第三十八区画「ご近所トラブルは管理規約で収めるようです」
バルガスの予言が当たるまで、五日と保たなかった。
「せいぜい、規程とやらを増やすことじゃな」
——エルフの担架を見送りながら、あの棟梁が肩越しに投げた一言である。……当たった。それも、盛大にだ。
エルフ達入領から五日目の朝。執務室の机に、セリアが真新しい帳面を、ことりと置いた。
「新設しました。苦情台帳です」
「……開設は、いつだ」
「一昨日です」
「件数は」
「二十七件です」
二日で二十七件。なかなかの繁盛ぶりである。
「内訳を読み上げます。『槌の音が頭に響く』、エルフの方々より七件。『夜通し、悲しい歌が聞こえて眠れない』、ドワーフの方々より五件。『鉋がけが遅いと笑われた』、エルフより二件。『寸法も測らず勘で木を切るなと説教された』、ドワーフより二件。『朝の水栓に割り込みがある』、三種族それぞれより計三件。『湯に入る前の清めが足りない者がいる』『湯がぬるくなるほど長湯をする者がいる』、相互に一件ずつ。『ドワーフのイビキが壁を震わせる』、ゴブリンより一件。……以下、略します。それから、これは分類に迷ったのですが」
セリアは、そこで一度、頁を押さえた。
「『配給のゴブ茸が、残される』。ゴブリンの子供たちより、匿名で三件。……ただし筆跡は三件とも同じで、点呼板の字です」
……最後のは、苦情というより悲鳴だな。
「率直に申し上げて、想定より早く、想定より多いです。仲裁に入られますか」
「いや」
俺は上着を取った。
「仲裁ってのは、言い分を全部聞いてからやるもんだ。まずは巡回に行く。管理会社の朝は、現場からだ」
◆◆◆◆
最初の現場は、鍛冶場だった。
炉の前で、若いドワーフたちの手が、俺を見て止まる。用件は察しているのだろう。真っ先に口を開いたのは、その中の一人だった。
「……領主どの。また、火を悪者にする気か」
「ガルドラでもそうじゃった。木の商いの連中に炉の数を減らされ、煙の税を取られ、しまいにゃワシらは山を——」
「よさんか」
バルガスが低く制し、それから、俺に向き直った。
「……で、領主どの。ワシらに、炉を止めろと言いに来たか」
「いや。言い分を聞きに来た。今日はそれだけだ」
髭の奥の目が、わずかに緩んだ。
「なら言うぞ。炉は、ワシらの心の臓じゃ。三年、止まっとった心の臓じゃ。ようやく打ち始めた鼓動を、また誰ぞの顔色で弱めろと言われるのは——正直、我慢がならん」
「もっともだ」
「……じゃがの」
バルガスは炉の煙突を見上げ、それから東の空を、顎でしゃくった。
「ワシの目にも、あの乾し棚の場所は、煙の通り道の真下じゃ。煙は、事実、行っとる。……職人が、事実を曲げるわけにはいかんでな」
火は譲らない。事実も曲げない。……いい職人は、交渉相手としても一級である。
◆◆◆◆
次の現場は、旧市街の東外れ。エルフたちが仮設した、薬草の乾燥棚だった。
『乾燥中薬草(七種):煤の付着あり/薬効・推定三割減』
『原因:北東向きの煙流の直下』
……実害、確定である。棚の前では、あの老エルフが待っていた。物腰は柔らかい。柔らかいまま、硬い。
「炉を焚くなとは、申しませぬ。ですが領主様。この葉は、儂らの薬の元にございます」
「分かってる。実害は、こっちの配置の落ち度だ。直す」
老人が引き取った後、俺はリーフェを呼び止めた。彼女は棚の煤を、指先でずっと拭っていた。
「リーフェ。……本当の話を聞かせてくれ。棚の場所なら、動かせば済む。だが、苦情の件数は、煤の量に比べて多すぎる」
彼女は、しばらく黙っていた。
「……作法の問題では、ないのです」
絞り出すような声だった。
「炉の火の爆ぜる音が。風に乗ってくる煙の匂いが。……夜になると、皆、あの晩を思い出すのです。里が焼けた、あの晩を。子供たちは夜泣きをします。大人は、眠れません。だから」
「——だから、歌うのか。夜に」
リーフェが、顔を上げた。
「鎮魂の歌です。長老と、里と……それから、眠れない子らを寝かせるための。歌っている間だけ、皆、ようやく息ができるのです」
……なるほどな。
ドワーフは眠るために槌を置いて酒を飲み、エルフは眠るために歌う。そして互いの「眠るための音」が、互いの眠りを削り合っている。
どちらも悪くない。ただ、配置と時間が悪い。管理会社時代、嫌というほど見た構図だ。上の階の足音と、下の階の夜勤明け。どちらの言い分も、いつも正しかった。
「分かった。火の記憶は、規約じゃ消せない。……だが、煙の通り道と、音の時間なら、設計で変えられる。そこから、やらせてくれ」
◆◆◆◆
三つ目の現場は、向こうから転がり込んできた。
夕方の配給の列で、俺はそれを見てしまった。エルフたちが、椀のゴブ茸を、そっと端へ寄せるのを。悪気はないのだろう。「魔の物の育てた物は口にせぬ」森の古い戒めだと、老エルフは言いにくそうに説明した。
そして、配膳台の向こうで、それを見ている小さな影があった。例の記録係の子ゴブである。行き倒れの少女を見つけた日、「おきたら、ゴブ茸、たべさせるんだ!」と胸を張っていた、あの子だ。
耳が、これ以上ないほど下がっていた。
「……気にするな。味の分からん奴は、どこにでもいる」
慰めるザグの耳も、下がっていた。
その日の暮れ方である。倉の陰で、くう、と小さな腹の音がした。
エルフの幼女だった。夕餉の椀を、戒めの通りに残して、それでも腹は正直だったらしい。所在なげに膝を抱えている。
そこへ、例の子ゴブが、とことこと歩いていった。手には、自分の椀。湯気の立つ、ゴブ茸の含め煮である。
「……たべる? おいしいよ」
幼女は、椀と子ゴブの顔を見比べ、周りを見回し、空腹が、戒めに勝った。
一口。目が、まるくなる。二口、三口。
「……おいしい」
「でしょ!!」
子ゴブの耳が、ぴんと立った。
「——何をしているのですか!」
駆け寄ってきたのはリーフェだった。幼女がびくりと肩をすくめ、子ゴブが椀を抱えて固まる。リーフェは戒めの言葉を言いかけて、幼女の頬の膨らみと、久しぶりに血色の差した顔を見て、止まった。
「……だめ、だった?」
子ゴブの、消え入りそうな声。
リーフェは、しばらく黙っていた。それから、静かに膝を折った。
「……一口、私にもいただけますか」
椀を借り、匙で一口。瞬間、薬師の顔になった。
「……この滋味……根の張りの深い土の味……。これは、森で長老が、病んだ者にだけ煎じて出した霊茸に……いえ、それよりも、マナの含みが濃い……」
彼女は椀を両手で捧げ持ったまま、弾かれたように立ち上がり、ザグを探して駆け出した。そして、鍋兜の前で、深々と頭を下げたのである。
「ザグ様。……この茸の育て方を、私に教えていただけませんか。薬師として、お願いに参りました」
「…………む」
ザグは、鍋兜の縁を引き下げて目元を隠した。照れた時の癖である。
「……ゴブ茸は、いい土で育つ。ここの土は、いい土だ。……教える。教えるが、その、なんだ。……子ゴブたちにも、礼を言ってやってくれ。育てとるのは、あいつらだ」
リーフェは子供たちに向き直り、森の民の最も丁寧な礼をした。子ゴブたちの耳が、一斉に、ぴんと立った。
……戒めの壁を最初に越えたのは、規約でも説教でもなく、腹を空かせた子供と、椀一杯の含め煮だった。世の中、大体そういうものである。
◆◆◆◆
二日後の夕方。広場に、百十三人を集めた。
「苦情台帳、二日で二十七件。全部読んだ。全部の現場を見た。——結論から言う。悪いのは、ドワーフでも、エルフでも、ゴブリンでもない。配置と、時間割だ」
俺は、地面に大きく描かせた領内図の前に立った。
「まず、事実から。この土地の風は、昼は南西から、夜は北の山から吹き下ろす。鍛冶場の煙は帯になって北東へ流れる。薬草の乾し棚は、その帯の真下にあった。誰かの意地悪じゃない。ただの、配置の失敗だ。俺の失敗でもある」
手は、三本立てた。
「一つ、今日やること。乾し棚は南西の空き地へ移す。運搬班、今日中に頼む。煙突は、隣の屋根より高く上げる」
「二日で上げる」
バルガスの即答。
「二つ、今月やること。鍛冶場の隣に、乾燥室を建てる」
広場が、ざわめいた。エルフ側の怪訝な顔に向けて、俺は続けた。
「炉の熱は、煙と一緒に捨てられてる。もったいない話だ。壁の中に道を作って、煙は外へ、熱だけを部屋に通す。……薪も焚かず、煙も浴びず、雨の日も雪の日も、一定の温さで薬草を乾せる部屋になる」
『排熱利用・低温乾燥室——伝承元:バルガス(ガルドラ窯場の冬囲い)/タクミ(前世・設備運用)』
視界の隅で、提案モードが律儀に出典を明記する。街が覚えたことを、街に返す。この眼は今日も勤勉である。
「……窯場の冬囲いの理屈じゃな。ほう。……ほほう。面白い」
バルガスの髭が、ぶわりと膨らんだ。職人という生き物は、面白い工事の前では、大抵の遺恨を棚に上げる。
「敵だった煙と熱が、明日からは薬草の味方だ。それから三つ目。これから建てる新しい街の区割りは、最初から風で決める。住まいは風上。炉と窯は風下と川下。その間に、緩衝の緑地を挟む」
俺は、エルフたちを見た。
「緑地を植えて育てる仕事は、森の民の手が世界一だ。就きたい者は、明日から日当と飯付きで頼みたい。……言っておくが、保護は保護で続く。働いても働かなくても、配給の飯は一匙も減らない。それが、うちの規程だ」
そして最後に、セリアが一枚の紙を掲げた。
「読み上げます。本日制定、第一版」
◆◆◆◆
『デッドエンド領・生活区画管理規約(第一版)』
第一条(目的) 当領の生活区画は、種族、暮らし、作法の異なる住人が、共に住む場所である。本規約は、暮らしとぶつかる場所に、あらかじめ決まりを置くために定める。
第二条(静かな時間) 夜の鐘から朝の鐘までを「静かな時間」とする。この間、屋外での槌、歌、宴を控える。ただし、月の初めの一夜を「宴の日」とし、この限りでない。
第三条(煙と風) 煙を出す炉は、風下に置く。煙突は、隣家の屋根より高くする。乾し物の場所と煙の道は、交差させない。
第四条(水の順番) 共同水栓の朝夕は、炊事を先とする。量の要る仕事の水は時間割によるものとし、時間割は量水堰の数字に基づいて月ごとに見直す。
第五条(混ざる場所) 食堂、浴場、市場は「混ざる場所」とする。混ざる場所では、種族で席を分けない。
第六条(見直し) 本規約は、苦情台帳に基づき、月に一度これを見直す。苦情は、名を伏せて出してよい。
◆◆◆◆
「音を禁止はしない。音の日を作る。分けるところは風と時間で分けて、混ぜるところは真ん中に置く。——壁で分けるな、動線で分けろ、だ。揉める場所は離す。混ざる場所は、食堂と、湯と、これから建てる市場。……街のど真ん中に置く」
読み上げが終わると、ドワーフの若いのが、おずおずと手を挙げた。
「……あの、夜の歌は。あれも、静かな時間に入るんか」
広場のエルフたちが、身を硬くした。答えたのは、リーフェだった。鎮魂の歌であること。眠れない子らのための歌であること。彼女が事情を語り終えると、若いドワーフは、頭をがしがしと掻いた。
「……そうか。弔いか。なら、ええ。……聞こえんふりくらい、してやるわい。ワシらも、峠に一人、置いてきとる」
「規約の外で解けるなら、それが一番上等だ」
散会の後、緑地仕事の登録台の前には、エルフの若者たちの列ができた。先頭の一人が、記帳しながらぽつりと言った。
「……施される一方というのは、その、性に合わなくて」
「知ってる。だから仕事を用意した。うちの領は、そういう性分の奴で出来てるんだ」
◆◆◆◆
数日後。乾し棚は移設され、煙突は伸びた。そして集会から六日目、ドワーフの本気という物を見せつける速さで、鍛冶場の東隣に、小さな石積みの部屋が建ち上がった。
排熱乾燥室、火入れの日である。
バルガスが炉に薪をくべると、壁の中に通した煙道を、熱がゆっくりと巡り始めた。煙は一筋残らず表の煙突へ逃げ、部屋の中には、乾いた温もりだけが満ちていく。
『排熱乾燥室:稼働開始/室温:薬草乾燥に適/煙の侵入:なし』
戸口で足を止めていたエルフたちが、恐る恐る、中へ入った。天井の梁には、移設した棚から運んだ薬草の束が、ずらりと吊るされている。
リーフェが、石の壁にそっと手を当てた。
「……あたたかい。それなのに、煙の匂いが、しません」
「煙は表へ逃がしとる。ここを通るのは、熱だけじゃ」
バルガスが、腕を組んだまま答える。リーフェは壁に手を当てたまま、長いこと動かなかった。それから、振り返らずに、小さな声で言った。
「……この火は、薬を作る火、なのですね」
「…………火に、良いも悪いもあるかい」
棟梁は、ぶっきらぼうに鼻を鳴らした。
「あるのは、使い手の性根だけじゃ。ワシらの炉は、明日からあんたらの薬も作る。そういうことじゃ」
エルフの子供が一人、石の壁に耳を当てて、「あったかい音がする」と笑った。
……火の記憶は、規約では消せない。それは、あの夜のリーフェの言う通りだ。
だが、火の隣に、新しい記憶を積むことはできる。今日この部屋で、その一つ目が積まれた。
夕暮れ、規約の掲示板の前で、バルガスと並んだ。
「……増えたのう、規程が」
「あんたの予言どおりだ」
「当たって嬉しゅうない予言じゃ。……ふん。まあ、悪うない紙じゃがの」
セリアが帳面を締める。
『苦情台帳:累計三十一件。解決・二十六件。継続・四件。解決不能・一件』
「イビキは、規約では直りません」
「イビキは、世界のどこでも直らん。諦めろ」
……まあ、スキルで用途指定を行い、防音にするという方法もあるのだが、こればかりは俺が仮にここからいなくなったとしても、出てくる問題だ。我慢して、付き合っていくしかないだろう。
……前世の管理会社時代を思い出すな。騒音、ゴミ置き場、駐輪場の位置、ペットの鳴き声。クレームの電話に頭を下げながら、俺はいつも思っていた。
ビルやマンションというのは、箱の形をした人間関係だ、と。
そして、あの頃の上司の口癖も、ついでに思い出す。苦情の出ない建物は、この世に一種類しかない——誰もいない空いている建物だけだ、と。
うちの苦情台帳は、今日も繁盛している。
……つまりこの街は、ちゃんと生きているってことなのだ。




