第二休工日①「密偵は信じられないものをみたようです」
その行商人は、通水式から十日ほど経った昼下がりに、南の街道からやってきた。
痩せた中年の男。よく歩き込まれた靴。日に焼けた首。荷馬の背には、鍋だの布だの小間物だのが、それらしく括り付けてある。歩き方も、値踏みするような目つきも、どこからどう見ても、行商人とは思えなかった。
門番のゴブリンから報せを受けて、俺は出迎えに立ち、そして、鑑定眼を一度だけ、静かに通した。
『荷駄:総重量、行商の標準の四割弱』
『右手:剣だこ(行商の荷縄だこと不一致)』
『視線:商品ではなく、地形・人数・出入口を優先して走査』
『歩幅:等速・一定——測歩の癖』
『靴底:軍用の張り替え跡』
……なるほど。
荷が軽すぎる。商人の荷は、命の次に重いものだ。手の傷は剣のもので、目は値段ではなく人数と出口を数え、歩幅で距離を測り、靴だけが正直に軍属を白状している。
こういう男を、世間では行商人とは呼ばない。密偵と呼ぶ。
出所の見当は、すぐについた。この時期、この方角、この装い。南で、山の沈黙と魔石の帳尻に気づいた誰か。十中八九、あの計算高い次兄だろう。
「セリア」
俺は執務室に取って返し、まず彼女に告げた。
「南から、王国の目が来た。悪いが、奥に隠れていてくれ。帳簿ごと」
「———っ。……時期と関心から見て、差し向けたのは……ルイス様ですね」
「同意見だ。君の顔は王都の社交界に割れてる。アークライト家が血眼で探してる娘が、ここにいると知れたら面倒だ」
「……承知しました。ですが、私だけ席を外すのは申し訳ないです」
「セリアはこの領で最も替えが効かない大切な存在だ。いまは君の存在を知られたくない」
「———そんな口説き文句は不要です」
決して、口説いてはいない。……いや、口説いていないよな?
セリアは消える間際、三分で一枚の紙を書き上げて、俺に押し付けていった。
題して——『開示資産目録』
見せて良いもの:街道、農園、水路、湯屋、労働環境。隠すもの:帳簿、地脈、床下のあれ、スキルの主が誰か、そして——私。末尾に几帳面な字で『※商談は可。ただし相場より一割高で』
……うちのCFOは、隠れながらでも商売を忘れない。
さて。招かれざる客の、おもてなしである。
追い返すか? いや、逆だ。隠せば、探られる。門を閉ざせば、報告書には「何かを隠している」と書かれ、次はもっと質の悪いのが、もっと大勢で来る。
なら、見せたいものだけを、全部見せる。どうせ値踏みされるのなら、値札は、こっちで書く。
ザグには「自然にしろ」とだけ伝えた。「しぜんに、って、何だ」と首を捻っていたが、まあ、あいつらは元から自然体しかできない。
バルガスには「王国の目だ」と耳打ちすると、髭がぶわりと膨らんだが、「……ガルドラだろうと何処だろうと、紙の国のやることは同じじゃ」と鼻を鳴らし、いつも通り舗装の指揮に戻っていった。
さあ、開業の時間だ。
◆◆◆◆
その『行商人』は、生涯忘れられぬ半日を過ごすことになる。
まず、道がおかしかった。
地図の上では十五年前に死んだ廃道のはずが、領境の関所跡から先、砕石を敷き締めた真新しい街道に変わったのだ。
轍は真っ直ぐ、路面は固く、両脇には排水の側溝まで通っている。男は職業柄、大陸の主要街道をあらかた歩いているが、王都の目抜き通りより、水はけの良い道を、男は他に知らなかった。
次に、畑がおかしかった。
街道沿いの窪地に、段々の畑と茸の栽培床が、見渡す限り続いている。そして畝の間で農具を振るっているのは、ゴブリンだった。魔物が、鍬を持ち、腰に手拭いを下げ、畝を立てている。あまつさえ、男に気づくと鍬を置き、ぺこりと頭を下げた。
「……いらっしゃい、ませ」
魔物が。客に挨拶をした。
男が呆然と立ち尽くしていると、ふ、と日が翳った。
見上げて——男は今度こそ、腰から崩れかけた。
深紅の龍。山がひとつ飛んでいるような巨影が、悠然と上空を横切っていく。男の右手は無意識に剣を探し、しかし荷縄しか掴めず、そして、周囲の誰一人として、空を気にしていないことに気づいて、指先から血の気が引いた。畑のゴブリンの子らに至っては、影に向かって、きゃらきゃらと手を振っている。
「ああ、うちの警備の者です。お気になさらず」
いつの間にか立っていた若い領主——ルイス様がよく言っている『出来損ないの弟タクミ』様が、こともなげに言った。
警備。あれが警備の者。
記憶が確かなら、この土地は台帳に「魔物跋扈の不毛地・査定額銅貨数枚」と記された死地のはずだった。
だが目の前では、ドワーフの一団が笛の合図で石畳を敷き、その頭上を半透明の光る札がいくつも漂い、通りの先の石造りの建物からは、白い湯気が立ち上っている。
すれ違ったドワーフの老人は、頭に手拭いを載せ、茹で上がったような顔で「……極楽じゃ……」と呟きながら歩いていった。
「あの……所々に貼り付けてある、光る札は」
「この土地の加護のようなもので。何せ龍の住まう山ですから、まあ、色々と」
タクミ様は曖昧に微笑んだ。加護。龍の、加護。……そうとでも書くしかあるまい、と男は思った。ありのままを書けば、書いた自分の正気が疑われる。
水路を見せられた時が、極めつけだった。
石積みの水路を、硝子のような水が走っている。領主が枯れ葉をひと掴み、水面の上に撒いた葉は水に触れる寸前、見えない屋根に滑らされたように、ふわりと岸へ逸れていった。
「飲み水ですので、汚れないように出来ておりまして。よろしければ、水栓の方で一杯どうぞ」
勧められるまま、共同水栓の吐き出し口から一杯。
……美味かった。癪に障るほど、美味かった。王都の井戸水が泥水に思えるほどに。
仕上げに、男は商人らしく振る舞わねばならなかった。目の前に、干し茸の見本がずらりと並べられたからである。
「行商の方でしたら、是非。当領の特産、ゴブ茸です。ノルトールの商会にも卸し始めたところでして、今なら、まとめてお安くしておきますよ」
断れば、怪しまれる。男は職業意識の命じるまま財布を開き、そこそこの量を仕入れた。値は、相場より高かった気がするが、比べる相場がそもそも存在しない。買いながら、男は自分でも訳が分からなくなっていた。偵察対象から、土産を、言い値で、買っている。
日が傾く頃、街のどこかで笛が鳴り、方々から声が揃った。
『——ご安全に!!』
ゴブリンとドワーフ、六十の声。魔物と亜人が同じ言葉で一日を締める声を背に、男は街道を南へ下った。
去り際、タクミ様は、にこやかに手を振った。
「またお仕事でお近くに寄られた際は、どうぞ御贔屓に」
……お仕事、という言葉が、妙に耳の奥に残った。
領境の外の岩陰で、相棒が待っていた。遠見役として、外から一部始終を見張っていた男だ。
「……どうだった」
「…………信じられんものを、見た。お前は」
「龍が、二度旋回するのを見た。それから、夕方、街ぐるみで何かを唱和していた。あれは、何の儀式だ」
「……終業の、挨拶らしい」
「挨拶」
二人は、しばらく黙って歩いた。やがて相棒が、絞り出すように言った。
「……なあ。これを、どう報告書に書く。ゴブリンが畑を耕し、ドワーフが道を敷き、龍が空を舞うなどと書いて、正気を疑われぬ密偵が、この世にいるか」
「見たままを書く。それが仕事だ。……正気の方は、諦めろ」
◆◆◆◆
同じ頃。北方交易路の旧宿場町ノルトールは、十五年ぶりの奇妙な活気に、戸惑いながら沸いていた。
発端は、先日届いた、一通の商談書簡である。
受け取った商会主は、宛名の差出人『辺境領デッドエンド領主』の名を見て二度見し、封を開けて署名を見て三度見し、それがあの悪魔のような値切りで自分を公開処刑した娘と一緒にいた領主だと理解した瞬間、椅子ごとひっくり返ったという
今では町の宿の親父が、酒の肴に百回は語った小咄である。
「笑い事ではないぞ。……儂はあの時、商人人生で初めて、長尺詠唱呪文というものを見たのだ」
商会主は憮然と言うが、その手はゴブ茸の検品を止めない。北から届く干し茸は、荷を開けるたびに香りが立ち、卸せば王都からの引き合いが倍になって返ってくる。
閉じていた北の道が開き、隊商が宿を取り、空き家に一軒、また一軒と灯りが戻る。
「いい客が、増えた」
宿の親父は、しみじみとそう言った。かつて「いい客(他に客がいない)」と自嘲した男の台詞としては、上出来の変わりようだった。
◆◆◆◆
そして王都では、一人の行商人が、静かな旋風の中心にいた。
テオ・クレイスラット・シータステッド。糸のような目の、若い行商人。
彼が北から持ち帰った、たった三十株の干し茸。テオはそれを市場に並べなかった。代わりに、然るべき貴族家の料理長にだけ、二株、三株と「お試しに」置いて回ったのである。
一週間後、王都の社交界は「北の幻茸」の噂で持ちきりになった。
曰く、香りが違う。曰く、出汁が金色になる。曰く、あの侯爵家の晩餐で出たらしい。
産地を訊けば、どの料理長も首を振る——「テオという行商人しか、持っていない」
テオの元には注文書が山をなし、彼は糸目をさらに細めて、全ての注文に同じ返事を書いた。
『次回入荷まで、今しばらく』
(——希少なものは、焦らして売る。タクミ様の受け売り通りです)
もっとも、旋風は良い客ばかりを運んでこない。
ある日は、香水の匂いをさせた侯爵家の家令が、遠回しに産地を尋ねてきた。テオは揉み手で笑って躱した。
「仕入れ先は商人の命でございますれば。北の方としか。その内に、他の商人も扱うようになります故、お待ちください」
またある日は、算盤玉のような目をした、物静かな男が来た。茸を人数分より多く買い、世間話のふりをして、北の街道の様子を、道の状態を、領主の人となりを、一つ、また一つと訊いてきた。
テオは、にこにこと、当たり障りのないことだけを答えた。答えながら、背中に薄く汗をかいていた。
(……この目は、客の目ではない。検収人の目だ。それも、どこぞの大きな看板を背負った)
男が去った後、テオは帳面の隅に小さく書き付けた。
『北へ、要注意の風。次の便で、タクミ様にご報告』
そして、もう一つ。
先日、市場の外れで、彼は妙な聞き込みに出くわしていた。身なりのいい使用人風の男が、商人たちを回って、人相書きを見せている。
黒髪の、令嬢風の若い娘。家出人を探している。アークライト男爵家の使いだと、男は言った。
人相書きを見せられたテオは、この稼業で磨き上げた、完璧に何も知らない顔を作った。
「はて。見かけませんですねえ。ご覧の通り、手前の客は台所の連中ばかりで」
使いが去った後、テオは糸目を、珍しく普通の目に戻して、しばらく北の空を見た。
(……借金の形に、娘を売るために人相書きを刷って配るとは。父親のやることですかね)
あの雪のように静かなお嬢様が、北の地でどんな顔で働いているか、知っている。氷のような顔で帳面を繰り、それでいて、タクミ様の無茶に振り回されるときだけ、ほんの少しだけ年相応の顔になるのだ。
(顧客情報は、漏らさない。——これも、タクミ様に教わったことですからね)
数日後、ノルトール経由の荷に紛れて、北からの発注書がテオの手元に届いた。
曰く——青銅の地金。空樽、多数。塩。種籾、各種。
「……青銅に、樽に、種籾。水道と、酒蔵と、畑。ふふ、読めるようで、読めませんねえ、あの領は」
テオは荷馬車の帳を締め直し、御者台に乗った。行き先は、北の地。
あの領は、行くたびに、面白くなる。今度は何を見せてくれるのでしょうか。
……本当に楽しみですよ。タクミ様。




