称にせず、片方だけ枝を伸ばすのが彼らの作法らしい。
「ゴブリンは、どうする?」
俺が訊くと、ザグが腕を組んで、しばらく考えた。
「……絵は、下手だ」
「じゃあ、何か別のものを残そう。石が柔らかいうちに、手形はどうだ」
結果、アーチの足元、人の腰くらいの高さに、ゴブリンの手形がずらりと並んだ。大きな手、小さな手、指の欠けた手。総勢三十二名の全員分。
「……なんじゃ、これは。品がないのう」
バルガスが渋い顔をしたが、その日の午後、彼は自分の手形を金床の絵の隣に、こっそり押していた。夕方には、エルフの若い衆が蔦の下に自分の手形を並べ、翌朝には、セリアの小さな手形が、俺の隣に押されていた。
最終的に、アーチの足元は、百十三人分の手形で埋まった。
「……高さがまちまちですね」
「そこがいい」
◆◆◆◆
同じ頃、南の旧関所跡でも、槌音が鳴っていた。
防備一期である。崩れた石積みを組み直し、門扉を吊り、詰所と記帳台を建てる。
「門扉は樫の一枚板に、鉄の帯を打つ。……押しても引いても、そう簡単には開かん」
「頼む。それと、詰所の灯りは絶やさないでくれ。夜通し灯りが点いてる門ってのは、それだけで抑止力になる」
夜番の編成は、ザグとガリムが組んだ。ゴブリンの夜目と、ドワーフの膂力と、笛の合図。当番表は食堂に貼り出され、初日の夜、当番の子ゴブが誇らしげに胸を張って、二時間で寝落ちしたのは、まあ、ご愛敬である。
門が形になった日、俺は札を貼った。
「区画、この門。用途【関所】付帯効果 門を通ることが正しい」
『関所へようこそ。どうぞ、正面から』
「壁を越えようとすると、どうなるのですか」とセリアが問う。
「ものすごく、気が引ける。足が重くなって、なんとなく『正面から入るか』という気になる。……止めることはできない。本気の軍勢には、無意味だ」
「では、何のために」
「気の迷いを、止めるためだ」
俺は、門柱を叩いた。
「本気の悪党は、札じゃ止まらん。だが世の中の揉め事の大半は、本気じゃない奴が、出来心でやることだ。出来心を止められれば、事件の九割は起きない」
……管理でも、同じだった。防犯カメラは、本物の犯罪者には効かない。だが、ふらりと入ってきた不審者の出来心には、絶大に効く。
セリアが、記帳台に真新しい台帳を据えた。表紙には、几帳面な字でこう書いてある。
『来場者台帳・第一巻』
◆◆◆◆
そして、この二月の間、俺は、一つだけ、隠しごとをしていた。
休工日である。
週に二日、全員に休みを取らせた。規約通り、契約通り、きっちりと。現場は静まり、湯屋が混み、酒が減り、子供らが川で騒いだ。
その二日間、俺は執務室で図面を引いていた。
九月の休工日。窓の外を、湯屋帰りのセリアが通った。
十月の初めの休工日。夜、扉の前に湯冷ましの水差しが置かれていた。誰が置いたかは、書くまでもない。
十月の半ばの休工日。図面から顔を上げると、扉が細く開いていて、隙間から、じっと見ている目があった。
「……何か用か」
「いいえ。宿題の、資料集めです」
扉は、静かに閉まった。
◆◆◆◆
十月二十八日。
最後の足場が外された時、現場にいた全員が、しばらく黙って建物を見上げていた。
三国交差点の荒野に、それは建っていた。
石の基礎と、木の軸組み。高い屋根。正門のアーチには、石の組み紐と、木の蔦と、百十三人の手形。中央の吹き抜けには、天窓から光の柱が落ちている。
『交易市場アエルナ:竣工/構造・意匠ともに特級』
『大陸において、類例なし』
「……建ったな」
「建ちましたね」
隣で、セリアが言った。
「棟梁。安全記録は」
「事故、ゼロじゃ。……擦り傷が十四、指を挟んだのが四、それと酔って溝に落ちたのが一名」
「最後のは労災じゃないな」
「本人もそう申しとる」
セリアが、帳面を読み上げた。
「工程の総括を申し上げます。実働四十四日、休み十七日。雨天による中止、二日。刻み直しとなった材、四本。資材の損耗、ゼロ。労災、ゼロ。……当初の見積もりに対し、六日の余裕を残しての竣工です」
「……六日、残ったか」
「はい。無理をしなかった上で、です」
バルガスは、建物を見上げた。それから、ぼそりと言った。
「……領主どの。ワシは、はじめ、この工期を無茶じゃと思うとった」
「無茶だったさ」
「いや。……終わってみれば、無茶をしたのは日数の方で、人の方ではなかった。ワシらは一度も、夜通し働いておらん。休みも全部もろうた。それで、二月で建った」
彼は、髭を撫でた。
「お主の力は、確かに、待ちを消したじゃろう。じゃがな。この石を積んだのはワシらじゃ。この梁を上げたのも、この瓦を葺いたのもワシらじゃ。そこは、譲らんぞ」
「当たり前だ」
俺は、即答した。
「札は、槌を振らない。……あんたたちが建てたんだ、これは」
バルガスは、それきり何も言わなかった。
ただ、しばらくして、ぽつりと呟いた。
「……何年ぶりじゃ。仕事を、途中で取り上げられずに、最後まで建てたのは」
髭の奥の目が、少し光っていた。
「梁を一日止めた日のことをな、若い衆が話しとった。あの日、日が高いうちに現場を下ろされて、腹を立てた者もおった。……じゃが今、全ての梁が全部、無事に架かっとる」
彼は、俺の方を見なかった。
「そういう紙を書く領主に、ワシらは雇われとる。……それだけの話じゃ」
俺は何も言わず、隣に並んで、同じ建物を見上げた。
開業まで、あと四日。本当にここまできたのだ。




