第二十九区画「紙の毒牙は音読に弱いようです」
早馬の主は、日暮れの境界杭の前で馬を止めた。
旅塵に汚れた中年男。腰に算盤と帳面袋。……見覚えのある癖で、男は親指をぺろりと舐めた。
検収人だ。突き返しの名人殿の、お出ましである。
男は馬を降りもせず、鞍の上から、ゆっくりと首を巡らせた。崩れ落ちた三番坑の傷痕。集落。そして、いるはずのない人間とゴブリンの姿。算盤玉のような目が、忙しく弾かれていく。
「……ゆっくり見ていくといい。見落としがあると、報告の手間が二度になる」
俺が声をかけると、男はびくりと肩を揺らし、無言で馬首を返した。蹄の音が、南東の旧道を転がり落ちていく。
「追わなくてよろしいのですか」
「いいんだ。正確に報告してもらった方が、客足が早い。——こっちの店は、もう開いてる」
◆◆◆◆
俺は二枚の紙を仕上げた。
一枚は、商業ギルド公証院への申立書。宛名は公証院長。規約第二百十八条違反、その他一切の調査を求める旨。末尾には、俺の署名と——公証院に眠る、ある誓約書の原本保管番号を添えた。成人の儀以来の付き合いというのは、こういう時に効く。
もう一枚は、和解書の草案だ。
セリアはセリアで、蝋燭の下、帳面に細かい数字を並べ続けていた。証文三十七条と、ギルド統一規約の全条文との、突き合わせ。
「終わりました。違反、計十一件です」
「十一件。……解剖の時より増えたな」
「昨日は毒の設計を見ました。今夜は、法との照合です。設計が邪悪でも合法なものと、設計以前に違法なもの。——後者が、十一件」
翌朝、俺は委任状第四条に従い、棟梁に段取りの全部を報告した。報告を受ける、ということ自体に、棟梁はまだ慣れない顔をしていた。
「……ワシは、何をすれば」
「何も。ただ、一族と一緒に、見ていてくれ。紙が紙に勝つことを」
◆◆◆◆
客は、翌日の昼に来た。
荷車が二台。屈強な人足が八人。その先頭で、仕立てのいい旅装の男が、ひらり、と軽やかに馬を降りた。
齢五十絡み。糸のように細い目。揉み手が服を着て歩いているような、腰の低い立ち姿。
「いやいや、いやいや。バルガスの棟梁、ご無沙汰をしております。このドレルめ、報せを聞いて、取るものも取りあえず——」
男は崩れた三番坑を見上げ、これ以上ないほど痛ましげに、眉を下げた。
「なんとまあ、お労しい。坑道があの有様では、初雪までのお約束は、もはや誰の目にも……ええ、ええ、残念ですが、履行不能は確実。つきましては、債権保全のため、お預かりしております担保を、本日、引き上げさせていただこうかと」
人足たちが、油布の金床の方へ、じり、と動いた。
「——動くな」
俺は、卓を挟んでドレルの正面に立った。
糸目が、すう、と細くなる。
「……これはこれは。どちら様で? 当家と棟梁の、込み入った商いの席ですが」
「本件の、代理人だ」
俺は委任状を掲げ、条文を読み上げた。ドレルの視線が、末尾の署名の上で、一瞬だけ止まる。
「ローゼン、ベルク……」
「さて、仲買人殿。早速だが、今の口上には間違いが二つある」
「ほう。間違い、とは」
「一つ。第二十九条の期日は『初雪まで』だ。まだ六月。履行不能の『予兆』とやらで期日前に担保を処分できる条項は、あんたの書いたこの紙の、どこにもない。……ご自身の証文くらい、正確に暗記しておいたらどうだ」
ドレルの手が、ぴたりと止まった。
「二つ目の間違いは、もっと根が深い。セリア」
「はい」
セリアが、一歩前に出た。帳面は、持っていない。手ぶらだ。全部、頭の中にある。
「商業ギルド統一規約、第二百十八条。職人の生業道具を担保として差し押さえるときは、商業ギルド公証院の公証を必須とする。本証文に、公証院の印はありません。よって第二十二条に基づく差し押さえは、三年前のその日に遡って、無効。あなたが引き上げると仰るあの縄は、法的には、ただの縄です」
「…………ほう」
ドレルの目が、初めて開いた。糸の奥から覗いたのは、算盤玉の色をした、冷たい光だった。
「素人談義としては、面白い。ですがねえ、お嬢さん。商いの紙というものは——」
「続けます」
セリアは、遮った。そして——始まった。
「同規約第八十四条、貸付利率は月三分を上限とする。本証文第四条、月一割。違反。第八十六条、複利の約定は上限利率の枠内でのみ有効。第十一条の繰入条項、違反。第九十一条、貸付時の物品価格は市場価格に準拠する。別紙目録、粉袋、当時北方冬季相場の二・八倍。干し肉、三・一倍。油、三・四倍。違反。第百二条、検収費用及び運搬費用を借り手にのみ負担させる特約の禁止。第十五条後段、違反。第百十条、担保価値は債権額面の三倍を超えてはならない。債権、最大でも金貨九十枚。担保、市場査定金貨七百枚超。約八倍。違反。第百二十四条、差し押さえに先立つ催告義務。第二十二条『催告なく』、違反。第二百十八条、前述、違反。——さらに」
息継ぎの位置が、分からなかった。
条番号と事実だけが、澱みなく、句読点ごと畳みかけるように連なっていく。ノルトールの商人を沈めた、あの長尺呪文詠唱だ。ドレルの糸目が、条文の弾着のたびに、小刻みに揺れる。
「——さらに、検収記録。過去三年、三十六回の納入における突き返しの発生率を演算しました。突き返しは、皆さんの累積納入量が節目に近づいた月に限って、跳ね上がっています。相関、ほぼ完全な逆相関。加えて王国暦一〇四九年八月、同一の坑、同一の脈から同日に納入された二荷について、一方を上位品位で受領、一方を品位不足で返却した記録が残っています。——品位は、山が決めるものです。帳簿の都合で、岩の質は変わりません」
背後で、検収人が、ひっ、と喉を鳴らした。親指が、行き場を失って宙で止まっている。
「以上、規約違反、計十一件。全て、条番号と証拠の頁数を添えて、全て文書化済みです」
沈黙が、落ちた。
ドレルは、しばらく置物のように固まっていた。それから、ゆっくりと——嗤った。
「……いやはや。大した口上だ。だがねえ、お若いの」
揉み手が、再開される。ただし今度のそれは、乾いた音がした。
「規約、規約と仰るが、規約を運用するのは人。人を動かすのは、力だ。私がどこの看板を背負っているか、ご存じないと見える。ゴルドー商会。南で聞いてごらんなさい。ギルドの窓口の役人が、私の顔を見てどちらに頭を下げるか」
「……ゴルドー商会」
セリアが、繰り返した。心なしか、嬉しそうに。
「変数のご提供、感謝します。当てはめ直します。——ゴルドー商会、北方交易路における年間取引額を、公開されている隊商規模から概算。同商会が『職能道具の不当差し押さえの常習』でギルド裁定を受けた場合、規約により連鎖する取引資格の停止、保証枠の凍結、既存契約の見直し請求。信用損失の総額、初年度だけで——金貨、一万二千枚規模」
「———」
「あなたが今日ここで守ろうとしている債権は、最大で金貨九十枚です。比率にして、百三十分の一。……商会の帳簿を預かるお立場なら、この算盤を、私が弾くまでもないはずですが」
ドレルの頬が、初めて、引き攣った。
「は、ハッタリを……素人の小娘が、商会の内情など——」
「ハッタリかどうかは、これで確かめるといい」
俺は、懐から申立書を出し、卓の上に、宛名を上にして置いた。
商業ギルド公証院・院長宛。
ドレルの目が、宛名と、俺の署名と、その脇の原本保管番号の上を、三往復した。……気づいたらしい。公証院の金庫に原本を預けている人間が、どういう種類の人間か。
「これは、まだ出していない。出せば、あんたと商会は裁定まで泥沼だ。そして正直に言えば、俺も出したくない。裁定なんぞ待っていたら、金床が係争物として塩漬けになる。うちは——今日、あの縄を解きたいんでね」
「……取引、ですか」
「これは取引じゃないさ。和解だ。文面は、もう書いてある」
◆◆◆◆
『和解並びに債権不存在確認書』
第一条(確認) 甲ドレルと乙鉄鎚のバルガス一族は、王国暦一〇四七年冬付証文に係る債権及び債務が、当初より一切存在しなかったことを、相互に確認する。
第二条(担保の解放) 甲は、乙の職能道具一式(金床七基を含む)に係る差し押さえを直ちに解き、縄、封印その他一切を、本日中に自らの手で撤去する。
第三条(請求等の禁止) 甲は、乙及びその一族に対し、名目の如何を問わず、今後一切の請求、取引の強要、接触を行わない。
第四条(申立ての留保) 丙タクミは、本和解が誠実に履行される限り、商業ギルド公証院への申立てを留保する。甲が本書に違反したときは、丙は直ちに申立てを行い、併せて甲及びその背後の商会の常習的規約違反の事実を公表する。甲はこれに異議を唱えない。
第五条(原本) 本書は同文三通を作成し、甲、乙、丙が各一通を保持する。
王国暦一〇五〇年 六月十八日
甲 仲買人ドレル
乙 鉄鎚のバルガス
丙(代理人・立会) タクミ・フォン・ローゼンベルク
◆◆◆◆
「第一条の通り『当初より存在しなかった』——九十枚ごと、消えていただく。それが、一万二千枚をお守りする値段だ」
ドレルは、長いこと文面を睨んでいた。
糸目の奥で、算盤が弾かれている音が、聞こえるようだった。九十と、一万二千。裁定の泥沼と、今日の撤退。
やがて男は、ふ、と息を抜き——いつもの揉み手の顔に、戻った。
「……いやいや。参りました、参りました。手前どもも、行き届かぬ書式で長々とご迷惑を。ええ、ええ、水に流しましょう、お互いに」
ペンが走る。ドレル、と。存外に、几帳面な字だった。
棟梁が署名し、煤の拇印を捺し、最後に俺が署名した。
人足たちが、命じられるまま、不承不承に金床の縄を解き始める。ドレルは荷車に戻りかけて、ふと、足を止めた。
振り向いた顔は、揉み手の男のものでは、なかった。
「……ローゼンベルク卿、でしたな。北の空きっ風の中に、面白い紙遊びをなさる方がいると——南の本店にも、ぜひ、ご報告せねば」
「ああ、正確に頼む。二度手間は、互いに嫌いだろう」
「ふ、ふふ。……ご機嫌よう」
荷車と人足の列が、東の旧道へ遠ざかっていく。
入れ替わりに、岩陰からザグが駆け戻ってきた。
「領主。あの列、途中で割れた。——早馬が一騎だけ、南へ向かって、すっ飛んでった」
南。王国の方角。その先にあるという、ゴルドー商会の本店。
……火種が一つ、川を下っていくのが見えた気がした。まあいい。来るなら、来た時だ。うちにはもう紙と、龍がいる。
◆◆◆◆
「棟梁。仕上げだ」
俺は、借り物のナイフを、柄の方からバルガスに差し出した。
棟梁は、それを受け取り、七つの影の前に立った。二十七人が、輪になる。
ぶつ、と。
最初の縄が、切れた。二本目。三本目。人足どもの結んだ縄が、次々と地に落ち、最後に油布が、風を孕んで滑り落ちる。
——夕陽の中に、七基の金床が、並んでいた。
三年分の埃を被って、それでも、黒々と、揺るぎなく。台座の側面に刻まれた五代の銘が、斜めの光に浮かび上がる。
誰も、すぐには触れなかった。
やがて棟梁が、震える手で、一番古い金床の面を撫でた。それが合図だったように、老ドワーフが金床に額を付けて泣き崩れ、若い衆が肩を組んで吠え、ガリムが松葉杖のまま、声を上げて泣いた。
男泣きの輪の真ん中で、棟梁は、腰の鎚を抜いた。
そして、一番古い金床の面にこん、と。一つだけ、打った。澄んだ音が、岩山に、まっすぐ立ち昇った。
三年ぶりの、鍛冶場の心臓の音だった。
「……音が、戻った」
棟梁は、掠れた声でそれだけ言うと、懐から折れた楔を取り出し、金床の上に、そっと置いた。
「こいつは、打ち直す。……今度は、銘を入れてな」
◆◆◆◆
その晩、集落には三年ぶりの、まともな火が焚かれた。
うちの荷から出した食糧は、施しではなく「和解成立の祝いの席への、隣人の持ち寄り」ということで、棟梁も今度は突っ返さなかった。理屈の付け方さえ間違えなければ、誇りと腹は、両立するのである。
火の向こうで、棟梁が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「領主どの。……明日、時間をもらえるか」
「ん?」
「借りの紙は、消えた。約束通り、次の話をする番じゃ。——今度は、こちらから聞きたい」
焚き火が、棟梁の目の中で、揺れていた。三年ぶりに、前を向いた男の目だった。
「ああ。——朝礼の後で、ゆっくりと」
「……ちょうれい、とは何じゃ」
それは明日、覚えてもらうとしよう。うちの現場は、挨拶から始まるのだ。




