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第三十五区画「保護は施しではなく制度のようです」


 少女が目を覚ましたのは翌朝、朝礼の「ご安全に」の唱和が終わった、ちょうどその直後だった。


「りょうしゅー! おきた! め、あいた!」


 二階の窓から見張り番の子ゴブリンが叫ぶ。……うちの朝礼は、目覚まし時計としても優秀らしい。


 療養室の戸を静かに開けると、少女は寝台の上で半身を起こし、警戒の色を隠しもせずにこちらを見ていた。


 銀の髪。森の若葉のような緑の瞳。その顔は、思っていたよりずっと幼い。そして細い腕は、あの焼け焦げた革包みを、しっかりと抱え込んでいる。


「おはよう。動かないでいい」


 俺は戸口で足を止め、両手を軽く上げてみせた。


「俺はこの土地の領主で、タクミという。君は昨日の朝、西の草地で倒れていた。うちの子供らが見つけて、ここへ運んだ。……鍵は内側から掛かる。掛けてくれて構わない」


 緑の瞳が、俺の顔と、開いた戸と、腕の中の包みを素早く往復した。やがて、掠れた声が漏れる。


「……水を」


「セリア」


 背後から、セリアが椀を持って進み出た。少女は差し出された椀に一瞬身を固くし、匂いに気づいて、目を見開いた。


 薄い麦の粥。昨夜、老ドワーフが厨房の隅で煮ていた『回復食・一号』である。


「長く飢えた腹は、いきなり濃いものに驚くそうだ。うちの長老の受け売りでね」


 少女は椀を受け取り、しばらくそれを見つめ、食べ始めた瞬間、匙を持つ手が震え始めた。二口、三口。粥の水面に、ぽたり、と雫が落ちる。


「……申し訳、ありません。あたたかいものが、久しく……」


「謝らなくていい。うちの食堂は、泣きながら食う客に慣れてる」


 実際そうなのだ。ゴブリンも、ドワーフも、初めてまともな飯を出された日は、大体こうなった。


 二杯目が半分ほど減った頃、少女は椀を膝に置き、居住まいを正して、深く頭を下げた。


「……アルフヘイム大森林、銀葉の氏族。リーフェと申します。命を、拾っていただきました」


「タクミだ。こっちの彼女の名前はセリアだ。よろしく。それで、リーフェ。何日眠っていたか、気にしているだろう」


 彼女の肩が、跳ねた。


「丸一日と少しだ。倒れていたのは昨日の朝。今は、その翌朝になる」


 瞬間、リーフェの顔から血の気が引いた。寝台から降りようとして、膝があっけなく折れる。倒れかけた体を、セリアが素早く支えた。


「安静に。まだ立てる状態ではありません」


「離してください……! 行かなければ、皆が……」


「皆、というのは」


 荒い息のまま、リーフェは顔を上げた。


「……森の縁に。私の氏族の生き残りが、五十一人、待っております」


  ◆◆◆◆


 落ち着かせ、水を飲ませ、寝台へ戻して。それから聞き取った話は、こういうものだった。


 アルフヘイム大森林の南縁は、燃えている。西のゼノス帝国が、魔法薬の原料になる樹を根こそぎ運び出し、抵抗する氏族の里ごと下生えを焼き払っている。


銀葉の氏族の里が焼けたのは、ひと月ほど前の夜。


「長老は……皆を逃がすために残り、火の中で」


 リーフェは一度、言葉を切った。


「私は薬師でした。長老について、薬と地脈を学ぶ見習いで……気づけば、里で一番年上の”学んだ者”になっておりました」


 五十一人。うち老人と子供が半数以上。負傷者を抱え、薬も食料も尽きた。東へ逃げようにも、街道は帝国の斥候が押さえている。


「森の中を、東へ東へと逃げました。ですが、どの方角にも、生きて越えられる道がなくて……」


「そこで、地脈か」


 リーフェが、はっと顔を上げた。


「……お分かりに、なるのですか」


「うちの補佐の推測だ。当たっていたようだな」


 セリアが小さく会釈する。リーフェは目を伏せた。


「私たちエルフは、大地のマナの流れを肌で聴きます。……この十五年、東の空はずっと痛んでおりました。大きな傷が澱んで、膿んでいるような。近づいてはならぬ方角だと、伝えられておりました。それが今年の春、消えたのです」


 彼女は、そっと胸に手を当てた。


「ある日を境に、東から流れが戻ってきました。澄んだ、太い流れが。森の者は皆、驚きました。神代の傷が癒えることなど、あるのかと」


 ……ある日を境に。放流路が開通し、山が十五年ぶりに黙った、あの朝だ。


 俺があの日抜いたのは、寝不足の竜の枕元の栓一本である。それが地図の外の森にまで届いていたとは。


 工事の影響範囲は、いつだって敷地の外まで届くものだな。まあ、前世で住民説明会のたびに頭を下げた文言だ。あの頃は大抵、悪い影響の話だったが。


「流れの源を辿れば、澱まぬ水と、生きた大地があるはずでした。ですが、それは死の土地と呼ばれる方角で。誰も信じません。地図には、何も無いのですから」


「それで、一人で来たのか」


「私が言い出したことです。ならば私が確かめるのが筋かと。……五日で戻ると約束して出ました。もう四日目です。あと一日で戻らねば、皆は私が死んだものとして、帝国の勢力圏を突っ切る方へ動くと決めております」


 リーフェは、膝の上の革包みを握りしめた。


「お願いです、領主様。水と、あと少しの食べ物を分けていただけませんか。対価に差し出せるものが、これしかないのですが」


 彼女は包みを解いた。焦げた革の中から現れたのは、十数種の、小さな種子だった。


「銀葉の氏族が代々受け継いできた、薬草の種です。火の中から、これだけを持ち出しました。育て方は、私が全て頭に入れております」


「タクミ様」


 セリアが静かに口を開いた。


「彼女は今、この街の商品価値を一切知らないまま、自分の持てる最上の資産を開示しました」


「……ああ」


 鑑定眼は相変わらず『市場価値:銅貨数枚』と表示している。そりゃそうだ。この世界の市場は、正しい薬草の種の値打ちを知らない。産地が焼かれつつあることも、供給が絶えたとき何が起きるかも、まだ誰も計算していない。


 ……俺の眼が値付けを間違えるのは、これで何度目だろうか。


「リーフェ。悪いが、その取引には応じられない」


 彼女の顔が強張った。


「……では」


「話を最後まで聞け。取引をしないと言ったんだ。断るとは言っていない」


  ◆◆◆◆


 執務室。セリア、ザグ、バルガス。昨日と同じ顔ぶれである。


「西から、五十一人来る」


「……来る、と決めておられるのですね」


「決めた。猶予は一日。検討している時間はない。それに、負傷者と老人と子供を抱えた五十一人が帝国の勢力圏を突っ切る、あれは移動じゃなく、全滅の予約だ。そして」


 俺は卓に種の包みを置いた。


「薬師と、薬草の種と、それを育てる知識。うちの街には今、医がいない。喉から手が出るほど欲しい人材が、五十一人の中に丸ごと入ってる。人道と経営判断が一致してるんだ。迷う要素がない」


「……三つ目を最後に置くのは、ずるいと思います」


「事実は、順番を選んで並べていいものなんだ」


 セリアは帳面を開いた。


「試算は昨夜のうちに三案作りました。五十一名を受け入れた場合、当領の食糧備蓄はこの冬を越せません。不足は輸入で賄うほかなく、越冬までに輸送費込みで金貨七十枚。……もしも時のゴルドー商会の債権買い取り用に温存している九十枚を、崩すことになります」


「反対の意見か?」


「いいえ。前提の共有です」


 彼女は顔を上げた。氷の令嬢の顔だった。


「反対であれば、三案も作りません。あなたには『金は出る、しかし出せる』という数字を正確に把握したうえで決めていただきたい。それが私の職務です。それに……」


 セリアは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「追われて、行き場がなく、地図の外へ逃げてくる者を、タクミ様は……この土地は断りません。ゴブリンの時も、ドワーフの時も。そして、私の時も、そうでした」


 執務室が、静かになった。


 やがてザグが、鍋兜の下からぼそりと言った。


「山、追われたのは、俺たちと、同じだ。……ちびと、よぼよぼが、いるんだろ。なら話は終わりだ。窪地の空きは、まだある」


 バルガスは腕を組み、髭の奥で長く唸ってから、鼻を鳴らした。


「森の民は、ワシらの炉を嫌う。揉めるぞ。間違いなく、揉める。……じゃが、飢える連中を見捨てて建てた街に、ワシは住みとうない。揉めた時のことは、揉めてから考えりゃええ」


「うちの領民たちは話が早い」


「早うない。渋々じゃ。渋々、賛成しとる」


  ◆◆◆◆


「さて。そうなると、昨日の宿題の提出だ」


 俺は羊皮紙を引き寄せた。


「『行き倒れをどの科目で計上するか』。答えは、新しい制度を作る、だ」


 ペンを取る。……ここが、一番大事なところだ。


 飢えた相手に飯と屋根を出すこと自体は、誰にでもできる。難しいのは、その後だ。


 三年前の雪の夜、ドレルという男は、まずこれをやった。荷を解き、湯気の立つ粥を配り、子供らが群がるのを見せてから満たされた腹の前に、蟻の行列のような証文を差し出した。飯が先、紙は後。慈善の顔をした、完璧に設計された狩りだ。


 だから俺は、順番も中身も、逆をやる。


  ◆◆◆◆


『デッドエンド領・難民一時保護規程』

 第一条(目的) 火災、戦火、災害その他により、住む場所と食う手立てを失って当領に至った者を、当領は保護する。保護は領の制度として行うものであり、施し、恩恵、貸付のいずれでもない。

 第二条(内容)

 一、傷と病の手当て。

 二、一日三度の食事。

 三、屋根と寝床。

 第三条(無条件) 前条の保護に、条件を付さない。身分、種族、来歴、支払い能力の有無を問わない。

 第四条(対価の禁止) 当領は、保護を受けた者に対し、その対価として労働、物品、金銭、権利その他一切の給付を求めない。保護をもって、後日、何らかの義務を負わせる契約を結ばない。

 第五条(期間) 保護の期間は、当領に至った日から三十日とする。満了までに、当人の意思により次のいずれかを選ぶことができる。

 一、当領の住人として働き、暮らすこと。

 二、当領を去ること。この場合、当領は道中の食料と水を持たせる。

 三、期間の延長を求めること。傷、病、幼年、老齢その他の事情があるときは、これを認める。

 第六条(就労の任意) 前条第一号を選ぶか否かは、当人の自由な意思による。働かないことを理由に、第二条の保護を打ち切らない。

 第七条(掲示) 本規程は、当領の門、砦、及び食堂に常に掲示する。読めぬ者のために、求めがあれば、いつでも読み上げる。


  ◆◆◆◆


「……第四条」


 セリアの指が、その一行で止まった。


「『保護をもって、後日、何らかの義務を負わせる契約を結ばない』。——わざわざ、書かれるのですね」


「書くさ。善意ってのは、放っておくと必ず請求書に化けるんだ。出した側が忘れていても、受け取った側は覚えてる。『あの時助けてもらった』その負い目が、何年か経って、ただでさえ断れない話を更に断れなくさせる」


 三年間、金床を縄で縛られていた一族の顔が浮かんだ。


「だから先に切っておく。この飯には紐が付いていない。何も返さなくていいと、紙に書いておく」


 バルガスが、深く長く息を吐いた。


「……領主どの。お主、時々、恐ろしいことを当たり前の顔で書くの」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒めとらんわ。……いや、褒めとるか。ふん」


 セリアは規程を三度読み返し、静かに帳面へ書き付けた。


『新科目:一時保護費(領の制度支出)。備考:回収を予定しない支出であり、貸付金ではない。』


「これで、帳簿が通ります。……なお提出は、期限より一刻ほど超過しています」


「厳しいな、うちのCFOは」


  ◆◆◆◆


 清書を持って、療養室へ戻った。


 リーフェは寝台の上で、扉の音に鋭く反応した。答えを待つ者の目だ。


「取引には応じられない、と言った理由を説明する。——セリア」


「はい」


 セリアが規程を両手で掲げ、一条ずつ、ゆっくりと音読した。難しい言い回しは、その場で噛み砕きながら。


 第二条で、リーフェの目が見開かれた。第四条で、肩が震え始めた。第五条の「去る場合、道中の食料と水を持たせる」で、彼女は両手で口を覆った。


 読み終わっても、しばらく誰も何も言わなかった。


「分かったか。君の種は受け取れない。取引じゃないからだ」


 俺は包みを、彼女の膝へ押し戻した。


「保護は、うちの制度だ。誰かが払うものじゃない。だから君は、何も差し出さなくていい」


「……なぜ」


 掠れた声だった。


「なぜ、そこまで。私たちは、あなたの民ではありません。何の縁もゆかりも」


「あるさ」


 俺は北の窓を指した。


「君たちが辿ってきた、あの澄んだ流れ。あれを通したのは、俺たちの工事だ。四月に、あの山の下で栓を抜いた。……つまり君は、俺が敷いた導線を辿って、うちの店まで来てくれた客だ。うちの水の匂いを嗅ぎつけて、地図の外から歩いてきてくれた。そんな客を門前で追い返す商売はしていない」


「……あきないの、話に、なさるのですね」


「その方が、君も気が楽だろう?」


 リーフェは、しばらく俺の顔を見つめていた。


 それから初めて、泣いた。声も上げず、姿勢も崩さず、背筋を伸ばしたまま、ただ、ぽろぽろと。長老を喪った夜も、里が焼けた夜も、五十一人を背負って歩いた四日間も、多分、ずっと泣いていなかった娘の、遅れてきた涙だった。


 セリアが黙って、清潔なハンカチを差し出す。


 ……その光景に、既視感があった。実家の裏庭。泥に汚れたリボンと、白いハンカチ。あの日ハンカチを受け取った少女が、今度は差し出す側に立っている。


「……ありがとう、ございます」


 リーフェは涙を拭い、決然と顔を上げた。


「領主様。一つだけ、お願いがございます。私を、迎えに行かせてください。五日目の日暮れまでに私が戻らねば、皆は南へ発ちます。私の顔と、私の声でなければ、あの者たちは動きません」


「立てるのか」


「……立ちます」


 膝は、まだ震えている。到底、四日分の道のりを歩ける身体ではない。だがその目は、もう倒れる者の目ではなかった。


「よし。行こう。ただし、歩いてはいかない。うちには馬車があるし、街道はこの春に敷き直したばかりだ。それに……」


 俺は窓の外、北の山を見た。ちょうど、朝の散歩を終えた巨大な影が、悠然と稜線を越えていくところだった。


「うちの警備最高顧問がたまには働きたいと言っている。……恐らく……多分、言っていると思う。言わせてみせる」


「……あの、領主様。今、何と」


「善は急げだ。支度は正午の鐘まで。セリア、遠征の編成を。バルガスは留守、ザグは同行だ」


「はい。——ですが一つ。五十一名の入領は四日後です。それまでに住まいと、食事の段取りと、掲示の準備を」


「全部、間に合わせる。うちの街には、それができる連中しかいない」


 窓の外では、鍛冶の槌音と、石灰窯の火番の声と、水路の点検を報せる笛が、いつも通りに鳴っていた。


 ……数日後には、この街の人口は、ほぼ倍になる。


 開発というのは、いつもこうだ。段取りは常に、事態の一歩後ろを走り、追走していかなければならない。


 だが今回は……迎えにいく側に龍がいる。

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