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第二区画「その少女の名はセリア・フォート・アークライトというようです」

 適性検査から五年が経ち、俺は十歳になっていた。


『適性なし』の烙印を押された三男に、ローゼンベルク家が割く予算はゼロに等しい。


 教育担当から最低限の読み書きと常識、礼法だけを教わると、あとは完全な放置。剣術の稽古にも、魔法の講義にも、俺の席は用意されていない。


 ……最高の職場環境である。


 ノルマなし。上司(父)の叱責なし。同僚(兄)との交流なし。


 空いた時間はすべて自己研鑽に投資できる。前世でこんな部署があったのなら、異動願いが殺到していたに違いない。


 というわけで、俺は日中のほとんどを館の図書室と、人の来ない裏庭で過ごしていた。


 今日のテキストは『大陸全土地理大全』。辞書ほどもある分厚い文献を裏庭の木陰へ持ち出し、膝の上に広げる。


 開いたページには大陸図の隅。人間の王国グランディールと、エルフの大森林、ドワーフの山岳国。三つの版図がちょうど突き合わさる国境地帯に、ぽつんと黒く塗り潰された一画が載っていた。


 注釈は、たったの一行。——『魔物頻出ノ不毛ノ地。俗称、死の土地デッドエンド


(三国の国境が交差する結節点みたいな所だな。この場所を一行で切り捨てるとは。もったいない。前世なら、こういう場所にこそ物流拠点を——)


 エリアマーケティングという名の妄想が捗りかけた、その時だった。


 生垣の向こうから、微かにすすり泣くような声が聞こえてきた。


「や、やめてくださいませ……そのリボンは、母から贈られた、大切な……っ」


「うるさいな! 男爵風情の貧乏娘が、生意気に着飾ってんじゃねえよ!」


 本から顔を上げる。生垣の切れ目の先、噴水前の小道で、長兄のギランと次兄のルイスが、一人の小柄な少女を取り囲んでいた。


 艶やかな黒髪を背に流し、碧い瞳を持った人形のように整った顔立ちの少女。


 見覚えがある。ローゼンベルク家に仕える下級貴族、アークライト男爵家の令嬢——セリア、といったか。おそらく父親の用事に同行して、館へ来ていたのだろう。


 その黒髪には、色褪せてはいるが丁寧に手入れされた青いリボンが結ばれている。中小の男爵家の娘に許された、精一杯の装いなのだろう。


 そのリボンめがけて、ギランが足元の泥を蹴り上げた。ルイスはルイスで、指先に小さな魔力の光を灯し、泥の塊をふわふわと宙に浮かべては少女の頭上に落として遊んでいる。


 武力と魔法の神童様の、なんとも高尚な能力の使い道である。


「ほらほら、避けてみろよ。お前の家、うちの機嫌を損ねたら終わりなんだろ?」


「僕たちに頭を下げてお願いすれば、やめてあげてもいいけど?」


 ……完全なパワハラ。いや、優越的地位の濫用。もっと言えば、単なるクソガキのいじめだ。


(やれやれ。どこの世界にも、立場の弱い下請けをいびって喜ぶ無能な管理職はいるもんだな)


 前世でも、さんざん見てきた。元請けの看板を笠に着て、協力会社の職人を怒鳴り散らす連中。


 あの頃の俺は立場上、頭を下げて場を収めることしかできなかったが——今の俺は『無能の三男』


 守るべき地位も、失う評価もない、気楽な窓際族である。


(窓際の特権、行使させてもらうか)


 ため息をひとつ。俺は本を閉じ、立ち上がった。


 言っておくが、剣の天才と魔法の神童を相手に、まともにやり合って勝てる道理はない。


 腕力はスペック不足、魔力は平民以下。真正面からの衝突は、検討にすら値しない悪手だ。


 だが——前世のクレーム対応に明け暮れた三年間で叩き込まれた『交渉術ハッタリ』なら、負ける気はしない。


 交渉の基本は、相手の真のニーズと、恐れているものの把握にある。


 あの兄たちがこの世でいちばん恐れているもの。それは魔物でも他国の軍でもなく——実力主義の権化たる父、グレゴール・フォン・ローゼンベルクの不興だ。


 そして俺は知っている。今日の午後、二人には剣術の合同稽古が入っていたこと。そしてつい先ほど、稽古場に教官が一人きりで立っていたのを、図書室の窓から見かけたことを。


(事実八割、嘘二割。ハッタリは、真実に少しだけ毒を混ぜるのがコツだ)


 俺は足音を忍ばせて生垣を回り込み、兄たちの背後から、わざとらしく、かつ焦りきった大声を上げた。


「ああっ! 兄上たち、こんなところにいらしたのですか! 探しましたよ!」


「チッ……なんだ、無能のタクミか。俺たちの邪魔をするな」


 不機嫌そうに振り返る兄たちへ、息を切らす演技をしながら早口でまくし立てる。


「邪魔だなんてとんでもない! それどころではないのです! 先ほど、父上がひどくお怒りのご様子で兄上たちを探しておられました! なんでも、本日の剣術の合同稽古を、お二人がすっぽかしたとかで……教官殿が直々にご報告へ上がったらしく、『武門の名を汚す怠け者め、見つけ次第ただではおかん』と、木刀を握りしめて大広間を行ったり来たり……!」


「なっ……!?」


 ギランの顔から血の気が引いた。心当たりがあるからだ。


「し、しまった、ルイス! 稽古の時間を忘れていた……!」


「あ、兄上! 早く行かないと父上に半殺しにされるぞ! 言い訳だ、言い訳を考えろ!」


 真っ青になった兄たちは、いじめていた少女のことなど記憶から消し飛んだ様子で、館へ向かって全力疾走で逃げていった。


 転がるようなその背中を、俺は営業スマイルのまま見送る。


 もちろん、父が木刀を持ち出して怒り狂っているというくだりは、完全なでっち上げだ。


 だが稽古をすっぽかしたのは事実。あとは兄たちの脳内で、勝手に恐怖が膨らんでくれる。


 人間、自分に落ち度がある時こそ、いちばん視野が狭くなるものだ。クレーマー対応で学んだ人間心理の、ささやかな逆用である。


 嵐の去った裏庭で、少女がへたり込んでいた。泥に汚れた青いリボンを、壊れ物のように両手で包み込んでいる。


 俺は無言で歩み寄り、ポケットから真っ白なハンカチを取り出して差し出した。清潔なハンカチを常に持ち歩くのは前世からの習慣だ。


 現場でもオフィスでも、この一枚で人の信用は案外変わる。


「……汚れてしまったな。これで拭くといい」


 セリアはビクッと肩を震わせ、俺を見上げた。警戒と、混乱と、それから値踏みするような色の混じった、驚くほど理知的な目だった。


 無理もない。彼女から見れば、俺も『伯爵家の人間』——いじめっ子どもの同類であり、おまけに『無能』の烙印を押された一族の恥晒しだと、話題になっている。


 差し出されたハンカチに裏がない、と考えるほうが難しいだろう。


「……なぜ」


「ん?」


「なぜ、私などをお助けになったのですか。あなたは、あのお二方の弟君でしょう。それに——先ほどの、伯爵様がお怒りだというお話。あれは、嘘ですね」


 ほう、と声が出かけた。


「稽古の件はまことなのでしょう。ですが、あなたは『探しました』と仰りながら、呼吸がまったく乱れておりませんでした。走ってなどいない。それに大広間は館の東。あなたが現れたのは西の生垣の陰。……動線が矛盾しています」


(……おいおい)


 十歳そこらの少女が、恐怖に震えながら、こちらの呼吸と動線を観察していたというのか。前世の部下に欲しかった人材ナンバーワンだな。


 内心の感嘆を押し隠し、俺は肩をすくめてみせた。


「人聞きが悪いな。助けたわけじゃない。騒がしくて、読書の邪魔だっただけだ。それに——」


 泥の跳ねた彼女のドレスと、握りしめられたリボンを一瞥する。


「他人の持ち物を不当に毀損すれば、後々、面倒な賠償問題に発展しかねない。あの人たちはリスク管理というものが分かっていないんだ。家中の揉め事は資産価値を下げる。俺は、そういう非効率が嫌いなだけだよ」


 我ながら、十歳の口から出るにはあまりに事務的で、可愛げのない台詞である。


 だが、下手に善意を装うより、こういう理屈のほうが警戒心の強い相手にはかえって届く——それも前世で学んだことだ。


 果たして、セリアはしばらく俺の顔をじっと見つめたあと、ぽつりと小さな声で言った。


「……ドレスの染み抜きに、銀貨二枚。リボンは……市場価値は銅貨数枚ですが、代替が不可能ですので、算定できません」


「…………は?」


「賠償のお話をなさいましたので、その、算定を」


(即答!? この子、いま泣いてたよな!?)


 涙の跡も乾かぬうちに損害額を弾き出す十歳児。


 俺は生まれて初めて、この世界で「話が通じる」人間に出会った気がした。この娘、流石に優秀すぎる。


「……まあ、算定できないものを失わなくて、よかったな、そのリボン」


「っ……」


 セリアが小さく息を呑む。それから、何かをこらえるように深くうつむいた。


 俺はそれ以上何も言わず、彼女に背を向けて歩き出す。


 読書の続きが待っているし、これ以上関われば兄たちに目をつけられて、かえって彼女の立場を悪くする。引き際の見極めも、仕事のうちだ。


 数歩進んだところで、背後から、微かな——本当に微かな声が届いた。


「……ありがとう、ございました。タクミ、様」


 振り返らず、片手だけ軽く上げて応えた。


 ハンカチは返ってこなかったが、まあいい。


 あの程度の経費で、あの観察眼と演算能力の持ち主に恩を売れたのなら、投資対効果としては破格だろう。


 ——なんて、その時の俺は軽く考えていた。


 この小さな貸しがその五年後、政略結婚を蹴って家出してきた令嬢を俺の馬車に飛び込ませ、やがて『死の土地』の財政をその細腕一つで支える最強の右腕を連れてくることになるとは、さすがの俺も予測していなかったのだ。


 これが、後に『大都市の氷の令嬢』と呼ばれる少女、セリア・フォート・アークライトとの最初の出会いだった。

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