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第二十六区画「職人たちは紙の牙で狩られていたようです」

 棟梁が胸元から取り出したのは、油と汗の染みで飴色になった、一枚の紙だった。


 畳み皺は布のように柔らかくなり、角はすっかり丸い。三年間、肌身離さず、憎みながら、片時も手放せなかった紙の、成れの果てだ。


 俺が受け取ると、棟梁は踵を返し、顎で集落の方をしゃくった。


「……入れ。立ち話も、何じゃ」


 境界線の内側に、俺たちは初めて『招かれて」 』足を踏み入れた。


 小屋の前の広場に、樽と板で急ごしらえの卓が組まれる。二十七人の一族が、遠巻きに、それでも一人残らず集まってきた。松葉杖のガリムも、最前列にいる。


 卓の上に、証文を広げる。


 蟻の行列のような細かい字が、びっしりと、全三十七条。


 その契約書の要所は、こういう文面だった。


  ◆◆◆◆


『金銭及び物品の貸借、並びに継続取引に関する証文』


 前文 厳冬により窮状にある鉄鎚のバルガス一族(以下「乙」)の様を見るに忍びず、仲買人ドレル(以下「甲」)は、隣人の誼と同業の情をもって、薄利による救済の貸付を行うものである。乙は甲の厚情に深く感謝し、以下の各条を誠実に履行することを、ここに誓う。

 第一条(貸付) 甲は乙に対し、食糧・油・薪・資材一式(別紙目録の通り、総額金貨十五枚相当)を貸し付け、乙はその受領を確認する。

 第四条(利息) 本貸付の利息は、月あたり一割とする。

 第九条(充当) 乙の弁済は、まず諸費用、次に利息、最後に元本の順に充当する。

 第十一条(繰入) 支払われざる利息は、翌月初日をもって元本に繰り入れる。

 第十五条(検収) 乙が納入する鉱石の品位及び数量の判定は、甲の指定する検収人が単独でこれを行い、乙は判定に対し異議を申し立てない。検収に適わざる納入物の運び戻しに要する費用は、乙の負担とする。

 第二十二条(担保) 乙は、本証文上の一切の債務の担保として、乙の保有する職能道具一式(金床七基を含む)を甲に供する。乙が支払いを怠ったときは、甲は催告なくこれを差し押さえることができる。

 第二十九条(買戻) 乙が王国暦一〇五〇年の初雪までに、検収済みの魔鉄鉱・千二百貫を甲に納入したときは、甲は差し押さえたる道具一式を乙に返還する。

 第三十七条(合意) 本証文は、甲乙の署名をもって成立する。乙は、全条項を確認の上、何人の強制も受けず、自由な意思により署名したことを表明する。

 王国暦一〇四七年 一月八日

 甲 仲買人ドレル(署名)(組織印)

 乙 鉄鎚のバルガス(署名)(捺印)』


  ◆◆◆◆


「セリア。頼む」


「はい。お預かりします」


 セリアは証文を手に取ると、上から下まで、一度だけ、静かに目を通した。時間にして、二百数える程度。それきり紙を伏せ、目を閉じる。


「読み終わりました。以後、原本には触れません。全三十七条、記憶しましたので」


 ドワーフたちが、ざわ、と揺れた。


「先に、全体の所見を申し上げます。三十七条の内のほとんどの条文はごくごく真っ当な、退屈な条文です」


「……真っ当、じゃと?」


「はい。荷の受け渡し場所、雨天時の取り決め、桝の寸法。誰が読んでも頷く条文ばかりです。ですが、これは藪です。この無害な藪の中に、牙が——五本、埋めてあります」


 セリアは目を閉じたまま、歌うように条番号を挙げ始めた。


「まず、前文から」


「前文? 挨拶の文句じゃろう、あれは」


「いいえ。あれが、一本目の牙——正確には、麻酔です」


 俺は、前文を読み返して、固まった。


 ……見覚えの、ある構造だった。


 読み手を情の側から酔わせ、「感謝」を誓わせ、以降の条文の上を、目が滑るように設計された前文。恩を先に立てて、疑う心そのものを恥に変える書き方。


「……これは」


「はい。——あなたの血判状と、骨格が同じです」


 背筋に、冷たいものが走った。


 俺が父を酔わせるために用いた技術と、寸分違わぬ技術が、飢えた一族を狩るために使われていた。同じ牙だ。噛みつき方までもが同じだ。


「……道具に罪はない、と思いたいがね」


「違いは、あります」


 セリアは、静かに言い切った。


「あなたの紙の牙は、相手が約束を破った時にしか、出ません。この紙は守っても、噛む。そういう設計です。これから、それを証明します」


  ◆◆◆◆


「一つ目。第一条、元本です」


 セリアの解剖が、始まった。


「別紙目録の単価を、当時の北方冬季相場と照合します。粉袋、相場の二・八倍。干し肉、三・一倍。油、三・四倍。資材、二・六倍。——総じて、約三倍。つまり『金貨十五枚相当』と書かれた荷の中身は、市価にして金貨五枚少々です」


「な……借りた時から、三倍……!?」


「はい。皆さんは、五枚分の粉と肉のために、十五枚の借金から始まったのです。雪の夜に、目録の単価を市場へ確かめに行ける者は、いませんから」


 広場が、どよめいた。


「二つ目。第四条、第九条、第十一条、利息の三点締めです。利率は月一割。弁済はまず費用、次に利息。払い切れない利息は元本に化ける」


「……月一割の雪玉じゃ」


「ええ、雪玉です。しかも第九条がある限り、皆さんが汗で納めた鉱石は、まず運び戻し費用に食われ、次に利息に食われます。お手元の受領記録から演算しました。この三年間、元本は一度も、一枚も、減っていません。皆さんが返してきたのは、最初から最後まで、利息と費用だけです」


 三年分の槌の振り下ろしが、一枚も元金に届いていなかった。その意味が染みるまで、広場は水を打ったようだった。


「三つ目。第十五条、検収です」


 セリアは、そこで初めて目を開けた。


「品位の判定は、貸し手側の検収人ただ一人。異議は封じられ、突き返された荷の運び賃まで、こちらの負担。この一文がある限り、この契約は、必ず完済できません」


「か、必ず、じゃと」


「返済が近づけば、突き返す量を増やせば済むからです。判定基準は先方の胸の内にしかない。つまりこの証文には、皆さんが返済に成功する分岐が、設計の段階から一本も存在しません。ちなみに、第二十九条の買戻条件。魔鉄鉱・千二百貫。崩落前の全坑道が、無事故、無休、検収落ちゼロで初雪まで稼働したと仮定して演算すると、理論上の最大産出は、必要量の六割強でした」


 六割強。


 最初から届かない場所に吊るされた餌だ。命懸けで跳び続ければいつか届くと、信じさせるためだけの。


「あ……」


 列の中で、検収番をしていたらしい老ドワーフが、よろめいた。


「あの、荷駄賃……突き返された荷を曳いて戻る、あの銭も……ぜんぶ、決められた通りに、ワシらが……」


「はい。第十五条の、後段です」


「四つ目。第二十二条、担保です。支払いを怠れば、『催告なく』差し押さえ。……普通の貸し借りなら、まず督促が来ます。待ってくれ、と言う機会があります。この紙には、それがない。一度の遅れが、即座に金床に届く引き金として設計されています」


 セリアは一拍おいて、付け加えた。


「そして最後に、第三十七条。『何人の強制も受けず、自由な意思により署名した』——雪と、飢えと、蝋燭一本の夜に書かせた紙へ、わざわざこの一文を入れる。後から『追い詰められて署名した』と言わせないための、先回りです。ここまで来ると、最早……」


 セリアの声が、初めて、途切れた。


 伏せた証文の縁を押さえる白い指先に、ぐ、と力がこもる。


「———失礼しました。続けます」


  ◆◆◆◆


「ところで、一点、奇妙な点が」


 セリアは末尾の署名欄を示した。


「甲の署名の脇に、個人の判とは別の、小さな組印が捺されています。仲買人個人の証文に、なぜ、組織の印が要るのでしょう。……この印の主は、控えとして記憶しておきます」


 俺も、その小さな印を目に焼き付けた。……後で、調べる価値がありそうだ。


「さて。ここまでが仕込まれた毒の牙の話です。ここからは——欠陥の話をします」


「欠陥?」


「はい。この、完成された狩りの道具に、たった一つだけ空いている穴。商業ギルド統一規約、第二百十八条。通称、職能保護条項」


 セリアは、諳んじた。


「『職人の生業道具を担保として差し押さえるときは、商業ギルド公証院の公証を必須とする。公証にあたり、公証人は当事者双方の面前にて、全条文を読み聞かせなければならない』


 道具は職人の食い扶持そのもの。職人が道具を失えば、ギルドの商圏ごと痩せる。だからギルドの法は、道具を取る契約にだけは、蟻の字の誤魔化しを許していないのです」


「……読み、聞かせ」


「そして、この証文に、公証院の印は、どこにもありません」


 棟梁の目が、見開かれた。


「なぜ無いか。簡単です。公証人に全条文を音読させれば、三倍の目録も、月一割も、一方的検収も、その場で白日の下に晒される。この紙は恐らく、破棄されるでしょう……結論。第二十二条に基づく金床の差し押さえは、規約違反。法的には——無効。あの封をしている縄は、ただの、縄です」


 広場が、爆発した。


 怒号とも歓声ともつかない声。老ドワーフが油布に取り縋って泣き、若い衆が拳を突き上げる。


 棟梁だけが、卓に両手を突いたまま、動かなかった。


「……三年」


 絞り出すような声だった。


「三年、ワシらは……ただの縄、一本に……」


「あんたのせいじゃない。読み聞かせをさせないために、連中は雪の夜と、蝋燭一本と、空きっ腹を選んで来た。狩りの手口として完成されてる。恥じるべきは、狩られた側じゃない」


 俺は、封のされた七つの油布の方へ歩き、鑑定眼を開いた。触れはしない。見るだけだ。


 『祖伝の金床(七基):五代の銘入り・名工道具』

 『市場査定:一基あたり金貨百枚超』

 『七基一式(由緒付き):金貨七百枚超——好事家・王侯に需要あり』


 鑑定眼の内容を読み上げると、広場が凍りついた。


「セリア。連中が主張し得る債権の額面は」


「水増しの元本と、三年分の複利を、全部認めてやったとしても——金貨九十枚前後です」


「九十の貸しの担保に、七百の価値を縄に掛けた、と」


「はい。これで動機まで揃いました。結論を申し上げます」


 セリアは一族に向き直り、はっきりと言った。


「あなたたちは、騙されたのではありません。——狩られたのです」

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