第二休工日②「実家の家計はギリギリなようです」
その頃、王都のローゼンベルク伯爵家別邸は、火のついた蜂の巣だった。
西部国境の情勢が、抜き差しならぬところまで来ていたのだ。
ゼノス帝国のアルフヘイム侵攻は森を焼き尽くす勢いで拡大し、その戦火の縁が、ついに王国の国境を破った。
緩んだ国境線から帝国の略奪部隊が繰り返し浸透し、フェルデン、ロートに続いて西部の村がまた二つ焼かれ、先月からは、ついに王国軍との公然たる抗争が始まっていた。国境の砦からは連日、負傷者と、増援を求める早馬が下ってくる。
そして今朝、王宮からの勅使が、恭しく、しかし有無を言わせぬ口上と共に、勅書を置いていった。
曰く——武門ローゼンベルク家は、西部戦線の中核として、本格的に対応せよ。追加の騎士団、兵站、軍資金をもって、王国の西を支えよ。
「———」
執務室で、グレゴール・フォン・ローゼンベルクは、勅書を前に、深く頭を抱えていた。
武門の名誉。王家の信任。断る道理は、ない。それどころか、これは誉れである。長男ギランは勅書の写しを一読するなり目を輝かせ、「騎士をあと二十、お預けください、父上。西の武功は全てローゼンベルクの名で塗り潰してご覧に入れる」と胸を張った。
武の才において、あれに不足はない。だが。
「……家令。数字を、もう一度読み上げよ」
「は。北部農地の立ち枯れにより、本年度税収は下方修正。既納の戦時供出が、騎士三十騎と軍資金。此度の勅命による追加出兵の費用が、その倍。……なお、王国への上納金は、戦時加算により昨年比でさらに増額。以後も年々、増える見込みにございます」
「収支は」
「……絶望する段階では、ございません。ですが、これ以上の出費は当家の許容を超えます。削れるものは、既に削り尽くしましてございます」
武門の意地だけでは、兵は食えぬ。
グレゴールはこめかみを揉んだ。金。金。金。武の家に生まれて五十年、これほど帳簿に追われた年はなかった。
「……そういえば、旦那様。一つ、妙な報せが。北部の立ち枯れですが——最北の、西端の畑数枚に限り、原因の分からぬ持ち直しの兆しがあると」
「偶然であろう。……今は西だ。西のことだけを、考えよ」
この屋敷の窓は、みな南、王都に向いている。北を見る余裕のある者は、今この家に、一人としていなかった。
……ただ一人を、除いて。
◆◆◆◆
その「一人」は、数日前、とある伯爵家の夜会で、妙なものを口にしていた。
「まあ、ルイス様。ご存じませんの? これが噂の『北の幻茸』ですわ」
扇の陰で、令嬢たちが囁き合う。銀の皿に上品に盛られた、香りの立つ茸のソテー。北方の、どこか秘密の産地から、ごく僅かしか入らないのだとか。侯爵家の食卓に上ったのだとか。
ルイス・フォン・ローゼンベルクは、社交用の笑みを顔に貼り付けたまま、フォークを止めていた。
北の。産地の分からない。今年になって突然現れた
——茸。
嫌な予感というものは、大抵、当たる。
そして数日後の夜。彼の私室に、旅装のままの男が二人、跪いていた。
「——読み上げよ」
「は。……『当該地には、街が、在りました』」
ルイスの眉が、跳ねた。
「『街道は新設され、側溝を備え、王都の大路より良く整っております。水は石の管を走り、末端の栓にて誰でも汲め、その味、王都の井戸が泥水に思えるほどです』」
「……密偵の報告に、水の感想を書くな」
「『畑にてはゴブリンが畝を立て、客に頭を下げておりした。道にてはドワーフが石を敷き、湯屋より湯気立ち、光る札の数々——領主はこれを、龍の加護と称し候。そして空には——龍が、舞っておりました』」
「…………待て」
「『領民は魔物、亜人を問わず、領主を「タクミ様」と呼び、夕べには六十の声で唱和しております。曰く——ご安全に、と』」
「待てと言っている!!」
ルイスは報告書をひったくり、自分の目で三度、読み返した。
ゴブリンが、畑を耕し。ドワーフが、道を敷き。竜が、空を舞う。
「……貴様ら、揃って夢でも見てきたか。あの出来損ないに、魔力は一滴もない。水晶が測ったのだ。あれは、この家で唯一、何も持たずに生まれた男だぞ」
「恐れながら。それがしも我が目を疑い申した。なれば、これを」
密偵が差し出したのは、小さな麻袋だった。中には、干した茸。
「かの地の特産にて。……その、偵察の建前上、購入せざるを得ず。言い値で」
「偵察先で土産を買う密偵があるか!!」
怒鳴りつけ、しかしルイスは袋から茸を一つ摘み、しげしげと眺め、夜会の皿の記憶と、目の前の現物が、重なった。
一口齧る。……美味い。腹立たしいことに、香りが立って、美味い。
つまり、こういうことだ。あの弟は、街を作っただけではない。作った街の産物が、既に王都の侯爵家の食卓にまで、届いている。
自分たちが気づくより早く、販路ごと、王国の腹の中に入り込んでいる。
ルイスは長椅子に沈み込み、額を押さえた。
春からの符合が、頭の中で音を立てて繋がっていく。弟の北行。山の沈黙。ルーン領の魔石の減産。幻茸。そして——龍。
(……父上に、報せるべきか)
一瞬、腰が浮きかけ——止まった。
今の家の有様が脳裏を過ぎる。西の戦火。勅命。火の車の帳簿。兄は武功に飢え、父は金策に沈んでいる。ここへ「北で三男が竜を従えて街を作っています」などと報せれば、どうなる。父は激発するか。兄は北へ矛先を向けたがるか。
そして——もう一つ。
ルイスの背筋を、冷たいものが撫でた。
あの日。成人の儀。泣いて土下座する弟を鼻で笑いながら、立会人として、自分が血判を捺した、あの誓約書。
血判には魔力紋が宿る。本人の捺印であることは、何人も覆せない。そして、条文。第四条、相互不干渉。一門、及びその指図を受けて行動する者は、名目の如何を問わず、干渉を行わない。第六条——違約の効果。独立の自動成立。一門の総資産を上限とする、違約金。
(……家の者が、あの領境を一歩でも越えて、干渉すれば……あの紙は、牙を剥く。そして私は立会人として、縛られている側だ)
あの土下座の裏で、弟が何を敷いていたのか。今さらながら、あの証文の条文が、一つ、また一つと、別の顔をして思い出されていく。
「……報告、ご苦労だった。この件、父上への言上は保留とする。今は、それどころではない」
「は。……監視は、いかがいたしましょう」
「続けよ。ただし」
ルイスは、密偵二人を真っ直ぐ見据えた。
「何があっても、騒ぎ立てるな。手も出すな。石ころ一つ、あちら側へ投げ込むことも許さん。買い物は————」
一拍、悩んで、吐き捨てた。
「……個人的意思で銭を払う分には、構わん」
密偵たちが下がった後、ルイスは一人、報告書と茸の袋を、引き出しの一番奥に押し込んだ。
それから、南向きの窓ばかりのこのルーン領の屋敷で、廊下の突き当たりにある小さな北向きの明かり取りまで歩き、夜空を見上げた。
「……タクミ。貴様、北で——何をしている」
◆◆◆◆
さらに南。王国有数の商都に構える、ゴルドー商会の本店。
最上階の執務室は、壁の三面が帳簿棚で、窓は一つしかない。灯りは手元の一つきり。その薄暗がりの中で、会頭ザイルは、北方仲買人ドレルの報告を、指一本組み替えずに聞き終えた。
「——以上に、ございます。債権は額面ごと消滅。金床は返還。手前の、落ち度にて」
「損切りの判断自体は、正しい」
ザイルの声は、穏やかだった。穏やかなまま、奥で算盤だけが動いている声だった。
「九十と一万二千を天秤にかけ、九十を捨てた。商人として満点だ。……問題は、そこではない。ドレル。お前は何を取られた」
「……は。金では、なく」
「型だ。当会の証文の『型』を、読まれた。公証の穴。利の上限。検収の綾。長い間、磨いてきた狩りの道具を、小娘一人に、諳んじられた」
ドレルの喉が、上下した。あの無停止の朗読を思い出すと、今でも耳の奥が冷える。
ザイルは、ドレルの差し出した和解書の写しを取り上げ、第四条の上で、目を止めた。申立ての留保。
「……ほう。出さずに、握っている、と。人質はこちらも取られているわけだ。若いのに、いい性格をしている」
「タクミ・フォン・ローゼンベルク。……厄介な男にございます」
「ローゼンベルク」
ザイルは、その名を舌の上で転がした。それから、机上の別の書付、王都支店から上がってきた、市況の報せを引き寄せる。北の幻茸、社交界で沸騰。王都での取り扱いをしている主な行商人が一人。
「……テオ・クレイスラット・シータステッド。販路は、既にこの男が握っている、と。手回しのいいことだ」
薄い笑みが、灯りの縁に浮かんだ。
「西征の勅命で、金に困り始めた武門の名門。その厄介な三男が、価値の出始めた北の不毛地を握り、産物は既に王都の食卓の上。……ふむ。困った家と、欲しい土地。間に商会が立てば、双方に恩の売りようがある——いずれ、な」
会頭は書き物机に向かい、通達を三通、したためた。
一通は、北方の全仲買へ。当会の証文で公証を欠く担保条項は、速やかに手当てせよ。
一通は、王都支店へ。行商人テオ・シータステッドの動向、仕入れ、荷の行き先に目を離すな。ただし、触れるな。
そして最後の一通は、全支店へ。
『辺境領デッドエンド、並びに領主タクミ・フォン・ローゼンベルクに関わる情報は、大小を問わず、全て本店へ上げよ。接触は、本店の許可なくば、これを禁ず。目を、離すな』
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同じ月の南の空の下、同じ北の地名が何度も口にされた。この十五年間、誰も話題にすら出さなかった土地の名前が。
伯爵家の帳簿の陰で、苦い沈黙と共に。次男の引き出しの奥で、封じられた驚愕と共に。商会の通達の上で、冷たい算盤の音と共に。
そして、北へ向かう荷馬車の御者台の上で、ただ一人だけが、笑いながら。
「さあて。次は、どんな無茶を見せてくださいますかねえ、タクミ様」
当の北の領主は、その夜も湯に浸かり、鼻歌まじりに「ハコ」の図面を練っていた。
南の誰が笑い、誰が青ざめているかなど、まだ、知る由もなかった。




