第三十四区画「行き倒れのエルフは水の匂いを辿ってきたようです」
密偵という名の「よく買ってくれるお客様」が南へ帰って、数日が経った。
北方の短い夏は、いまが盛りだ。昼の陽射しは強いが、朝の空気には早くも、秋の端切れのような涼しさが一筋混じる。荒野の緑は日ごとに濃くなり、セレン川の源流は、去年より確かに太い音を立てて流れている。
デッドエンドの一日は、朝礼から始まる。
砦前の広場に、六十近い頭数が輪を作る。ゴブリン、ドワーフ、人間二名。種族も背丈もばらばらだが、並びだけは、どこの国の兵隊より揃っている。毎朝やっていれば、誰でもこうなるのだ。
「——本日の予定を読み上げます」
セリアの声が、朝の空気を切る。
「鍛冶場、農具の打ち直しを継続。石灰窯、四窯目の火入れ。陶管窯は冷まし。酒蔵は屋根板張り、今週中の完工見込み。水班は量水堰の月次計測。それから——緑化の記録範囲を、本日より西の草地まで広げます。記録係、お願いします」
「「はーい!」」
子ゴブリンが二匹、誇らしげに手を挙げた。芽の数を数える記録係は、点呼板の番人と並ぶ、ちびたちの花形役職である。
緑は、確実に広がっていた。春に十七本だった芽は、夏には数えきれなくなり、記録の単位は「本」から「区画」へ格上げされた。セリア曰く、復興の先行指標。俺に言わせれば、地価上昇の予兆である。
「危険予知。本日の危険、三つ」
「窯の火!」「暑さ!」「アネゴ!」
「……最後を言った者は、後で面談です」
朝から平常運転である。
「——ご安全に!!」
「「「ご安全に!!」」」
六十の声が揃い、輪が解けて、それぞれの持ち場へ散っていく。
俺は広場の隅の平石に、図面を広げた。三国交差点の予定地に建てる、市場と工房直売と宿と食堂とを一つ屋根に束ねた、大きなハコ。……この計画の名前は、まだ誰にも言っていない。
図面の中央には、吹き抜けの市場棟。入った人の流れが右回りにぐるりと一周して、また入口へ戻ってくるように、店の並びと通路の幅を、もう何十回も引き直している。人はハコに集まるのではない。ハコの中の「回りやすさ」に集まる。
「タクミ様、朝の報告です」
セリアが帳面を手に、隣に立った。例の一件以来、ようやく帳簿ごと表に戻ってきた、我らがCFOである。
「隠れ仕事は終わりか」
「ええ。機密扱いは、肩が凝ります」
「等級は据え置きだぞ」
「……仕事の話をします。ノルトール経由の注文、また増えました。干し茸の在庫が追いつきません。増産計画は本日中に組みます。それから、先日の”お客様”への物販売上、確定しました。科目は仰せの通り、『広告宣伝費・回収』で計上しています」
「王都で一番筆まめな口コミ屋に、うちの商品を持たせたんだ。安い広告さ」
「あの方の報告書が、上役の前でどんな顔で読まれるのか。……少しだけ、見てみたい気はします」
偵察対象から土産を言い値で買って帰った密偵の報告書だ。さぞ、書きにくかったろう。
と、俺が口の端で笑った——その時だった。
◆◆◆◆
笛が、三回鳴った。ピッ、ピッ、ピッ。と短く、鋭く、三つ。
広場に残っていた全員の動きが、一瞬で止まった。
一回は、作業中断。二回は、退避。そして三回は、救助要請。
この領の合図系統で、三回目が訓練以外で吹かれたのは、これが初めてだった。
「西! 西の草地です!」
セリアが方角を言い切るより早く、足が動いていた。背後で誰かが「担架ァ!」と吠え、資材小屋の戸が撥ね開く。命綱、担架、治療薬、水袋——この春からの工事で常備になった救助セット一式を、グズの班が言われるまでもなく担ぎ上げている。
段取り八分、仕事二分。
うちの現場は、俺が胸を張っていい速さで動く。西の草地までは、駆けて数分。夏草を掻き分けた先で、記録係の子ゴブリンが二匹、ぴょんぴょん跳ねて位置を報せていた。
「りょうしゅ! ここ! ここ!」
「たおれてる! ひと、たおれてる!」
その足元に——細い影が、うつ伏せに倒れていた。
土に汚れた、銀色の髪。焼け焦げた外套。すり切れて、底の抜けかけた靴。外套は夜露をたっぷり吸って、色が変わっている。……昨夜のうちに倒れて、朝までここにいたということか。
そして、乱れた髪の間から覗く耳が——長く、細く、尖っていた。
「……エルフ」
『行き倒れ(エルフ・少女):魔力枯渇・重度/脱水・重度/栄養不良/左腕に火傷/意識・混濁』
『経過:倒れてから推定・半日』
『緊急度:最大』
『周辺マナ濃度:高——回復環境として良好』
鑑定眼のタグが、視界に赤く並ぶ。数字を読み終えるより先に、膝をついていた。首筋に指を当てる。脈は、ある。速く、弱い。呼吸は浅く、唇はひび割れて白い。
『——解決策を、提示しますか?』
(頼む!)
『応急処置(伝承元:タクミの前世・建設現場の救急対応)』
一、風通しのよい日陰へ移す
二、水は少量を、回数を分けて含ませる
三、火傷は清水で冷やし、清潔な布で覆う
四、身体の冷えに注意し、乾いた布で保温する
※医術の専門知は当領に未収蔵のため、提示できるのは以上です
……俺の記憶を、俺に提案してきやがった。
だが、内容は正しい。二十年の現場暮らしで、行き倒れと熱中症の初動だけは骨身に叩き込まれている。そして、最後の一行の意味は——後でゆっくり、嫌というほど考えることになるだろう。
この街には、まだ「医者」がいないのだ。
「日陰を作れ! ゾグ、水! 少しずつだ、一気に流し込むな!」
外套を脱いで頭上に翳す者、水袋を差し出す者。少女の上体をそっと起こし、匙で唇を湿らせる。一匙。間を置いて、また一匙。細い喉が、微かに動いた。……飲めている。いい兆候だ。
「治療薬!」
「火傷に使う。——遠慮するな、高い方だ」
左腕の焼け痕に、惜しみなく振りかける。傍らのドワーフの若い衆が、ぼそりと呟いた。
「……相変わらず、上等の薬を惜しまん御仁じゃ」
「うちの領の伝統だ」
濡れた外套を脱がせ、乾いた布で包み直し、担架へ移す。そこで、気づいた。
右の拳が、固く握り込まれている。
中には、焼け焦げた小さな革の包み。運びやすいようにと、そっと指を開かせようとして、開かない。意識のない身体が、それでも、これだけは離すまいと握り続けている。
『焼け焦げた革包み:内容物・植物の種子(十数種)/市場価値:銅貨数枚』
「……そのままでいい。包みごと運べ」
銅貨数枚。俺の眼は、そう値付けした。
だが、火の中から身一つで逃げた者が最後まで手放さなかった銅貨数枚の価値を俺は他にも知っている。
泥に汚れた青いリボンとか、持参金の革袋とか。
……俺の眼はどうも、肝心なものに限って、値付けを間違えるのだ。
「はっけん、よし!」
子ゴブリンたちが、揃いの指差し確認を決めた。
「ああ、大手柄だ。今夜は肉一切れ追加だな」
「「やったー!!」」
◆◆◆◆
担架は、驚くほど揺れずに砦へ運ばれた。
担ぎ手の先頭は、ガリムである。あの崩落からひと月半。脚のすっかり利くようになった彼は、「担架」と聞くなり、誰より早く駆けつけてきた。
「担架なら任せてくれ。……乗った側の経験者は、揺らし方が分かるんだ」
「頼もしいが、あまり自慢するところじゃないぞ、それは」
道すがら、行き交う領民が手を止め、担架の上を見て、口々にざわめいた。
「エルフ……?」
「森の民が、なんでこんな最果てに」
「ざぐ、えるふって、なに?」
「森の親戚だ」
鍛冶場の前では、バルガスが腕を組んで立っていた。担架の上の長い耳を一瞥して、眉間の皺が、目に見えて深くなる。
「……森の民、じゃと」
「知り合いか?」
「まさか。じゃがの、領主どの。木を伐って炉を焚くワシらと、木を守って炉を嫌うあやつらは、大陸のどこへ行っても、まあ、犬と猫じゃ」
「うちでは犬も猫も、同じ食堂で飯を食ってもらう決まりでね」
「……ふん。せいぜい、規程とやらを増やすことじゃな」
肩越しに投げられたこの一言が、後にまったくもって正確な予言になるのだが、それは、もう少し先の話である。
砦では、セリアが先回りして部屋を整えていた。二階の、日当たりのいい一室。寝台に真新しい敷布、水差し、桶。
「鍵の掛かる部屋にしました」
「……鍵?」
「目が覚めた時、ここがどこか分からないはずです。せめて内側から閉められる扉があれば、心細さが、少しは違いますから」
……なるほど。セリアは知っているのだ。知らない土地で目を覚ます朝が、どういうものかを。家出中の令嬢は、そういうことを、事務連絡の顔でさらりと言う。
「着替えと清拭は私が。殿方は退出を」
「はい、ただちに」
◆◆◆◆
午後。執務室に、臨時の対策会議を招集した。出席は俺、セリア、ザグ、バルガス。
議題『西から来た行き倒れについて』
「まず容態。セリア」
「熱は峠を越えつつあります。水も飲めています。火傷は治療薬が効いて、痕は残らない見込み。ただ……痩せ方が尋常ではありません。まともな食事を摂っていない期間は、十日やそこらではないかと」
「りょうかいだ」
「次に、出どころ。……外套に、焦げた匂いが染みついていた。生木の焼ける匂いだ。恐らく、西で森が燃えてる」
「アルフヘイム、ですか」
「方角と距離からして、そうなる。山火事か、それとも——」
戦、という言葉は、飲み込んだ。確証がない。だが、テオが置いていった「西の雲行きが怪しい」という商人の噂と、この焦げ跡は、嫌な具合に符合する。
「ザグ。西の境界の見回りを増やしたい。ただし」
「分かってる。線の外には出ない。岩と草の陰から、見るだけだ」
「頼む。それと、追加の依頼だ。誰か一人でも人影を見たら、争わず、まず頭数を数えてくれ。……これは、彼女一人で終わる話じゃない気がする」
「む。……肉、三切れ」
「二切れと、干し茸ひと掴み」
「のんだ」
交渉成立である。バルガスが、髭の奥から低く訊いてきた。
「領主どの。もし、その火が娘の追っ手ごと、こっちへ流れてきたら、どうするんじゃ」
「その時のために、うちには大陸最大の警備看板が立ってる。……次に山へ水を届ける日、顧問殿に西の空の見回りを一巡り頼むつもりだ。あの高度からの目視は、地上の斥候百日分に勝る」
「竜を物見に使う領主も、大陸広しといえど、お主くらいのものじゃろうよ」
会議の締めに、セリアが帳面を開き、事務の顔で切り込んできた。
「タクミ様、確認です。あの方の治療費、食費、部屋代——どの科目で計上しますか。当領の帳簿に『行き倒れ』の科目は存在しません」
……来たな。
「保留にしてくれ。明日までに、答えを紙にする」
「紙に」
「ああ。これは、場当たりの施しじゃなく、仕組みにする。……善意ってのは、俺の気分で出したり引っ込めたりするうちは、資産にならないんだ」
セリアはしばらく俺の顔を検分し、それから几帳面な字で書き付けた。
『新科目:検討中(回答期限・明朝、領主)』
うちのCFOは、領主への宿題にも締切を切る。
「それと、厨房に伝達を。目覚めの一杯は、ゴブ茸の粥。……肉は抜きで」
「肉抜き、ですか」
「森の親戚は、肉より草だそうだ。出典は、ザグのばあちゃんだが」
「……出典として帳面に残すのは、少々ためらわれますね」
「なお、先回りして申し上げておきますと」
セリアが、頁を一枚めくった。
「西からの客人が、仮に十名、三十名、五十名の単位で続いた場合——食糧と住居と冬支度の試算を、今夜中に三案、作っておきます。……どうせあなたは、受け入れると仰るので」
「……まだ何も言ってないぞ、俺は」
「タクミ様の隣に四月からいれば、誰でもこうなります」
◆◆◆◆
夕食の食堂は、いつもより少しだけ、ざわついていた。
「エルフってのは、あれか。花の蜜でも吸って生きとるのか」
「馬鹿を言うでない。ワシの祖父さまは、森の縁の市で矢傷を診てもろうたことがあると言うとった。薬の腕は、本物じゃと」
「けど親方、森の連中は、儂らの炉の煙を——」
「……飯時にする話か。食え」
ドワーフたちの卓は、複雑である。悪意ではない。ただ、長い歴史の澱のようなものが、匙の動きを少しだけ重くしている。
一方、ゴブリンの卓は単純明快だった。
「みみ、ながかった!」
「はやく、おきないかなー」
「おきたら、ゴブ茸、たべさせるんだ!」
子供らは新しい隣人の目覚めを、祭りの前日のように待っている。……この楽観は、うちの領の貴重な無形資産だ。
その輪の外れで、検収番だった例の老ドワーフが、厨房の隅に立っているのが見えた。小鍋で、何かをことこと煮ている。
「……薄い麦の粥じゃよ。長く飢えた腹は、いきなり茸では驚く。まずは、これからじゃ」
「詳しいな」
「……追放の峠で、嫌というほど覚えさせられたでな」
老人はそれきり黙って、鍋を掻き回した。飢えた者の最初の一杯の正解を、この一族は、身銭で知っているのだ。
「その作り方、厨房の献立表に正式に載せてくれ。名前は『回復食・一号』だ」
「かいふくしょく……なんじゃ、それは」
「うちの領の、新しい定番になる予感がしてね」
◆◆◆◆
夜。療養室の隣の詰所で、見張りの番を組んだ。最初の番は、俺とセリアである。
卓にランプが一つ。開け放した戸の向こうで、少女は浅い呼吸のまま、眠り続けている。
夜食の堅パンを齧っていると、ザグが顔を出して、例の講座を開講してくれた。
「領主。教えといてやる。エルフは、森の親戚だ」
「岩の下の親戚に、森の親戚。……お前のばあちゃんの世界は、親戚が多いな」
「みんな親戚だ。ばあちゃんが言ってた。……ただ、森の親戚は、目と耳が、いい。嘘、すぐバレる」
「肝に銘じよう」
「あと、歌が上手い。怒ると、長い。ばあちゃんが言ってた」
「どっちも覚えておく」
講座を終えて引き上げるザグと入れ替わりに、静けさが詰所に戻ってきた。
枕元の卓には、あの焼け焦げた革包みが置いてある。清拭の間も、ついに手放さなかったのを、セリアが「持ち主の手の届く場所に」と、そのまま置いたのだ。
『焼け焦げた革包み:内容物・植物の種子(十数種)/市場価値:銅貨数枚』
タグは昼と同じ値を、律儀に表示している。
……種、か。
金貨でも、宝石でも、パンでもなく。火に追われた娘が最後まで握っていたのは、まだ芽も出ていない来年の森だった。
「……また『算定不能』か」
「何か仰いましたか」
「いや。うちの周りには、そういうものばかり集まる、という話さ」
と——寝台の上で、乾いた唇が、微かに動いた。
「……みず……」
セリアより早く、水差しを取っていた。上体を支え、匙で一口。間を置いて、もう一口。細い喉が、こく、と鳴る。
「……きれい、な……みず……」
うわ言だった。目は、閉じたままだ。
それでも、ひび割れた唇の端が、ほんの少しだけ緩んだ。眉間から力が抜けて、呼吸がひとつ、深くなる。
俺は水差しを置き、思わず天井を仰いだ。
「……うちの水道は、大陸の遥か遠くまで看板を出してたらしい」
「帳面に控えます。『当領の水、領外のお客様・一名様ご利用』」
セリアの筆が、ランプの下で走った。声はいつも通り平坦だったが、そのペン先は、心なしか丁寧に見えた。
——水。
前世でも、人の集まる場所には必ず水があった。モールの吹き抜けの水景。駅前広場の噴水。理屈は後からいくらでも付けたが、要するに生き物は、きれいな水のある場所を信用するのだ。
この土地に来て、俺が最初に掘り当てた資産も水だった。砂を押しのけて湧いた、冷たい一筋。デッドエンド名物の第一号。
その看板が、荒野を越えて、焼かれた森の奥まで届いていたとは。……さすがの俺も、そこまでは査定していなかった。
「タクミ様。一つ、ご報告があります」
セリアが、帳面のページを一枚繰った。
「清拭の際、彼女の靴と持ち物を検めました。靴底の減りは、爪先と踵がほぼ均等——長い距離を、一定の歩幅で歩き続けた減り方です。水袋は空。食料は、なし。そして、地図も持っていません。それで、迷わずここまで来ています」
「……つまり?」
「逃げ惑った者の動線では、ありません。西から東へ、寄り道なく、まっすぐ。彼女は、この土地を最初から目指して歩いています」
……相変わらず、恐ろしい観察眼である。あの時、俺の呼吸と動線を見抜いた少女は、十五になっても絶賛健在中らしい。
「地図なしで、目指せるものか?」
「私たちには無理です。ですが、彼女はエルフ。魔力の民です。私でさえ、入領の日、マナの流れが変わる境目を肌で感じました。であれば、その逆も」
セリアは窓の外、北の山の方角へ目をやった。
「十五年の詰まりが、ほどけた。その流れを、下流の森から遡って来られたのだとしたら——」
……なるほどな。
この春、俺は十五年詰まっていた地脈の栓を抜いた。金色の大河は今、西の森からも東の山からも流れ込んで、伸び伸びと北へ抜けている。
上流の澱みが取れれば、流域全体の水位が変わる。工事の影響範囲は、いつだって敷地の外まで届く。——前世の川でも、この世界の地脈でも、理屈は同じらしい。
あの春の「近隣対策工事」は、俺が思っていたより、ずっと遠くのご近所にまで効いていたのだ。
「目を覚ましたら、聞くことが山ほどあるな」
「はい。ですが、まずは」
「ああ。まずは飯だ。話は、それからだ」
俺は詰所の卓に広げていたハコの図面を引き寄せ、隅に小さな四角をひとつ、描き足した。名前はまだない。だが、用途はもう決めてある。
——「医」の部屋だ。
前世の現場には、救護室があった。事務所の隅の、担架と救急箱だけの小部屋。使われない日がほとんどの、しかし「無い」ことだけは決して許されない部屋だ。着工前には安全書類の一枚目に、最寄りの病院までの経路図を貼るのが決まりだった。
……この世界に来てから、俺はその経路図を、どこにも貼っていない。最寄りの医者まで、馬車で何日だ?
……考えたくもない数字である。治療薬は傷にはよく効く。だが、薬は「医」ではない。診立てのない薬は、当てずっぽうの矢と同じだ。
今日、この眼は言った。医術の専門知は、当領に未収蔵、と。街の弱点台帳に、新しい一行が載った日である。ならば、その弱点を埋める場所を先に確保しておくのが、デベロッパーというものだ。
それから立ち上がり、療養室の戸口に立つ。
「【神域の用途指定】区画、当室。用途【療養室】利用資格 療養する者と、看護する者 付帯効果【安眠】【静穏】」
戸口の上に、半透明の札が、ふわりと灯った。
『療養室につき、お静かに——ご利用:一名様』
この街で、誰かの眠りのために貼った札は、これで二枚目になる。ちなみに一枚目のご入居者は、今夜も山の上で、伝説級のイビキをかいているはずだ。
「ゆっくり休むといい。——ここは、休むことが正しい土地なんでね」
西の闇の向こうで森が燃えているのなら、その火の色も、逃げてくる者の頭数も、じきに見えてくるだろう。
だが今夜のところはこの、少しだけ深くなった寝息ひとつが、俺の領地の出した答えの全部だった。




