第四十一区画「薬師は帳面の外から観察するようです」
本来は、四十区画にくる話でした。
師様。
今宵も、ご報告を申し上げます。
里におりました頃、私は毎晩、その日に覚えた薬草の名を、師様に諳んじてお聞かせするのが決まりでした。三十年、一晩も欠かしたことのない決まりです。
……師様がもう、お聞きになれないと分かってからも、この決まりだけは、やめられずにおります。
今夜は、畑の際に膝をついております。蒔いたばかりの畝の匂いがします。西の空は、もう暗くなりました。
どうか今夜も、お付き合いくださいませ。
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あの火の夜から、もう何月か経ちました。
銀葉の氏族、五十二名。全員、生きております。全員です、師様。あなたが火の中で逃がした頭数から、一つも欠けておりません。
私たちは今、地図から塗りつぶされた街におります。東の果て、「死の土地」と呼ばれてきた場所です。
……どうか、笑わないでくださいませ。神代の傷が澱んでいたはずのあの方角に、いま、大陸で一番澄んだ地脈が流れているのです。
境界の石を越えた日、私は立っていられませんでした。大地が、歌っておりました。師様に教わったどの唄よりも古い旋律で、地脈が、朗々と。
そして師様。その流れの栓を抜いたのは、神々では、ありませんでした。
人間の、若い領主様です。
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この街に着いた日のことから、お話しせねばなりませんね。
正直に申し上げます。私は、辿り着いてなど、おりません。倒れたのです。
澄んだ流れを上流へ、上流へと辿って、四日目の夜。境界の石を越えたあたりまでは、覚えております。大地の歌が急に大きくなって、それから、水の匂いがしました。冷たくて、きれいな、水の匂いです。あとのことは、覚えておりません。
目が覚めたのは、知らない部屋の寝台の上でした。
師様。その部屋の扉には、鍵が付いておりました。……内側に、です。
捕らえた者を閉じ込める鍵ではなく、怯えた者が、自分で閉められる鍵でした。後で伺えば、領主の補佐をしているセリア様が、わざわざそういう部屋を選んでくださったのだそうです。目が覚めた時、せめて内側から閉められる扉があれば、と。
最初の食事は、薄い麦の粥でした。長く飢えた腹を驚かせないための、ぬるい、優しい粥です。『回復食・一号』という、勇ましい名前が付いておりました。……私は、あの粥の前で泣きました。恥ずかしいことに、二杯目でも泣きました。
それから師様、私は氏族の種を、対価に差し出しました。あなたの薬草の種を、です。お叱りは覚悟の上でした。あれしか、なかったのです。
それは、受け取って、いただけませんでした。
「取引ではないから」と、膝の上へ押し戻されたのです。保護は制度であって、誰かが払うものではないから、と。差し出した対価を突き返されて、あんなに安堵したのは、生まれて初めてのことでした。
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この街のことを、順に、ご報告いたします。
まず、この街の人々は、紙を拝みます。
いいえ、正確ではありませんでしま。この街では、紙を結ぶ前に、必ず声に出して読むのです。読み上げて、問いには全て答えて、それから判を捺す。「読み聞かせ」という決まりで、契約に、わざわざそう書いてあります。
師様。人間の紙は、私たちを三度裏切りました。長老代理様が、窪地で領主様にそう申し上げた時、私は矢の内側で震えておりました。
ですが、私たちの耳は、嘘の音を聞き分けます。あの窪地で読み上げられた紙にも、調印の日に読み上げられた紙にも、嘘の音は、一度も鳴りませんでした。一度もです。人間の声が一枚の紙をあれほど長く読み上げて、濁りが一つも混ざらないのを、私は初めて聴きました。
ゴブリンの長のザグ様は、こう教えてくださいました。この街には「カミ」がおられる。約束を書いた紙のカミ様で、書いたことを守ると、良いことが起こると。
巫女見習いの立場から申し上げますと、これほど手続きのお好きな神様を、私は寡聞にして存じません。
ですが師様、御利益の実績だけは、目の前に積み上がっているのです。水道、湯屋、金床、屋根。この街の奇跡は全部、紙から始まっているのです。
石と火の民は、金床に誓うそうです。契約の立会の日、彼らの棟梁様は、槌の柄で床を一度だけ、こん、と突かれました。あれが祈りなのだと、笛の上手な若いガリム様が教えてくれました。
……皆、それぞれ違う神様を胸に持っていて、けれど、同じ紙の前に並ぶのです。変な街です。とても、変な街です。
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湯のご報告をいたします。
師様。湯というものは、危険です。
最初は、清めの作法の通り、身を浄めるだけのつもりでした。膝まで、と決めて入りました。肩まで浸かっておりました。四半刻で出るつもりでした。
……申し上げにくいのですが、この街の苦情台帳に『湯がぬるくなるほど長湯をする者がいる』という一件が載っております。その者は、私かもしれません。
湯の中では、皆が同じ湯気の中で同じ顔をしております。湯から上がった後、どの種族も多幸感に溢れている表情をしています。
あれはきっと、魔法の湯なのかもしれません。
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山に住まう龍のことも、ご報告せねばなりません。
この街の北の山には、古き焔の龍がおわします。伝承の礼式では、七度の礼と、七つの捧げ物と——師様、どうか心をお鎮めになってからお聞きください。
領主様は、あの御方と、水の樽の量で交渉をなさいます。
私を迎えの空へ乗せてくださった日も、対価は「冷たい水を五日に一度、量は倍」でした。竜の御方も御方で、「ふん、まあよかろう」と仰るのです。祭壇も、供物台も、七度の礼もなしにです。
ですが師様、あの御方の背から見た景色のことは、氏族の伝承に書き加えねばなりません。
空の上から、大地の血が見えました。金色の大河が、東から、西から、南から集まって、この小さな街の下で一つに束ねられ、北の山へ抜けていくのです。私たちが命がけで辿ってきた澄んだ流れは、その束の、ほんの一筋にすぎませんでした。
あの景色を見た者は、大陸に、龍と私だけかもしれません。……ただ、隣にいらした領主様には、……もっと別の更に壮大な『何か』が見えていたようでした。
……森の作法が全て正しいわけではないのだと、七十六年生きて、初めて思いました。
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この街で一番、長く足を止めた場所のことを、お話しします。
街の真ん中に、古い縁台と木陰があります。その上に、淡く光る札が一枚。『休憩所』。
腰を下ろすと、日なたの猫のように、疲れがほどけていきます。誰でも座ってよいのです。仕事の途中でも、仕事をしていなくても。
師様。この街には、働くことを定めた紙と同じだけ、休むことを定めた紙があります。週に二日の休み。夜の「静かな時間」。傷ついた者の治療は雇い主の払いで、治るまでの賃金も出ます。倒れていた私に屋根と粥をくださった紙には、「対価を求めない」と書いてありました。
人間の国では、休むことは弱さか怠けと呼ばれるのだと、行商の話に聞いておりました。この街は、違うのです。
この街は、疲れた者の側に、法があるのです。
ただ、師様。一つだけ、気になることがございます。
その法をお書きになったご本人だけが、休みの日にも、灯りの下で図面を引いておられるのです。法の外に、ご自分だけを立たせる癖のある方なのだと思います。
……あの方の疲れは、いつ、誰が量るのでしょうか。
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昨夜、嬉しいことがありました。
焚き火の傍で、若い者たちが、声を上げて笑ったのです。ゴブリンの子が龍のイビキの真似をして、それだけの、本当に些細なことで。
里を出た夜から、声のある笑いは、初めてでした。
私は木の陰で、少しだけ泣きました。それから、気づいたのです。祈りの手を合わせようとして、その手が、森の神々の方角ではなく、門に貼られた一枚の紙へ向いていたことに。
師様、お叱りください。巫女見習いの身で、紙を拝みました。
ですが……あの夜の私たちに屋根と粥をくださったのは、神々ではなく、あの紙だったのです。せめて紙のカミ様とやらであってほしいと、今は少し、思っております。
子供たちのことも、ご報告を。
例の、椀を分けてもらった幼子は、あのゴブリンの子と、もう離れません。畑の畝の間を二人で駆け回って、幼子は先日、生まれて初めての異国の言葉を覚えました。「ちび、ちがう! せんぱい!」ゴブリンの子らの言葉です。
森の言葉より先にそれを覚えるのはいかがなものかと思いますが、止める気には、なれませんでした。
それから、夜の歌が、変わり始めております。鎮魂の唄は、まだ歌います。ですがその後ろに、いつの頃からか、種蒔きの唄と、水汲みの唄が続くようになりました。弔いの歌だけだった夜に、明日の歌が混ざり始めたのです。
……氏族は、癒え始めております。ゆっくりと、ですが、確かに。
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もう少しだけ、お話を。領主様のことです。
あの方は、地脈と同じです。見えないところで、一番大きな仕事をなさる。水も、道も、規程も、あの札も、出来上がった頃には当たり前の顔で街に馴染んでいて、誰も、それが無かった日のことを思い出せなくなるのです。
それから師様、あの方の言葉には時折、聞いたことのない音が混ざります。異国の言葉、というのとも違う、もっとずっと遠い、知らない川の水音のような響きです。「てなんと」「どうせん」「はこ」。皆は笑って聞き流しますが、私の耳には、あの音の遠さが、少し寂しく聞こえます。
どこの川の音なのか。いつか、伺ってみたいのです。
補佐のセリア様のことも。
お借りしていたハンカチを、洗ってお返ししようとしましたら、あの方は少し黙って、こう仰いました。
「差し上げます。……私も昔、いただいたままの物が、あるので」。意味は分かりませんでしたが、とても大切な言い方でした。
セリア様の頭の中では、いつも算盤の珠が鳴っていますような気が、私の耳にはいたします。ただ、その音が止まるのは、領主様の背中を見ておられる時だけです。
……お二人の人生を合わせても、まだ私の半分も生きておられないのです。もっと、ゆっくりでもいいのです。それなのに、時間の有限さを知っているかのように、あの二人は日々を忙しく過ごしてらっしゃる。
……どうか、勤勉な領主様とセリア様にご加護を。
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最後に私の仕事のご報告です。
畑の種は、三日で芽を出しました。三日です、師様。ここの土は、時を急かします。銀葉の畝が全部並ぶ頃には、あなたの薬学の棚が、まるごとこの土地に写し取られます。
ゴブ茸のことは、ザグ様に弟子入りいたしました。
魔物と呼ばれる方に、森の民が頭を下げて茸を習う師様の代の常識では、あり得ないことでしょう。ですが、あの茸は本物です。長老の霊茸より、マナが濃い。私は常識のほうを畳むことにいたしました。
それから、私は今日から「院長」だそうです。あなたの出来の悪い弟子が、街の治療院を預かります。初日の患者は、膝を擦りむいたゴブリンの子がひとりとイビキの相談がひとつ。後者は、森の薬学の敗北でした。
ああ、それと。契約の第九条のために、森で一番苦い薬湯の配合を、三案ほど考えてしまいました。黒苦菜の根と、苦栗の渋皮と、あとは秘密です。使う日が来ないことを祈りながら備えるのが薬師だと、あなたに教わりましたので。
胸の棘のことも、正直に申し上げます。
……痛みは、消えておりません。焼けた里より良い寝床で眠るたび、まだ、どこかが軋みます。ただ、この街の紙が、痛みの置き場所をくれました。稼ぎの一割が、森へ帰る路銀として積まれていきます。焼け跡に苗を返す日まで、私たちはここで技を磨きます。
師様の薬学は、絶えません。私が、絶やしません。
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今宵の報告は、以上です。
明日は、領主様が、新しく建てる大きな家の「名付け」をなさるそうです。人間は、建物にも名を付けるのですね。森で、生まれた大樹に名を贈るのと、同じ心なのでしょうか。……その名付けの日を、私は少し、楽しみにしております。
それでは師様。どうか、安らかに。
この土地の言葉を、一つだけお借りして、今夜の結びといたします。
——休むことは、正しいのです。




