第二十七区画「二度目の紙切れには出口があるようです」
最初に立ち上がったのは、若い衆だった。
「……ぶち殺してやる」
「あの野郎、次に来たら坑に埋めて——」
「気持ちは分かる」
俺は、卓を軽く叩いて、視線を集めた。
「だが、得物が違う。無闇に人に鎚を振れば、その瞬間、あんたたちが罪人になる。連中はそれすら計算に入れる種族だ。——紙に噛まれたなら、紙で噛み返す。と相場で決まっている」
「紙で……噛み返す?」
「ああ。手順は三つだ」
俺は指を立てた。
「一つ。担保執行の無効主張。金床は返してもらう。二つ。商業ギルド公証院への、規約違反の申立て。公証院とは、付き合いがある。申立書は今夜中に俺が書く。最後の三つ。これは保険だが、債務そのものを、額面で買い取る準備だ」
「———買い取る、じゃと? ワシらの借金を、お主が?」
「金貨九十なら、充分に手が届く。債権ごとこっちが持てば、連中の札は一枚残らず紙屑になる。使わずに済むのが一番いいがね。保険ってのは、そういうものだ」
「並行して、もう一枚、策を用意します」
セリアが帳面を開いた。
「『職能道具の不当差し押さえの常習』が公になった場合、この仲買人及び、あの組印の主が失う信用取引の額。相手が誰であれ、突き付ければ青ざめる桁になる試算になるはずです」
うちのCFOは、抜き身の刃を研ぐ時が、一番楽しそうである。
◆◆◆◆
「……で。ワシは、何をすればええ」
「一枚だけ、書いてもらいたい紙がある」
セリアが、新しい紙に、大きな——蟻の行列の三倍はある字で、書き上げた。
◆◆◆◆
『委任状』
第一条(委任) 乙バルガスは、甲タクミに対し、仲買人ドレルとの間の王国暦一〇四七年一月八日付証文に関する交渉、無効の主張、商業ギルドへの申立て、その他本件に関する一切の行為を委任する。
第二条(範囲) 本委任は、前条の件のみに限る。甲は、本件のほかに、乙及びその一族に対し、何らの権利も主張しない。
第三条(対価) 乙は甲に対し、本委任の対価として、銅貨一枚を支払う。甲は、その受領をここに確認する。
第四条(報告) 甲は、交渉の経過を、その都度、乙に報告する。
第五条(取消) 乙は、いつでも、理由を問わず、本委任を取り消すことができる。
王国暦一〇五〇年 六月十五日
甲 タクミ・フォン・ローゼンベルク(署名・印)
乙 鉄鎚のバルガス(署名・印)』
◆◆◆◆
「読み聞かせを行います」
セリアは委任状を両手で掲げ、二十七人の一族の前で、一条ずつ、ゆっくりと音読した。難しい言い回しは、その場で子供にも分かる言葉に言い換えながら。
誰も、口を挟まなかった。
紙が正面から読み上げられるのを、この人たちは三年ぶりにいや、生まれて初めて、聞いているのかもしれなかった。
読み終わると、棟梁は長いこと、五つの条文を睨んでいた。やがて、太い指が、最後の一条を、そっと押さえた。
「……出口が、書いてある」
「ん?」
「第五条じゃ。いつでも、取り消せる、と。……入口しかない紙なら、ワシは三年前に懲りた。出口の書いてある紙を、ワシは——初めて見た」
「いい紙の見分け方だ。覚えておいてくれ」
俺は、一族全員に聞こえる声で言った。
「出口のない紙には、判を突くな。どんなに旨いことが書いてあってもだ。まともな契約ってのは、入口と出口が、両方あるものなんだ」
「……対価、銅貨一枚というのは」
「タダの親切には、後から請求書が来るんだろう? なら、先に払っておけばいい。銅貨一枚でも、対価は対価。これで貸し借りじゃなく、正式な契約だ」
「———ふ、」
棟梁の髭が、初めて、笑いの形に動いた。
「変な男じゃ、お主は」
そして、ふと真顔に戻ると、釘を刺すように続けた。
「言うておくがの、領主どの。この紙が片付くまで、他の話は聞かんぞ。……借りのある紙の上に、次の紙は重ねん。それが、ワシの——」
「ああ。順番は、大事だ」
俺は、その先を言わせなかった。雇用の話は、刺さった牙を抜いてからだ。急ぐ営業ほど、信用を減らすものはない。
棟梁は懐から銅貨を一枚、卓に置いた。三年間の窮乏を思えば、その一枚の重さは、金貨九十枚より重い。
それから、ペンを取った。
———手が、震えていた。
岩を素手で毟っても震えなかった手が、羽根ペン一本の重さに、震えていた。無理もない。この手が最後に紙へ署名した夜、一族は魂を失ったのだ。
棟梁は、一度ペンを置いた。
代わりに懐から、あの折れた楔を取り出して、委任状の隅に、文鎮のように置く。銘のない、無骨な鉄。それをしばらく見つめてから、もう一度、ペンを握り直した。
震えは、止まっていた。
バルガス、と。
岩に鑿を入れるような、深い署名だった。それから節くれ立った親指を炉の煤で黒く汚し、署名の脇に、ぐ、と押し付ける。
「インクは信用しとらん。……煤は、嘘をつかん」
「結構。——確かに、お預かりした」
俺が委任状を掲げると、一族の間から、太い、太い息が漏れた。歓声ではない。三年ぶりに肺の底まで空気を入れた者たちの、呼吸の音だった。
片付けの傍ら、セリアが先ほどの取引の証文を取りながら、ぽつりと言った。
「……つい最近、この手の紙を見た事があります。一方的でもっと稚拙な……」
俺はセリアに何も訊かなかった。その代わり、一言添えた。
「腕が鳴るか、CFO殿」
「はい。……検算し甲斐のある、悪意です」
◆◆◆◆
ほんの数日後のことだった。
偵察に出ていたザグが、坂を転がるように駆け戻ってきた。
「領主! 南東の旧道、早馬だ、一騎! 真っ直ぐ、こっちに向かっとる!」
広場の空気が、一瞬で張り詰めた。
崩落から、まだ数日。噂が麓へ降りるのにも早すぎる。つまり、あの馬上の誰かは、噂を聞いて駆けつけたんじゃない。
——見に来たのだ。定期的に。獲物が弱っていく様を。
「……噂より、早い客だな」
俺は委任状を胸元に仕舞い、口の端だけで笑った。
いいだろう。狩人殿に、教えてやる頃合いだ。
あんたの狩場には今日から、番人と
——出口のある紙があるということを。




