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第二十三区画「折れた楔は口より雄弁なようです」

 棟梁は、境界線の杭の前で、ぴたりと足を止めた。


 こちらが打った線を、踏み越えてこない。……なるほど。線の意味を知っている男だ。


 俺も一人で岩陰を出て、杭を挟んだ向かいに立った。セリアとザグには、目で「動くな」と伝えてある。


 近くで見る棟梁は、岩を服に詰めたような男だった。鉄灰交じりの髭。樽のような胸。


 そして、両手の指が、鎚の柄の形のまま固まっている。何十年も同じ道具を握り続けた者だけがなる、職人の手だ。


 ただし、目の下には炭のような隈が沈み、頬はこけていた。


「——出ていけ」


 低い声だった。怒鳴ってすらいない。 


「二度は言わん。次は槍が外れん。紙も、二度と寄越すな」


「分かった。今日は紙を持ってきていない」


 俺は両手を上げてみせ、それから、ゆっくりと懐へ手を入れた。棟梁の肩が張る。取り出したのは、布に包んだ、あの折れた鉄の楔だ。


「まず、返し物だ。おたくの沢に落ちていたのを、うちの者が拾った」


 布を開いて、差し出す。


 棟梁の目が、楔に落ちた。


 その瞬間、男の顔から、追い払いに来た者の色が消えた。


 手が、勝手に動いたのだと思う。分厚い指が楔を摘み上げ、破断面を空に透かし、木口を撫で、角度を確かめる。意思より先に、手が仕事をしている。


 ああいう手の動きだけは、どんな役者にも真似できない。


「いい楔だ」


 俺は言った。


「銘は無いが、一級の腕が打ってる。焼きの入れ方も、面の取り方も、うちの領の支保材とは比べ物にならない。その一級の楔を、設計の三倍以上の荷重で折る現場を、黙って見過ごせないでいてね」


「…………」


「補強は無償でやる。資材もこちら持ちだ。今回は、紙も要らない。口約束でいい。三番目の坑道に、柱を入れさせてくれ。それだけだ」


 棟梁の手が、楔を握り込んだ。分厚い拳の中で、鉄がみしりと鳴く。


「———何が、目的だ」


 絞り出すような声だった。


「タダより高い物はない。ワシらはそれを、骨の髄まで教わった。飯を貸す。資材を貸す。恩に紙を被せて、判を突かせる。……気づいた時には、利子が山より高くなって、一族の——」


 男は、そこで言葉を噛み殺した。


「———金床まで、持って行きよった」


 金床。鍛造するための作業台。


 鍛冶の一族が、その言葉を口にする時の重さくらいは、俺にも分かる。心臓を担保に取られたと同義だ。


「あんたたちに、その紙を書かせたのが誰かは知らない。だが、俺はそいつじゃない」


「同じよ」


 棟梁は吐き捨てた。楔を握った拳が、震えている。怒りだけの震えでは、なかった。


「人間の親切には、後から必ず請求書が付いてくる。人間の紙だけは、二度と、信じん」


「なら、紙抜きだと言っている。柱を三本、担いで入って、打って、帰る。請求書はない」


「要らんと言っとるんだ!!」


 初めて、声が割れた。 


「ワシの山だ! ワシの現場だ! 掘り方は、ワシが決める! 余所者が、分かった風な口を、利くなァ!!」


 怒声が岩肌に反響して、消えた。


 男の目が、一瞬だけ、坑道の並びの方へ泳いだ。東から三番目。それから何かを振り切るように、俺を睨み直す。


 ……ああ。そうか。


 この人は、俺に怒ってるんじゃない。


「帰れ。二度と来るな」


 棟梁は踵を返した。厚い背中が遠ざかっていく。


 五歩。その背中が、止まった。


「…………五日、というのは」


 振り向かない。声だけが、風に乗って届く。


「誰の見立てだ。何を、見た」


「坑口から二十歩の天井、右肩の亀裂が水を吸って黒くなってる。支保は要る数の半分。ズリの捨て場が近すぎて、山裾が荷重に泣いてる。全部、外から見えるものだけだ」


「…………」


「それと、これは今朝の追加情報だ。うちには岩と話せる専門家がいてね。水の音が、昨日から変わったそうだ。天井の上で、水が新しい隙間を広げてる。専門家の見立ては、五日じゃない。三日だ」


 厚い背中が、石のように固まった。


 長い、長い沈黙だった。


「……帰れ」


 最後のそれは、怒声ではなかった。ひどく、掠れていた。


 棟梁は今度こそ歩き去った。手の中の折れた楔を、返さないまま。


  ◆◆◆◆


「決裂、ですか」


 岩陰に戻ると、セリアが帳面を開いて待っていた。


「ああ。交渉決裂、門前払い二件目。……ただし」


「ただし?」


「楔は、持って帰った」


 セリアの筆が、す、と動く。


「『脈あり』と記録します」


「うちのCFOは商談用語が的確で助かるよ」 


 ザグは焚き火の縁で、鍋兜の顎紐をいじりながら唸った。


「……あの頭、群れのために怒ってた。てめぇの為に怒る奴と、群れの為に怒る奴は、目が違う」


 その日の夕暮れ。俺は鑑定眼の視界の隅で、妙なものを見た。


 仕事終いで坑道から吐き出されてくるドワーフたちの流れに逆らって、坑口へ向かう影が一つ。肩に、支保用の梁材を担いでいる。


 あの、厚い背中だった。


 『第三坑道:支保・一箇所増設(単独作業)』


 ……止まれないなら、せめて自分の手で。 


 一人で担げる柱の数と、山の残り時間。その割り算の答えを、棟梁が誰より正確に知っているはずだった。


  ◆◆◆◆


 夜半だった。


「領主」


 ザグの声で目が覚めた。焚き火の輪の外、闇の際に小さな影が一つ、立ったり座ったりを繰り返している。


 俺が身を起こすと、影は観念したように、明かりの中へ入ってきた。


 あの若いドワーフだった。槍の穂先を、指二本だけ下げて、破られた紙を、拾っていった。


 彼は懐から、皺だらけの紙片の束を出した。破れ目と破れ目を合わせ、樹脂か何かで裏から丁寧に継いである。俺の書いた、あの通告書だった。


「———これは、本当か」


「本当だ。しかも古い。今の見立ては、五日じゃなく、三日を切ってる」


 若いドワーフの喉が、ひゅ、と鳴った。膝から力が抜けたように、その場にしゃがみ込む。


 ザグが黙って、湯気の立つ椀を突き出した。干し茸と堅パンの雑炊だ。若者がびくりと身を引くと、ザグは面倒くさそうに言った。


「食え。俺たちは岩の下の親戚だろ」


「……っ」


 彼は椀を受け取り、一口すすって、しばらく肩を震わせてから、一気に食った。……どれだけ食っていなかったのか、訊くのはやめておいた。


「名前は」


「…………ガリム」


「ガリム。よく来てくれた。……訊きたいことが、あるんだろう」


 ガリムは空になった椀を握り締め、うつむいたまま、ぽつり、ぽつりと話した。


 破られた紙の数字が、全部、自分が密かに数えていた数と同じだったこと。亀裂の場所も、柱の不足も。


 三年前、故郷の王室坑道で、「落ちる」と言った親方の警告が握り潰され、その通りに山が落ち、責任だけを被せられて一族ごと追われたこと。


 冬の飢え。人間の仲買人の紙。気づけば担保に取られていた、曾祖父の代から続く、七基の金床のこと。


「……金床を失った鍛冶は、名を失う。初雪までに鉱石を納めれば、返すって、紙にはある。だから掘ってる。だから、止まれない。……でも」


 ガリムは顔を上げた。飢えた目に、涙が盛り上がっていた。


「親方は——分かってるんだ。あの掘り方が、どういう掘り方か。世界中の誰より、分かってる人なんだ。分かってて……分かってて、俺たちに、掘らせてる」


「…………」


「夜中、皆が寝た後、親方が一人で柱を足して回ってるの、皆、知ってる。寝たふりして、知ってるんだ。朝には親方の手が、切り傷だらけになってるのも。……なあ、あんた、知ってんだろ。教えてくれ。俺たちは———どうすりゃいい」


 どうすればいい。


 その答えを、紙一枚で渡せるなら、どんなに楽だろう。だが、飢えと、担保と、初雪の期日。この三つが崩れない限り、あの現場は止まらない。止め方は、ある。だがそれは、今夜のガリムに背負わせる話じゃない。


 だから俺は、答えの代わりに、荷物から一つ、取り出した。


 合図の笛だ。


「持っていけ」


「……笛?」


「うちの現場の命綱だ。天井が鳴いたら、考えるな、吹け。二回だ。二回吹いたら、全員で走れ。掘りかけの鉱石も、道具も、全部捨てて走れ。そう、みんなに伝えろ。いいか、ガリム。山の中で一番、価値があるのは、鉱石じゃない。生きてる坑夫だ」


 ガリムは笛を、両手で受け取った。壊れ物みたいにそっと。


「……明日の朝一は」


 立ち上がりながら、彼は言った。


「三番坑は———俺の班なんだ」


 闇に消えていく小さな背中を、俺は最後まで見送った。


 その夜、山は不気味なほど静かだった。軋みの一つも、鳴らさなかった。


 ……知っている。この嵐の前のような静けさを。


 誰も起こさず、俺はもう一度だけ、命綱の結びを確かめ直した。


 もうすぐ、夜明けが———来る。

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