第三十六区画「お迎えには警備最高顧問が付いてくるようです」
正午の鐘まで、あと一刻。
俺は北の山を駆け上り、岩窟の前で、単刀直入に切り出した。
「イグナリオン様。折り入って、運送のご相談が」
『……我は、乗り物ではない』
冷水の樽を舐めていた古龍は、顔も上げずに一蹴した。
「承知しております。運送ではなく——【随行飛行】をお願いしたく」
『言い換えれば通ると思うておるのか、貴様は』
「言い換えで通してきた実績がありますので」
実際、この御方の役職名も、字数の都合で三度削らせている。
『そもそも、我の出動義務は”領地への大規模な侵攻の際、入眠前に限り一度”であろうが。契約に、送迎は含まれておらぬ』
「その通りです。ですから今回は、契約の履行としてお願いするのではありません。あの一度は、取っておきたいので」
金色の目が、す、と細くなった。
「別件の役務として、新しく取引を結ばせてください。対価は——冷水の配達を、十日に一度から、五日に一度へ」
『…………』
沈黙が、山を撫でた。
『……水の量は』
「倍です」
『……ふん。まあ、よかろう。西の空の様子は、我も一度見ておきたいと思うておった』
交渉、妥結。うちの警備最高顧問は、いつだって条件次第で動いてくれる、実に話の分かる御方である。
……ちなみに後で聞いた話では、龍は工事の完工以来ずっと「暇つぶし」を探していたらしい。
◆◆◆◆
編成は二手に分かれた。
空路——俺、リーフェ、そして、イグナリオン。
陸路——セリアとザグ、馬車二台に食料、水、毛布、担架。負傷者と老人と子供を運ぶための、迎えの隊列だ。
「西へ半日の中間地点で野営し、待機します。合流したら、そこから引き返す形に」
「頼む。……先に行って、悪いな」
「いいえ。空から行けるなら、行くべきです。期限は本日、日暮れ。私の演算では、馬車では間に合いません」
セリアは帳面を閉じ、それから、少しだけ声を落とした。
「ですので、これは業務命令ではなく、私の個人的な意見ですが。——決して、落ちないでください」
「善処する」
リーフェは、龍を目の前にして、完全に硬直していた。
「あ、あの、領主様。私の氏族には、古き竜と会うたときの作法が、その、いくつか伝わっており、まず、七度の礼を——」
『不要。乗れ』
「ひゃ、はいっ!」
鱗の背に、龍が自分で編んだという網目状の突起がある。……いや、どう見ても、多分もともとある鱗の形状だ。ともあれ、掴まる場所には困らなかった。
そして——飛んだ。
地面が落ちていく感覚に、リーフェが小さく悲鳴を上げ、俺は正直、心臓が縮んだ。
だが、雲の高さで水平になった瞬間、風景が変わった。
眼下に、俺の領地が広がっていた。
銀の線を引く水路。碁盤の目に整えられた街道。碧く点在する茸の栽培床。ゴブリン村の屋根。旧市街の炉の煙。そして、三国交差点の予定地に打たれた、真新しい杭の列。
……図面が、地面の上に載っている。
前世で、俺は模型と図面でしか街を見たことがなかった。竣工後の全景を空から眺める機会など、一度もなかった。
「……いい眺めだ」
『貴様の作った物であろう』
「ええ。……まあ、そうですね」
思ったより、悪くない言葉だった。
◆◆◆◆
西へ飛ぶほど、空気が変わった。
荒野が尽き、草地が始まり、その先に——森が見えた。そして、森の南に、黒い帯。
焼け跡だ。
『……酷いな』
イグナリオンの声には、珍しく感情があった。
『火にも作法がある。森を焼くにしても、あれは食うための火ではない。奪うための火よ』
リーフェは、何も言わなかった。ただ、鱗を掴む指が、白くなっていた。
途中、眼下の丘に、鎧の一団が見えた。数は二十ほど。動きが速く、隊列が整っている。……帝国の斥候だろう。
だが彼らは、こちらに気づいた瞬間、蜘蛛の子を散らすように森の縁へ逃げ込んだ。
『ふん。逃げ足だけは達者よ』
「戦わずに済むのが、一番安い」
空を一度横切っただけで、二十の武装した敵が退く。
……改めて思う。うちの警備は、費用対効果が異常だ。
◆◆◆◆
日が傾き始めた頃、森の縁の窪地に、細い煙が見えた。
「あそこです! あの、崩れた石塔の——」
『掴まっておれ』
降下。地面が迫る。
窪地では、悲鳴が上がっていた。
当然だ。避難民の頭上に、古代龍が降りてくるのだから。弓を構える者、子供を抱えて岩陰へ走る者、腰を抜かす者。五十一人が、恐慌の渦になっていた。
着地の風圧が収まる前に、リーフェが飛び降りた。
「——待って! 待ってください、皆!」
その声で、時が止まった。
「リーフェ、様……?」
「リーフェ様だ! 生きて——」
銀髪の少女に、老人と子供たちが殺到する。泣き声と、名前を呼ぶ声。抱きつかれ、揉みくちゃにされながら、リーフェは何度も頷いていた。
ひとしきり騒ぎが収まると、しかし——空気が、変わった。
弓が、俺に向いた。十を超える矢尻が、まっすぐこちらを狙っている。
「……リーフェ様。その人間は」
「そして、その、後ろの、龍は」
構えているのは、若い男たちだ。手は震えているが、目は本気だった。この四日間、五十一人を守り続けた者たちの目である。
「弓を下ろしなさい! この方は——」
「リーフェ、待った」
俺は、彼女を手で制した。
「彼らは正しい。武装した見知らぬ人間が、龍を連れて降ってきたんだ。弓を構えないほうが、どうかしてる」
俺は両手を上げ、ゆっくりと膝を折って、目線を下げた。矢を向けられたまま、地面に片膝をつく。
「デッドエンド領主、タクミという。悪いが、そちらの長と話がしたい」
前へ出てきたのは、白髪の老エルフだった。杖を突いているが、背筋はまっすぐだ。
「……長老は、火の夜に。今、この者らをまとめておるのは、そこな娘と、儂ら年寄りにございます」
「では、あなたに話す。単刀直入に言う。うちの領へ来てほしい」
窪地が、ざわめいた。
「一日半分の道のりだ。うちの馬車と食料が、明日には合流する。傷を診て、飯を出して、屋根の下で寝てもらう。……そのための紙を、持ってきた」
俺は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
昨夜のうちにセリアが清書した、大きな字の写しである。
「読めない者もいるだろう。だから、読み上げる」
そして俺は、焼け跡の匂いのする窪地で、一時保護規程を、一条ずつ、声に出して読んだ。
第二条。手当てと、三度の食事と、屋根。
第三条。種族も、来歴も、支払い能力も、問わない。
第四条。対価として、労働も、物品も、金銭も、求めない。
第五条。三十日の後、住むか、去るか、延ばすかを、自分で選べる。去る者には、道中の食料と水を持たせる。
第六条。働かないことを理由に、飯を打ち切らない。
読み終えても、誰も、弓を下ろさなかった。
やがて、老エルフが、掠れた声で言った。
「……人間の言葉で、そう書いてあるのですな」
「ええ」
「森の民は、この百年、人間の紙を三度見ました。交易の約定、通行の許し、そして——中立の誓い。三度とも、破られましてございます」
老人は、焼けた森の方を、顎でしゃくった。
「あの火をつけた者らも、紙を持って参りました。『樹を分けてくれれば、里は焼かぬ』と」
……なるほど。
どこの世界にも、同じ手口がある。この老人が信じないのは、正しい。三年前の雪の夜に判を捺した棟梁も、こう疑えていれば、金床を失わずに済んだのだ。
「うますぎる話には、裏がある。そう言いたいということか」
「…………」
「もっともな話だ。答えよう。この紙の裏は、第五条の二号にある」
俺は、その一行を指した。
「三十日経ったら、出て行っていい。その時は、道中の食料と水を持たせる。……つまりこの紙には、出口が書いてある。入口しかない紙は、罠だ。出口のある紙は、そうじゃない。俺はそう教わったし、そう教えてきた」
「……教えて、きた」
「うちの領で、二番目に来た住人にな。金床を七基、紙一枚で取り上げられた男だ。今は、うちの街道と水路を敷いてる」
その時だった。
俺の後ろから、鍋兜がのそりと歩み出た。
弓が、一斉にそちらを向く。ゴブリンだ。エルフにとっては、森を荒らす害獣の類である。
ザグはまだ陸路の途中だ。歩み出たのは、龍の背に同乗させていた、彼の副長ガグだった。ザグ本人に「代理として一人つけろ」と言われて、勝手に乗り込んできたのである。
「……お、俺たち、ゴブリンだ」
拙い共通語だった。
「山、追い出された。行くとこ、なかった。砦、勝手に住んでた。……そこへ、こいつが来た。カミ持って、来た」
ガグは、自分の胸を、拳で叩いた。
「食わせる、って書いてあった。働けない、ちびとよぼよぼも、食わせるって、書いてあった。……本当に、なった」
窪地が、静まり返った。
魔物が、エルフに向かって、人間の契約の履行実績を証言している。
……前世の営業でも、こんな推薦人は使ったことがない。
老エルフは、長いこと黙っていた。
それから、ゆっくりと、杖を持ち替えた。
「……若い衆。弓を、下ろせ」
「し、しかし長老代理——」
「下ろせと言うた。……儂らには、もう、選べる道が二つしかない。南へ抜けて、半分が死ぬ道か。北へ行って、騙されるかもしれん道か」
老人は、俺を見た。
「騙されるほうが、まだ、皆が生きている」
弓が、下がった。
一本、また一本。矢が筒に戻り、弦が緩んでいく。
最後に老エルフが、深く、深く頭を下げた。
「……銀葉の氏族、五十二名。お世話に、なります」
「歓迎する。——ああ、それと」
俺は立ち上がり、埃を払った。
「先に謝っておく。うちの街は、鍛冶場の煙が出るし、ゴブリンが酒盛りで騒ぐ。……森の民の作法に合わないことが、山ほどあるはずだ」
老エルフが、面食らった顔をした。
「そういう話は、後で揉めるより、先に言っておくものでね。揉めたら、その都度、規約を作って直す。それが、うちのやり方だ」
「……変わった、御方じゃ」
「よく言われる」
◆◆◆◆
翌日の昼、中間地点でセリアたちの隊列と合流した。
馬車から降ろされたパンとスープの前で、五十一人がどうなったかは、まあ、書くまでもない。老ドワーフ考案の『回復食・一号』は、この日、一気に五十一人分の実績を積んだ。
ザグとガグは肩を組んで再会を喜び、その隣でエルフの子供たちが、恐る恐るゴブリンを見ていた。
「……あの子ら、ゴブリンを見て泣きませんね」
「ガグが証人に立ってくれたからな。子供は大人の顔を見て決める。大人が弓を下ろせば、子供も怖がらない」
そして——
行列は、旧関所跡の境界石に差し掛かった。
俺は先頭で、いつも通りの手続きをやった。
「デッドエンド領主タクミ。本日、五十一名の入領を確認します。——はい、どうぞお通りください」
「……相変わらず、何をなさっているのですか」
「行政は手続きが命だ」
そして、行列が境界の線を越えた、その瞬間。
エルフたちが、一斉に、足を止めた。
誰かが、崩れるように膝をついた。老人が杖を落とし、若い母親が子供を抱いたまま立ち尽くし、少年が、両手を地面についた。
嗚咽が、さざ波のように広がっていく。
「……なんですか、これは」
セリアが、戸惑ったように呟いた。
リーフェが、震える声で答えた。
「……地脈が」
彼女は、両手で口を覆っていた。
「地脈が、歌っています。……こんな、こんなに濃くて、澄んだ流れは、伝承の中にしか、森の最も古い唄の中にしか、ありません」
俺には、聞こえない。俺の眼に映るのは、いつもの査定タグだけだ。
だが、五十ニ人のエルフが、荒野の真ん中で、涙を流して立ち尽くしている。
……不動産の仕事を二十年やってきて、これほど分かりやすい「内見の反応」を見たことはない。
「セリア。人口を」
「はい。——現在、当領の住民は、人間二名、ゴブリン三十二名、ドワーフ二十七名、エルフ五十二名。合計、百十三名。……と、警備最高顧問が一頭」
「二ヶ月前は、二人だったな」
「あなたと私と、馬が二頭でした」
セリアは帳面を閉じ、正面を向いた。
その先には、水路の銀の線と、街道の轍と、湯気を上げる浴場と、建ちかけの酒蔵と、まだ杭しか打たれていない、交差点の予定地がある。
「……住居が、足りません」
「知ってるさ」
「食糧も、足りません」
「それも知ってる」
「では、どうなさいます」
「決まってるだろ」
俺は、まだ何も建っていない交差点を指差した。
「稼ぐんだ。——冬までに、あそこで」




