第三十一区画「守護龍までも書面主義となったようです」
峠を下る道すがら、俺は妙な音に気がついた。
……鼻歌だ。
隣で行程表を検算しているはずのセリアが、ドワーフの道行き歌を、ごく小さく、口ずさんでいる。槌の拍子の、あの歌だ。音程は、完璧だった。
「上手いな」
「———っ」
鼻歌が、ぴたりと止まった。
「……歌って、いません」
「いや、歌ってた。完璧な音程で」
「スキル【絶対記憶】のせいです。一度聴いた旋律は、記憶に……残ってしまっただけ、です」
「そうか。二番も続けてくれ」
「…………検算に戻ります」
セリアは帳面に視線を落とした。耳の先だけが、ほんのり赤かった。うちのCFOの監査は厳しいが、監査人本人には、意外と隙があるようだ。
◆◆◆◆
領境の、崩れた旧関所跡を越えた——その瞬間だった。
どく、と。
足の裏から、温かいものが昇ってきた。乾いた革袋に、水が満ちる感覚。大地が、手を貸してくれる、いつものあの手応えの、さらに向こう。胸の内側で、灯りがひとつ、増えた気がした。
鑑定眼を自分自身に向ける。
『【神域の用途指定】自領外・同時維持上限:二 → 三』
「……増えた」
「何がですか」
「スキルの札の枠だ。よその土地で同時に維持できる札が、二枚から、三枚になってる」
セリアの目の色が、変わった。
「タイミングから見て——二十七名の入領、ですね。住民が増え、街が育つと、力の器も育つのですね。タクミ様らしいスキルです」
早口になっていく。頬に、珍しく血の気が差している。
「枠三枚での万が一の際の運用表を組み直します。救助想定、行軍想定、交渉想定——夜までに三十パターンほど」
「明日でいい。今日は引っ越し祝いだ」
「……十五パターンで我慢します」
我慢の基準がおかしい。だが、目を輝かせて算盤を弾く彼女に、それ以上言うのは野暮というものだった。
◆◆◆◆
砦が見えてくると、門の前が、やけに賑やかだった。
ゴブリンたちが、総出で並んでいる。その頭上には、木の枝に張り渡した布の、のぼり旗。炭で、大きな字が書いてある。
『よふこそ てっとえんと』
……惜しい。実に惜しい。だが、誰が教えたわけでもないのに、歓迎の旗を「書く」ところが、実にうちの領民である。
先頭のガグが、進み出た。腕から『代理』の木札を厳かに外し、両手でザグに捧げ返す。
「……るす、まもった。かえす」
「うむ。……ごくろう」
ザグが厳かに受け取る。木札一枚の返納式に、妙な格式が漂っていた。うちの組織図は、儀典から先に育っていくらしい。
そしてガグは、もう一枚、板切れを持ってきた。正の字がびっしり刻まれている。
「あねご。め、かぞえた。まいあさ、かぞえた。きょう、四十二ほん」
セリアが、板を受け取った。
彼女が毎朝続けていた、緑の芽の記録、復興の先行指標。留守の間、ゴブリンたちが、一日も欠かさず引き継いでいたのだ。
セリアは板の正の字を、指先でなぞった。それから、腰を落としてガグと目線を合わせ、小さな、けれどはっきりした声で言った。
「……よく、できました」
ガグの鍋兜が、誇らしげに、かたかた鳴った。
その直後である。ゴブリンの子供たちが七匹、雪崩を打ってセリアの足に殺到した。
「あねご!」「あねごだ!」「こおりのあねご!」
「……業務に、支障が」
口ではそう言いながら、セリアは一歩も動かない。子供の一匹が、摘んできた花だか草だかを編んだ輪を、恭しく彼女の頭に載せた。荒野に戻り始めた緑で編んだ、不揃いの冠だ。
セリアは、直立不動のまま、それを受けた。
「———受領、します」
氷の令嬢の戴冠。無表情は一ミリも崩れていないのに、なぜだか機嫌がいいのだけは、全員に伝わった。
◆◆◆◆
突如、和やかな空気が——影に呑まれた。
巨大な、翼の影。
風圧。地響き。砦の前庭に、山がひとつ、降ってきた。
深紅の鱗。城門より太い首。古代龍イグナリオンの、お出ましである。
「「「———ッッ!?!?」」」
背後で、音がした。振り向くと、二十七人のドワーフが、見事に端から順番に、腰を抜かしていた。将棋倒しならぬ、髭倒しである。バルガスですら、髭という髭が槍のように逆立ったまま、固まっている。
「ド……ドラ……古代……っ」
「じきに、なれる」
ザグが、先輩の顔で言った。ゴブリンたちは平然と竜の足元を行き交っている。慣れとは恐ろしい。
『——戻ったか、タクミ』
竜は俺を一瞥し、それから、腰を抜かしたままの一団に、金色の目を向けた。ずい、と首が近づく。ドワーフたちの魂が口から出かかる。竜は、すん、と鼻を鳴らした。
『ほう——ドワーフか。鉄と、火と、岩の匂い。ふむ、悪くない』
そして、大陸最強の生物は、厳かに、こう続けた。
『先に言うておく。——掘る前に、我の床下だけは、書面を寄越せ』
「「「…………は?」」」
腰を抜かしていたドワーフたちが、恐怖も忘れて、ぽかんとした。
「しょ……書面……?」
「龍が……紙の話を……?」
『当然であろう。我の寝所の床下の権利は、契約書に明記されておる。採掘には我の書面による同意、産出の一割は我の取り分。文句があるなら、条文を読め』
条文を読め、とイグナリオンが言った。
棟梁が、腰を抜かしたまま、掠れ声で俺に訊いた。
「……領主どの。この領は、龍まで、紙の話をするのか」
「ああ。うちで一番契約にうるさいのが、この警備最高顧問でね」
『我は最高顧問である』
竜は満更でもなさそうに、役職名の部分だけ、一音ずつ区切って復唱した。
「……ちなみにバルガス、その床下に眠ってるのは、特級マナ結晶。直径、十二メートルだ」
「じゅ————」
二十七人が、二度目の腰抜けを起こした。今度のは恐怖ではない。職人としての、純粋な興奮による腰抜けである。
◆◆◆◆
住区の割り当ては、旧市街跡になった。
十五年前に打ち捨てられた石造りの基礎が、碁盤の目に残る一角だ。案内した途端、ドワーフたちの目の色が、また変わった。
「……おい、見ろ。この基礎の根入れの深さ」
「目地の通りも、ええ。百年……いや、もっと前の仕事じゃぞ、これは」
「ええ石じゃ。誰が積んだんじゃ、これを……」
昨日まで飢えていた男たちが、廃墟の縁石を撫でて、しきりに唸っている。腕のいい先人の仕事は、それだけで職人への最高のもてなしになるらしい。
バルガスはといえば、基礎群をひと回りするなり、一番風通しの良い区画に、ずん、と杭を打ち込んだ。
「ここは空けておけ。——酒蔵じゃ」
「家より先にか」
「当然じゃ。契約第十一条に関わる重要施設ゆえな。違約された時に空にする蔵が無くては、条文が絵に描いた餅になるわい」
条文の実効性のために酒蔵を最優先する一族であった。……まあ、動機はどうあれ、都市計画に酒蔵の位置が早めに決まるのは、悪いことではない。
……ここに納める酒もテオに頼んでおくとするか。
◆◆◆◆
翌朝。デッドエンド史上、おそらくは異世界史上、初の『本格的な朝礼』が開かれた。
砦の前庭に、ゴブリン三十二名とドワーフ二十七名、都合五十九名が整列する。教官役は、もちろん、先輩面を隠しもしないゴブリンたちである。
「いいか。ゆびさし、かくにん。こう」
ザグが手本を見せる。ぴしり、と伸びた指先。
「みぎ、よし! ひだり、よし! あしもと、よし!」
ドワーフたちが、見様見真似で続く。
「み、みぎ……よし……」
「ちがう。こえ、ちいさい。やまのおくまで、とどかせる」
「腕、まがってる。ひじ、のばす」
己の三倍はある髭面の大男たちに、ゴブリンたちが容赦なく駄目を出していく。鶴嘴を握ったまま指差しをしようとした若いドワーフは、隣の同輩の髭を刈りかけて、ザグに「どうぐ、おいてから!」と叱られていた。
危険予知は、バルガスが仕切った。本日の作業、想定される危険、その対策。一人一言。三年間、誰より深くそれを考え続けた男の仕切りは、初日から様になっていた。
そして、締めである。
「——本日も」
「「「——ご安全に!!!」」」
五十九人の唱和が荒野に轟き、砦の窓が、びりびりと鳴った。上空を旋回していた警備最高顧問が『うるさい』という顔でこちらを見たが、知ったことではない。うちの現場は、これが開始の合図なのである。
◆◆◆◆
朝礼の後は、現場の引き継ぎ見学だった。湧水点、資材置場、都市計画予定地——そして、例の、水路である。
三度挑んで三度敗れた、あの五十歩の試験水路。
バルガスは、それを一目見るなり——止まった。
髭が、震えた。目が、かっ、と見開かれた。三年分の疲れの膜が、一瞬で焼き切れる音を、俺は確かに聞いた気がした。
「————誰じゃあッッ!! この石を積んだのはァァ!!」
岩山をも震わせた棟梁の一喝が、荒野に轟いた。
「勾配はうねっとる! 合端は口を開けとる! こんな目地で水を通したら、石が泣くわァ!! 誰の仕業じゃと訊いとる!!」
俺は、直立不動になった。
「———私の指示です」
前世で百回は使った、怒れる職人に差し出す用の敬語が、反射で出た。
「素人は口を出すなァァ!!」
「はい!! 申し訳ございませんでした!!」
気持ちのいいくらいの、完璧な叱られだった。
「場所の選定は悪うない、水線の読みもよし、じゃが施工が全部台無しじゃ、明日から全部剥がしてやり直す、石はワシが選ぶ、勾配は水糸を張る、目地の詰め方は一から叩き込む」
——バルガスの口から、指示が滝のように溢れ出す。
三年ぶりに全開になった、職人の火だった。
俺は、叱られながら、笑いを堪えるのに必死だった。ようやくだ。ようやくこの領に、「素人は口を出すな」と言ってくれる本物の職人が来たのだ。丸投げできる相手がいるというのは、発注者にとって、これほどの幸福なことはない。
「タクミ様。議事録に残します。——『領主、着任二日目の技術顧問に叱責され、満面の笑み。要観察』」
「おい待てセリア、後半は削れ」
「事実は、書いていいのでは?」
自分の台詞が、完璧な形で返ってきた。うちのCFOは、切り返しの在庫管理も完璧である。
◆◆◆◆
その日の夕方、執務室に戻ると、セリアが帳面を広げて、何やら作業をしていた。
俺が覗き込むと、彼女は、ばんっ、と帳面を閉じた。……閉じるのが、一瞬遅かった。
頁の間に、あの不揃いな緑の冠が、丁寧に、真っ平らに、挟まれていた。押し花——ならぬ、押し冠である。
「……び」
「び?」
「……備品の、登録です」
「そうか。大事な備品だな」
「……はい」
セリアは帳面を抱えたまま、小さく頷いた。それ以上は、お互い、何も言わなかった。言わないのが、正解の場面というものが、世の中にはある。
窓の外では、旧市街跡に、ドワーフたちの焚き火が並び始めていた。ゴブリンの村の灯りと、砦の灯りと、新しい灯り。地図の上の光が、また一列、増えたのだ。
——と。
視界の隅で、鑑定眼の表示が、チカチカ、と明滅した。
……また、あれだ。テオの来た日から、時々ある。まるで、何か言いたいことを、飲み込んでいるような。
「どうか、なさいましたか」
「いや。……気のせいだ」
その「気のせい」の答えは、翌朝、水路の現場で出ることになる。




