第三十区画「美味すぎる紙には酒蔵条項を付けるようです」
翌朝。俺たちは岩陰の野営地で、いつも通りの朝礼をやった。
といっても、こちらの頭数は五人である。輪になって、セリアが本日の予定を読み上げ、ザグが「あしもと、よし!」と指を差し、最後に全員で唱和する。
「「「——ご安全に!!」」」
振り向くと、境界線の向こうに、二十七人のドワーフがずらりと並んで、こちらを凝視していた。
「……あれは、何じゃ? 朝から、何の呪文じゃ」
「呪文じゃない。開始の合図だ。『今日も全員、無事に晩飯の席に帰る』と、毎朝、約束し直す儀式でね」
バルガスの眉が、ぴくりと動いた。
朝飯の席の頭数と、晩飯の席の頭数。……ああ、この人には、説明の要らない話だったらしい。
◆◆◆◆
広場の卓に、俺と棟梁は、改めて向かい合った。周りには一族の全員。今日は誰も、遠巻きではない。
「さて。約束の『次の話』だ。回りくどいのは抜きにして、先に、こっちの欲を全部話す」
「……欲、とな」
「ああ。うちの領は今、上下水道と街道を引こうとして、盛大にすっ転んでる。試算したら、完成まで二十年。だが、後四年で完成させなければいけない。石の目を読める腕、坑道を通せる腕、鉄を打てる腕は喉から手が出るほど欲しい。要するに」
俺は、真っ直ぐ棟梁を見た。
「あんたたち二十七人を、丸ごと、うちの領に引き抜きに来た。移住と、雇用だ」
広場が、ざわめいた。棟梁は動じず、腕を組む。
「……条件を聞こう」
「紙にしてある。セリア」
セリアが、卓の上に、大きな字の契約書を広げた。
◆◆◆◆
『雇用並びに移住に関する契約書』
前文 甲タクミは、領の水道、街道、その他諸工事のため、乙一族の職能を喉から手が出るほど必要としている。よって甲は乙に対し、以下の条件をもって、雇用と移住を申し入れる。
第一条(雇用) 甲は、鉄鎚のバルガス一族二十七名を、領の土木、坑道、及び鍛冶の技術者として雇用する。
第二条(工賃) 甲が支払う工賃は、固定給に出来高を加えて支払う。道具は乙の自前とし、道具の維持と更新に要する費用は、甲が別に手当する。
第三条(安全) 甲は、全ての現場に、命綱、支保、合図の笛、点呼板を備える。安全に要する費用と時間は、常に工期に優先する。
第四条(工期) 工期は、乙の棟梁が「安全に成し得る」と認めた日数より、短く定めない。
第五条(週休) 乙は、七日のうち二日、全ての労働を休む。休みの日の賃金は、固定給に含まれる。
第六条(労災) 仕事の上の怪我と病は、その治療、療養中の食事、及びその間の賃金の全てを、甲が負担する。
第七条(家族手当) 甲は働かぬ幼子と年寄りにも、頭数に応じた手当を支払う。
第八条(移住) 甲は乙に、領内の居住区画を無償で与え、冬が来るまでひ住居の建設を支援する。
第九条(支度金) 甲は乙に、移住と当面の食糧のため、支度金として金貨十枚と食糧一式を支給する。これは貸付ではない。返済を要せず、利息は生じない。
第十条(退去の自由) 乙は、いつでも、理由を問わず、本契約を終えて領を去ることができる。その場合も、働いた分の賃金は、一枚残らず支払われる。
王国暦一〇五〇年 六月十九日
甲 タクミ・フォン・ローゼンベルク
乙 鉄鎚のバルガス一族 棟梁バルガス
*
「……前文の『喉から手が出るほど』は、契約書の文言として、いかがなものかと思いますが」
「事実だ。事実は書いていい」
セリアの抗議を却下して、読み聞かせが始まった。
と、その前に——棟梁の太い指が、紙の上を這った。頭からではない。真っ直ぐ、末尾へ。第十条の上で、指が止まる。
「…………あった」
「ん?」
「出口じゃ。先に、出口を探した。……お主に教わった、いい紙の見分け方じゃからな」
教えたことを、翌日にはもう使っている。この人は、良い職人であるのと同じ理由で、良い生徒だった。
セリアの読み聞かせは、一条ごとに、広場の空気を変えていった。
第三条で、若い衆が顔を見合わせた。命綱と支保が「ある」現場。それが契約書に書いてある、ということ自体が、彼らには御伽噺なのだ。
第四条に来た時、棟梁が、手を挙げた。
「……そこは、ワシが読む」
セリアから紙を受け取り、バルガスは、低い声で読み上げた。
「工期は、乙の棟梁が『安全に成し得る』と認めた日数より——短く、定めない」
声が、途中で掠れた。
三年前、王宮に向かって言えなかったこと。言ったのに、紙に踏み潰されたこと。それが今、逆向きに、条文になっている。掘る速さは、掘る者が決める、と。
棟梁は長いこと紙を見つめてから、無言で、セリアに返した。
第五条では、逆に若い衆が騒めいた。
「な、七日のうち、二日……休む? 二日も、何をすれば……」
「それを覚えるのも、仕事のうちだ」
俺は真顔で答えた。異世界人はどうも、休み方を知らない。俺が言えた義理ではないのだが、言えた義理がないからこそ、制度で縛るのである。
第九条では、老ドワーフの一人が、紙ににじり寄った。
「『これは貸付ではない』……『返済を要しない』……『利息は、生じない』……」
三度、読み返して、老人は袖で目元を拭った。
「……こんな一文を、わざわざ書いてくれる紙が、この世にあるとはのう」
「あんたたちの為に入れた一文だ。二度と、飯と紙を、同じ夜に出されて困らないように」
◆◆◆◆
読み聞かせが終わると、広場は、妙な静けさに包まれた。
悪くない静けさではない。だが、手放しの歓声でもない。何かが、つかえている。
やがて、一族の最年長——検収番だった、あの老ドワーフが、皺だらけの手を挙げた。
「……領主どのよ。年寄りの繰り言と、聞き流してくれてええ。じゃがの、儂らは三年前、雪の夜に、旨い粥と一緒に出された紙で、魂を取られた。じゃから、どうしても、これだけは訊いておかにゃならん」
老人は、契約書を指した。
「——うますぎる紙には、裏がある。この紙の裏は、どこじゃ」
二十七対の目が、一斉に俺を見た。
これだ。これが最後の関門だ。毒を抜いても、牙の記憶は残る。当然だ、正しい。この警戒心ごと雇うのが、俺の望みなのだから。
「もっともな問いだ。答えよう。——裏はない。だが、ないと言葉で言っても、証明にならない」
俺はペンを取った。
「だから、付けよう。違約条項を。……当領の伝統でしてね」
「で、伝統……?」
「ああ。うちの契約には必ず、俺が約束を破った時の『罰』が書いてある。最初の領民のゴブリンたちとの契約には、『甲が違約したら、乙は甲を噛んでよい』と」
「か……噛む!?」
「守護龍との契約には、『甲が違約したら、乙は甲を食ってよい』と」
「く、食っ……古代龍にか!? お主、正気か!?」
「正気だとも。罰が痛いほど、約束は堅くなる。さて——あんたたちには、何を賭けるか」
俺はしばし考え、それから、契約書の末尾に、さらさらと書き足した。
◆◆◆◆
『第十一条(違約) 甲が、本契約のいずれか一つにでも違反したときは、乙は、甲の酒蔵を空にしてよい。乙が違反したときは、次の完工の宴の樽を、一つ減らす。』
◆◆◆◆
読み上げた瞬間、広場の時が、止まった。
「……さ」
「さか、ぐら……」
「酒蔵を——空に、してよい……!?」
どっ、と。
岩山が揺れるかと思うような爆笑が、弾けた。
老ドワーフが膝を叩いて咽び、若い衆が互いの背をどやし合い、女衆までが袖で口を押さえて肩を震わせている。三年ぶりの、腹の底からの笑い声だった。
「が、ははは! 領主どの、お主、ドワーフから酒を賭けの札にするとは、命知らずにも程があるわい!」
「うちの一族の呑みっぷりを知らんな!? 樽が、樽が三日で消し飛ぶぞ!?」
「だから賭けるのさ。破れない罰に、意味はない」
と——笑いの渦の中で、ガリムが松葉杖を突きながら、手を挙げた。
「な、なあ、領主。その……肝心の酒蔵は、どれくらいの大きさなんだ?」
「いい質問だ。正直に言おう。——まだ、無い」
「「「無いんかい!!」」」
見事に揃った総ツッコミである。
「あんたたちが来たら、真っ先に造る予定の酒蔵だ。石工と大工が来てくれないことには、酒蔵も建たん」
「……つまり、じゃ」
バルガスが、髭の奥で、にやりと笑った。
「ワシらが行って、ワシらの手で酒蔵を建てんことには——お主に違約された時、空にする酒蔵すら無い、と。そういう理屈か」
「そういう理屈だ」
「ふ、はは。……とんだ紙じゃ。読めば読むほど、行く理由しか書いておらん」
◆◆◆◆
バルガスは立ち上がると、一族を見渡した。
「——異存のある者は、今、言え」
誰も、何も言わなかった。代わりに、二十七人が、一人、また一人と、立ち上がっていった。
バルガスは頷き、契約書を捧げ持つと、七基の金床の前へ歩いた。
一番古い金床の面に、紙を、そっと置く。
そして、その上に無骨な手のひらを重ね、岩の底から響くような声で、言った。
「——五代の銘と、七つの金床に誓う。鉄鎚のバルガス、一族二十七名。この紙の約束を、鉄の約束とする」
署名は、金床の上で行われた。バルガスが最初に、岩へ鑿を入れるような字で。続いて、字の書ける者は署名を、書けぬ者は煤の指判を。ガリムは、震える手で、時間をかけて、自分の名を書いた。
二十七の名と判が並んだ契約書は、それ自体が、ちょっとした工芸品のようだった。
最後に俺が署名し、掲げる。
「「「——おおおおおッッ!!」」」
今度こそ、手放しの歓声だった。
◆◆◆◆
引っ越しの支度は、驚くほど早かった。三年の窮乏は、荷物を最小限にしていたし、何より、彼らは全員が玄人だ。荷車と橇はその日のうちに補修され、七基の金床は、うちの馬車と合わせて、危なげなく積み上げられた。
出発の朝、バルガスは、空になった集落と、傷だらけの岩山を、長いこと見上げていた。
俺は、その隣に立って、置き土産を渡すことにした。
「棟梁。一つ、教えておくことがある。——あんたたちの読みは、間違ってなかった」
「……何の話じゃ」
「魔鉄の本脈だ。あの坑道の延長線上に、脈は確かに『あるはずだった』。ただ、大昔の地揺れの断層で、脈が丸ごと——西へ四十歩、飛んでる。浅い所にな。この眼で視た。埋蔵は、太い」
バルガスは、西の谷を、まじまじと見た。それから、掘り口の並びを見た。もう一度、西の谷を見た。
「…………四十歩」
「ああ」
「三年……たったの、四十歩、隣を……っ、く、ふ……」
バルガスは、笑い出した。泣いているのか笑っているのか分からない、それでも確かに、笑い声だった。
「山は、嘘をついとらんかった。ワシらの手も、耳も、狂うとらんかった。……ただ、四十歩……!」
「いつか、支保と道具と週休二日を揃えて、掘りに戻ろう。今度は——誰も死なない掘り方で」
「……ああ。ああ、戻ろうとも」
俺は例の境界杭を引き抜いて、西の谷の入り口に打ち直し、新しい紙を一枚、留めておいた。
『この脈、商談予約済み。——隣の領主より』
名刺代わりである。
◆◆◆◆
昼前、行列は峠の頂に立った。
先頭はザグだ。岩の下の親戚を連れて帰るのだと、鍋兜を袖でぴかぴかに磨き上げて、胸を張って歩いている。荷車の上ではガリムが笛を首から下げ、金床の縄を——今度は自分たちで結んだ縄を、誇らしげに押さえている。
列のどこかから、低い歌が始まった。鎚の拍子の、ドワーフの道行き歌だ。一人が歌い、二人が和し、やがて二十七人の声が、峠の風に乗った。
バルガスが、俺の隣に並んだ。
「……して、領主どのよ。次の現場は、どんな山じゃ」
「山じゃないさ」
俺は、峠の南——遥かな荒野の彼方を、指差した。
「街だ。——大都市をこれから、つくるんだ」




