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第二十五区画「労災という概念はこの世界にはまだ無いようです」

「その岩、下からだ!! 三つ数えて、引くぞ!!」


 穴の奥で、ザグが吠えた。


 一、二——三。


 鈍い音がして、岩が動いた。押し殺した悲鳴。それから、闇の中で、緑の腕が体を抱え込むのが、鑑定眼越しに見えた。


「掴んだァ!! 引けェッ!!」


 棟梁が命綱を引いた。血塗れの両手に、太い縄が食い込む。ドワーフたちが数珠つなぎに取り付いて、渾身で引く。


 肩幅の穴から、まず土に汚れた細い足が。次いで体が。最後に、笛を握り締めた拳が引き出された。


 続いてザグが、頭から転がり出る。


 その瞬間、宙に浮いていた札が——ぱきん、と。


 硝子の砕けるような音を立てて、罅の巣ごと、光の粒になって散った。


「全員、走れェェッッ!!」


 全員が、白線に向かって駆けた。退避路の札が最後の光で足元を照らし、走るという行いだけを、力ずくで後押しする。誰かがガリムを担ぎ、誰かがザグの襟首を掴み、雪崩のように線を越えた。


 直後。


 背後で、山が落ちた。


 ずずん、どんっと腹に響く轟音。救助坑もろとも、三番坑だった場所が完全に潰れ、土煙が白線の手前まで伸びて、そこで、止まった。


 降り注ぐ砂の音。誰かの咳。それきりの、静寂。


「———点呼!! 声を出せ!!」


 俺は吠えた。喜ぶのは、数えてからだ。


「一!」「に、二……」「三!」「四だ」「…………五」


 五人。掘り出した五人、全員の声。救助側も、指差しで数える。ザグ、掘削工二名、ドワーフの支保班、セリア、俺、欠けなし。


 鑑定眼の隅で、タグが静かに書き換わった。


 『生存反応:坑外・五』


 ……全員、生きている。


 一拍遅れて、岩山が割れるような歓声が、爆発した。


  ◆◆◆◆


 俺はといえば、歓声の輪の外で、立っていられなくなっていた。


 膝が笑っている。他人の土地で二枚、全力の代償だ。全てを使い切ったらしい。


 ……チートスキルって、もっと万能で、疲れ知らずに使いまくれるものじゃないのか。


 傾ぐ体を、細い手が支えた。


「……無茶を、なさいますね」


「経営判断だ」


「嘘ですね」


 うちのCFOは、手厳しい。


 休んでいる暇はなかった。担架の方から、呻き声が聞こえる。


 重傷は、二名。腕を折った坑夫と脚を岩に挟まれていた、ガリムだ。他は擦り傷と打撲で済んでいる。


 俺は治療薬の栓を抜き、折れた腕の男の添え木の内側へ、惜しみなく振りかけた。ガリムの脚にも、たっぷりと。高いやつだ。効きも早い。


 ドワーフたちが、ざわついた。


「お、おい、人間……そんな上等の薬を……」


「い、幾らだ。薬代は……ワシらには、払えるものが……」


 払えるものがない、と言いかけて、老ドワーフが唇を噛む。彼らの世界では、少なくともこの三年の彼らの世界では、そういう決まりだったのだろう。怪我は自己責任。薬は借金。働けない者から、順に飯が減る。


 だから俺は、はっきり言った。


「これに請求書は、ない」


「な……」


「今日この現場の指揮は、俺が預かった。指揮者の現場で出た怪我は、指揮者の責任だ。薬代も、治るまでの飯も、指揮を執った側が持つ。うちの領では、それを『労災』と呼ぶ」


「ろう、さい……?」


「労働災害の、略だ。覚えなくていい。ただ、これだけ覚えておいてくれ。……あんたたちは今日、何も間違っていない。間違っていたのは、現場の方だ」


 ドワーフたちは、しん、と黙り込んだ。


 叱られた顔でも、疑う顔でもない。ただ、聞いたことのない言葉を、聞いたことのない優しさの側から殴られたような、そんな顔だった。


 担架の上で、ガリムが笛を握ったまま、俺を見上げた。


「……教わった、通りに……した」


「ああ。見事だった」


 天井が鳴いた瞬間の二回の笛が、班の大半を坑の外へ逃した。閉じ込めが五人で済んだのは、この若いのの肺のおかげだ。


「道具も……捨てた。鶴嘴も、置いて、走った。……親方、ごめん。俺、道具を——」


「————よう、捨てた」


 低い声がした。


 棟梁だった。血塗れの手で、ガリムのざんばらの頭を、一度だけ、乱暴に撫でる。


「道具は、また打てばええ。……よう、捨てた」


 それだけ言うのが、精一杯のようだった。


  ◆◆◆◆


 騒ぎが引き、負傷者が小屋に運ばれ、日が中天を過ぎた頃。


 棟梁が、俺の前に立った。


 何か言おうとして、口を開き、閉じ、もう一度開き 

 それから。膝から、崩れた。


 岩のような男が、土の上に両膝を突いたのだ。二十七人の一族の目の前で。


「———なぜだ」


 絞り出す声だった。


「ワシは、お前を追い返した。槍を向けさせた。紙も破らせた。それでもお前は、線の外から山を測って、笛を配って、段取りを組んで、命まで張った。……なぜ、助けた。見返りは何だ。ワシらから、何を取る気だ」


 何を取る気だ、か。


 毒の抜けない問いだった。長い間、彼らにとって人間の親切とは、必ず後から請求書の来るものだったのだから。


 俺は、その場にしゃがんで、目の高さを合わせた。


「命よりも現場を優先する。そんな状況を見過ごせなかった。それだけだ」


「…………」


「気づいた時には間に合わない。そんな事はいつだって起きる。でも、今回は間に合った。よかったな」


 朝の光の中で笑っていた顔とひしゃげた金属の箱のことを言わなかった。言えるくらいなら、とっくに整理がついていることだ。


 棟梁は、長いこと俺の目を見ていた。


 やがて、何かに気づいたように、ゆっくりと息を吐いた。


 ……ああ、この人は知っているのだ。崩れた山の前に立ち尽くした人間が、どんな目になるか。自分がそうだったから。


「……借りが、できた」


「貸しにする気はない。言ったろ、今回は、紙はなしだ」


  ◆◆◆◆


 夕暮れ、ザグが集落の端に、湯気の立つ鍋を無言で置いてきた。


「……余った。捨てるのも、もったいねぇ」


 うちの領のものは、とことん素直じゃない。


 そして、翌朝である。


 俺は、自分の目を疑った。


 朝靄の中、ドワーフたちが列を作って歩いていく。肩には鶴嘴と、支保にもならない細い端材。向かう先は四番目の坑道だ。


 包帯だらけの腕の男までが、列の中にいた。


 俺は、列の先頭に回り込んだ。棟梁が、足を止める。昨日、膝を突いた男の目は、今朝はもう、あの死んだような決意の色に戻っていた。


「……止めてくれるな、領主どの。昨日の借りは、いつか必ず返す。じゃが、ワシらは掘らねばならん」


「三番坑は潰れた。脈ごとだ。分かってるはずだ」


「四番から、回り込む。日数を、詰めれば……」


「詰めた結果が、昨日だ」


 棟梁の顔が、歪んだ。分かっている。誰よりも分かっている顔だ。それでも。


「初雪までに、鉱石を納めねば、金床が戻らん。金床を失った鍛冶は、名を失う。名を失った一族に、次の冬は越せん。……ワシらには、掘る以外に、もう道がないんじゃ」


 飢えと、担保と、期日。


 昨日、命を拾っても、この三つは待ってくれない。だからこの人たちは今朝も、あの山に向かって歩く。敵わない敵に、素手で。


 ……いいや。違う。


 きっと、敵を、間違えているだけだ。


「棟梁。ひとつだけ、確認させてくれ」


 俺は、一歩、道の真ん中に踏み出した。


「あんたたちを殺しかけたのは、昨日の山か? それとも——初雪までに掘れと書いてある、その紙きれか?」


 棟梁の目が、見開かれた。


 背後の列が、ざわめく。ガリムが、松葉杖の上で息を呑むのが見えた。


「山は、正直だ。亀裂で警告して、軋みで予告して、期日通りに落ちた。……嘘をついてるのは、山じゃない」


「———」


「なら、敵を変えよう。山じゃない」


 俺は、手を差し出した。


「——その紙を、見せてもらえないか」


 朝靄の中で、棟梁の血塗れの手が、震えながら、ゆっくりと、胸元へ動いた。

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