第二十二区画「通告書は破られてからが本番のようです」
翌朝。夜明けと同時に、俺は岩陰を出た。
手には木槌と杭と、一枚の紙。向かう先は、昨日、投げ槍が突き立った、あの地点である。
連中が自分の手で引いた「境界線」だ。不動産屋として、これほど分かりやすい筆界もない。ならば、掲示物はその線の上に出すのが礼儀というものだろう。
杭を打つ。乾いた岩肌に、木槌の音が跳ねる。集落の方で、見張りの角笛が短く鳴いた。構わず、打つ。深く、まっすぐ。看板の基礎で手を抜く業者に、ろくなものはいない。
打ち終えた杭に紙を留め、最後に、昨日頂戴した投げ槍を、そっと立てかけた。借り物は返す主義である。
紙面には、こうある。
『警告
一、東から三番目の坑道は、五日以内に崩落する。
二、根拠。坑口から二十歩の天井、右肩の亀裂が水を吸って黒い。支保の柱は、要る数の半分もない。ズリの捨て場が坑口に近すぎ、山の裾が荷重に泣いている。
三、疑うなら、その目で確かめよ。すべて、外からでも見える。
四、補強は無償で請け負う。資材も、こちらが持つ。
隣の領主より』
脅し文句ではなく、点検表。口説き文句ではなく、見積書。プロが自分の目で照合できる事実だけを、素人の言葉で並べた。
プロというのは因果な生き物で、感情で紙は破けても、正確な数字だけは無視できない。……俺も同じ一族だから、よく知っている。
◆◆◆◆
岩陰に戻り、遠眼鏡代わりの鑑定眼で、掲示板の反響を待った。
最初に来たのは、昨日の投げ槍の主らしい、肩幅の広いドワーフだった。杭の前で立ち止まり、紙を睨み、髭が読む速さで揺れ、それから、山が割れるような声で吠えた。
「——五日だと!! 山の腹時計を、人間が読めるかァ!!」
紙が、四つに裂かれた。八つに裂かれた。裂いた男が唾を吐き、集まってきた連中が、どっと笑う。
笑い声は、風に乗ってここまで届いた。
だが、俺の眼には、笑いと一緒に、別のものも映っている。
『集団感情:嘲笑(表層)』
『同:不安——検出(深層)』
……笑いが、乾いているのだ。誰も彼も、笑いながら、ちらちらと東から三番目の坑口を見る。見て、目を逸らす。半分もない支保の数を、俺に言われるまでもなく、本当は全員が数えている。
やがて連中は、仕事に散っていった。裂かれた紙片が、風に転がる。
その時だった。
列の最後尾にいた、あの若いドワーフ。昨日、穂先を指二本だけ下げていた、あいつだ。
あいつは、仲間の背中を確かめてから、風に転がる紙片を、一枚、二枚と追いかけて拾った。膝をつき、砂を払い、破れ目と破れ目を合わせて、読み直している。
長い、長い時間をかけて。
それから紙片を懐へ押し込み、何事もなかったような顔で、坑道へ走っていった。
「……読者、一名。発見、」
「破られてから読まれる紙、というのも、あるのですね」
セリアが帳面に短く書き付ける。俺は頷いた。上等だ。紙の仕事は、破られてからが本番だ。
◆◆◆◆
昼。俺たちは境界線の外側を回り込むように、岩山の外周を歩いた。
目的は測量だ。連中の坑道が、山の何を追いかけているのか。それを外から確かめておきたかった。
鑑定眼を広域に開く。岩肌の下、視界の奥に、鈍い光の筋が浮かび上がる。
『魔鉄鉱・枝脈:現坑道前方、先細り/残量:僅少』
……追っているのは、魔鉄か。武具にも魔道具にもなる、山の値打ちものだ。連中の坑道は六本とも、この枝脈の尻尾に、まっすぐ食らいついている。
だが、俺の足が止まったのは、その次のタグだった。
『断層:南北走向 脈の変位を検出』
『魔鉄鉱・本脈:西方四十歩・深度浅/埋蔵:大』
「…………おい、嘘だろ」
「タクミ様?」
「脈が飛んでる」
断層。大昔の地揺れか何かで、地層が丸ごと、ずれた痕だ。魔鉄の本脈はその断層で断ち切られ、横っ飛びに変位して、まったく別の場所、西の谷側の浅いところに、太々と眠っている。
つまり、連中がいま、命を削って追いかけている先にあるのは、痩せ細った枝脈の尻尾だけ。掘り進めた先で、脈は、消える。
「彼らの読みが、外れていると?」
「いや、読みは正しい。脈は本来、あの延長線上にあるはずなんだ。断層さえ、なければ」
岩肌に手を当てて読む。音を聞いて読む。何代もかけて磨いてきた、あの手と耳の技術は、何も間違っちゃいない。
ただ、この山が、一枚だけ嘘をついている。地面の下の、誰の目にも見えない場所で。
「……最悪の査定結果ですね。危険なだけでなく——無意味です」
セリアの声が、珍しく硬い。
「なあ、セリア。分からないのはそこだ。プロなら、脈が痩せてきたことくらい、手応えで気づいてるはずだ。それでも掘るのを止めない。止められない。……この突貫には、山より怖い『事情』があるってことだ」
「……煙です」
セリアが、集落の二筋の煙を指した。
「あれは炊事の煙ではありません。炉の煙です。掘った魔鉄を、その場で精錬している。つまり彼らは、掘って、造って、どこかへ、納めている」
「何か、事情がありそうだな」
「はい。そして納期に追われる者の掘り方は、ああなります」
納期。期日。ノルマ。
……ああ、まったく。世界が変わっても、現場を殺す言葉は、変わらないらしい。
帰り際、セリアがぽつりと言った。
「食糧を、置いていきますか。栄養状態のタグが、その、ずっと赤いままなので」
「……いや。やめておこう。施しは、あの手の誇りには毒だ。飯は賃金として堂々と払える日のために、取っておく」
「承知しました。『食糧支給・保留』と」
帳面に、悔しそうな細い字が並んだ。うちのCFOは、数字の外側も、ちゃんと痛む人である。
◆◆◆◆
日が落ちてから、ザグが立ち上がった。
「領主。夜のうちに、穴の様子、見てくる。音と水で、山の残り時間、分かる」
「頼む。ただし、線の内側には入るな。俺たちはまだ、招かれてない」
「分かってる。……岩と話すのに、線は要らねぇ」
ザグと掘削工二名は、夜目の利く足で、音もなく闇へ消えた。ゴブリンという種族は、つくづく夜と岩の専門家である。
戻ってきたのは、月傾いてからだった。
ザグは焚き火の前に座ると、しばらく黙って手を炙り、それから、静かに言った。
「三日だ」
「……五日じゃないのな?」
「岩に耳ぃつけてきた。天井の上で、水の音が変わってる。昨日までにかなり広がってやがる。岩が呻く間隔も、詰まってきてる」
掘削工の若いのが、膝を抱えたまま、ぼそりと付け足した。
「……山、泣いてた」
「五日ってのは、確率の話だ。だが山の機嫌は、確率の外を走る。——三日。五日も、保たねぇ」
沈黙が、焚き火の爆ぜる音だけになった。
通告書には、五日と書いた。訂正の張り紙を出すか? いや——数字を吊り上げれば、今度こそただの脅しに見える。それに、どちらが正しいかは問題じゃない。
備えるべきは、常に、早い方だ。
「よし。段取りを組み直す。——今夜からだ」
救助計画。想定は最悪、東から三番目の坑道の崩落、坑内に人員あり。
進入路の下見は昼のうちに済ませてある。滑車の点検、命綱の結び直し、担架の組み立て、支保材の先端加工。笛の合図の再確認——一回で中断、二回で退避、三回で救助要請。
そして計画書の一行目に、俺はこう書いた。
『助けに入る側を、死なせない』
二次災害は、救助の失敗じゃない。救助の放棄だ。前世のどの現場でも、これだけは変わらなかった。
「タクミ様。……受注もしていない現場の施工計画が、また一枚、仕上がっていきますね」
「段取り八分、仕事二分。呼ばれてから段取るようじゃ、監督失格なんでね」
俺の札は、他人の土地では二枚きり、それも数分しか保たない。切り札が薄いなら、段取りで厚くする。それだけの話だ。
夜半、岩山がまた、みし、と鳴いた。
……分かってる。急かすな。こっちの準備は、進めてる。
◆◆◆◆
残り、二日と数え直した翌朝だった。
集落の門に、動きがあった。
ひとつの影が、出てくる。昨日、通告書の前で誰よりも遅く立ち去った、あの嘲笑の輪の一番奥で、ただ一人笑わなかった、ひときわ厚い影。
影は迷いのない足取りで、まっすぐ、こちらの岩陰へ向かってくる。供は、いない。
「……来たぞ、領主」
ザグが低く唸った。
「あの歩き方——ありゃあ、群れの頭だ」
俺は立ち上がり、上着の上から、懐の折れた楔を握った。
ようやく、だ。
——棟梁の、お出ましである。




