第二十四区画「許可は後から取ればいいようです」
音は、耳より先に、腹の奥に響いた。
———ずん。
夜明けの峠を、鈍く重い震動がひとつ、突き抜けた。岩山の方角から、灰色の土煙が、ゆっくりと空へ立ち上っていく。
誰も、何も言わなかった。言う必要がなかった。
俺たちは、荷を掴んで走り出した。
三日前から鞄に詰めてあった『段取り』の全部を担いで、坂を転がるように駆け下りた。
境界線の杭の前で、槍を構える者は、もういなかった。
「許可は——後で取る!!」
誰にともなく吠えて、俺は線を越えた。
◆◆◆◆
現場は、悲鳴と土煙の坩堝だった。
東から三番目の坑道。その坑口が、亀裂の入っていたあの天井ごと、崩れ落ちていた。瓦礫が喉元まで詰まり、坑口だった場所は、ただの石の壁になっている。
壁の前で、ドワーフたちが折り重なるように石に取り付いていた。素手で。爪を割り、指を血に染めて、闇雲に石を引き剥がしている。
その真ん中に、あの厚い背中があった。
棟梁は誰よりも深く瓦礫に腕を突っ込み、獣のような声を上げて石を毟っていた。両手は、もう血の塊だった。
俺は駆け寄り、その太い手首を、両手で掴んだ。
「離せッ!! 中に、まだ————」
「素手はやめろ!!」
腹の底から、怒鳴り返した。
「順番を間違えた石が、中の空気ごと潰す!! あんたが、この山の誰よりそれを知ってるはずだ!!」
棟梁の動きが、止まった。
血走った目が、俺を映す。怒りと、恐怖と、そして、理性が、その目の奥で軋み合っているのが見えた。
「指揮は俺が預かる。文句も、恨みも、あとで全部聞く。許可も後で取る。だから今は、腕を貸せ!!」
一秒。二秒。
棟梁は、俺の手を振り解き——瓦礫に背を向けて、一族へ吠えた。
「一同、人間の、言う通りにせいッッ!!」
◆◆◆◆
そこからは、何百回と想像を繰り返した段取りの連続だった。
「全員、瓦礫から三歩下がれ! これより点呼と、状況確認!!」
鑑定眼を、石の壁の奥へ開く。
『閉塞長:八歩』
『内部空隙:あり(坑口側・崩落前区画)』
『生存反応:五』
『うち一名:脚部圧迫・移動不能』
五人、全員生きている。
俺がそれを叫ぶと、ドワーフたちがどよめいた。「なぜ分かる」の声を、事実で塗り潰す時間も惜しい。
と、その時だった。
ピッ、ピッ。
石の壁の奥から、くぐもった、小さな音。ひと呼吸おいて、また、ピッ、ピッ。
笛だ。二回。二回。規則正しく、繰り返している。
「……ガリム」
生きている。それどころか、教えた合図を、崩落の中で吹き続けている。生存者の位置を、自分で報せているのだ。
傍らで、生き残りの老ドワーフが涙声で言った。
「……あの若いのが、笛を吹いたんじゃ。天井が鳴った途端、笛を二回……皆、それを合図に走って、それで……儂らは、外に……」
俺は一瞬だけ目を閉じ、それから、開いた。
感傷は後だ。今は、仕事をする。
「役割を割る!! 棟梁、あんたと腕利き五人は支保だ! うちの持ち込みの梁材を使え、寸法はそっちの目で決めていい! 掘るのはうちの専門家だ」
ザグと掘削工二名が、進み出た。ドワーフたちが、ゴブリンの姿に一斉に息を呑む。
構うものか。
「セリア!!」
「はい。荷重経路、演算します」
セリアが瓦礫の壁の前に立ち、視線だけで石の山を舐めるように走査した。彼女の高速演算——彼女の頭の中で今、何百手の『石の詰み筋』が読まれている。
「上から二列目、右の角石。荷重、乗っていません。抜けます」
「よし!」
「その左の平石は駄目です。要石です。触れれば、全部来ます。中央部は総じて触らない。掘り口はここではなく、右肩、崩落前の亀裂の下。既に落ち切った場所が、一番落ちません」
落ち切った場所が、一番落ちない。
ドワーフたちが、ざわ、と揺れた。それは、彼らの流儀に照らしても正しい答えだったらしい。
「聞いた通りだ! 掘削は右肩から、口径は肩幅!! 広げるな、最短で空隙まで通す!! それから全員、これを首から下げろ!」
俺は、予備の笛を配って回った。
「一回で作業中断! 二回で退避! 考えるな、音で動け!!」
鑑定眼が赤く塗る『二次崩落想定域』の縁に、ザグが白い粉で線を引いていく。線の外に、担架と治療薬と退避の走路を空けさせた。
槌音が、変わった。
闇雲に石を毟る音から、支保の楔を正確に打ち込む、あの正しい速さの音に。ドワーフ達の手が、ようやく正しい仕事を取り戻していた。
◆◆◆◆
狭い救助坑が、石の壁を貫通したのは、四半刻の後だった。
「通ったッ!!」
穴の奥から、掘削工の若いのが叫ぶ。直後、穴の闇から、笛が二回——今度は、はっきりと聞こえた。
ここからが、本番だった。
空隙までの八歩は、崩れ残りの中の、辛うじての隙間だ。人ひとりが腹這いで通るたび、天井の砂がさらさらと鳴る。五人を順に引き出す間、この八歩が保つ保証は、どこにもない。
——切り札を、切る時だった。
俺は救助坑の口に手を突き、力の全部を、二枚に注いだ。
「【神域の用途指定】区画 当救助坑道、口径・肩幅、延長八歩。用途【救助坑道・通行最優先】!!」
「同じく坑口前より白線まで。用途【退避路】!!」
瓦礫の裂け目が、内側から淡く光った。宙に、半透明の札が二枚、滲むように浮かぶ。
『救助坑道につき——通すこと』
『退避路——迷わず、走れ』
自領の外。権利のない土地。本来なら数分で霧散する、弱い一時指定。だから範囲を、肩幅八歩まで絞り込んだ。濃縮された『用途』が、崩れようとする瓦礫に、崩れるという行いを——ほんの一拍ずつ、ためらわせる。
支えているんじゃない。天井の重さは、札には止められない。
ただ、渋らせているだけだ。塞ぐことを。数分だけ。
その数分を、俺の体から、何かがごうごうと抜けていく。他人の土地で札を貼るというのは、穴の空いた革袋で水を運ぶのに似ていた。
「行けッ!!」
掘削工の一号が穴に滑り込み、続いて二号。ドワーフたちが命綱を繰り出す。
一人目——若い坑夫が、足から引き出された。生きている。
二人目。三人目。腕の折れた男が、歯を食いしばって出てくる。
四人目——肋を痛めた男。担架へ。
視界の端で、札が、チリ、と鳴いた。
半透明の縁に、髪の毛ほどの罅が走っている。
「タクミ様——もう札が持ちません。残り九十——」
セリアの声。九十秒。
そして、五人目は、まだだ。一番奥。脚を岩に挟まれた、あいつが残っている。
「二号じゃ届かねぇ! 挟まってる岩の抜き方が、要る!!」
穴の奥から声。瞬間、ザグが命綱を腰に巻きつけていた。
「——俺が行く」
「ザグ!」
「穴のことは、一番知ってる。落ちる穴も、落ちない穴もだ。……言ったろ、領主」
鍋兜を脱ぎ捨て、ザグは肩幅の闇へ、頭から滑り込んだ。
ちり、ちり、と札が鳴く。罅が、蜘蛛の巣のように広がっていく。
「残り——六十」
穴の奥。ザグの声が、くぐもって響く。岩の位置。挟まれた脚。抜く順番。セリアが外から、演算を怒鳴り返す。
「残り——三十!!」
棟梁が、穴の縁に取り付いて吠えた。血塗れの両手で、命綱を握り締めて。
「ガリム————ッッ!! 手ェ伸ばせッッ!!」
闇の奥で、笛が——二回。掠れて、それでも、二回。
ザグの緑の腕が、限界まで伸びる。土に汚れた細い指先が、震えながら、それに応える。
あと、残り指——三本分。
札が、悲鳴のように、鳴いた。




