第一休工日「王国内は大変なことになってきているようです」
⸺タクミが第一期目の工事を完工してしばらくした頃。
グランディール王国北部、ローゼタール地方。ローゼンベルク領内。
ローゼンベルク伯爵邸の執務室では、老家令の読み上げる報告が、重い順に積み上げられていた。
「第一に、王都より軍役令にございます。ゼノス帝国のアルフヘイム侵攻が激しさを増し、大森林の南縁が焼かれた由。国境の守りが緩み、帝国の騎兵が略奪にグランディール王国内にも越境しております。……武門たる当家へも、騎士三十騎と軍資金の供出命令が」
「武門の誉れだ。出す」
執務机のグレゴール・フォン・ローゼンベルクは、眉一つ動かさずに答えた。答えてから、内心で戦費の桁を弾き、奥歯を噛む。誉れというものは、年々高くつく。
「第二に……その越境の、被害にございます。西端のフェルデン村とロート村が焼かれました。死者は幸い少のうございますが、麦倉と廐が灰に。復興の費えは、およそ⸺」
「後にせよ。第三は」
「は。……北部の農地に、立ち枯れが広がっております」
家令は言いにくそうに、書類を一枚繰った。
「雨は足りております。虫でもございません。土が『痩せた』としか、申しようがなく……古い農夫どもは、十五年かけて少しずつ悪うなっていたものが、今年ははっきり悪い、と」
「怠けているだけであろう。監督官を増やし、締め上げよ」
「……御意」
土が痩せる、などという話を、グレゴールは信じない。
土は土だ。実りが減ったのなら、耕す者が怠けたのだ。剣と血で築かれた武門の当主の世界観は、単純で、頑丈で、そして今年、初めて数字に殴られようとしていた。
「以上を踏まえますと……本年の税収見込みは下方修正。戦時供出を含めますれば、当家の年度収支は、赤字に転落いたします」
執務室に、長い沈黙が落ちた。
ローゼンベルク家の帳簿が赤に沈むのは、当代では初めてのことである。家令は目を伏せたまま、慰めのつもりか、恐る恐る付け加えた。
「せめてもの救いは……北の、例の土地の維持費が、本年より帳簿から消えたことでございましょうか。毎
年の赤字補填が、まるごと⸺」
「その土地の名を、この部屋で出すな」
冷えた声だった。家令は首をすくめ、それでも職務として、最後の一枚を読み上げた。
「……最後は、報告と申すのも憚られる、北の行商どもの与太話にございます。曰く⸺『死の土地の山が、鳴くのをやめた』。曰く、『ゴブリンが畑を耕しているのを見た』と」
「⸻」
一拍おいて、グレゴールは笑った。乾いた、短い笑いだった。
「くだらん。山が黙ろうが吠えようが、不毛地は不毛地よ。ゴブリンが畑だと? 次は龍が水を運ぶ、とでも言い出すのだろうよ」
⸺皮肉なことに、その与太話の続きでは、龍は水を「運ばれる」側なのだが。それを知る者は、この部屋には一人もいなかった。
扉が叩かれ、長男のギランが入ってきた。遠征装束である。
「父上。西方の件、この俺に行かせてください。帝国の略奪騎兵ごとき、蹴散らして参ります。このローゼンベルクの武を、王都に思い出させる好機かと」
「……よかろう。武門の名に懸けて、励め」
武功。家格。王家の覚え。息子の言葉は、どれも正しい。正しいが、金はまた出ていく。グレゴールは頷きながら、胸の奥の帳簿が、また一段赤く沈むのを感じていた。
ローゼンベルク邸の執務室の窓は、南向きに造られている。王都のある南へ、栄達のある南へ。代々そうして建てられた館で———。
その日、北の空を見上げた者は、一人もいなかった。
◆◆◆◆
同じ頃。王国東部、ルーン領。 魔石鉱山の月次報告書を前に、ルイス・フォン・ローゼンベルクは、細い眉を寄せていた。
「産出、先月比で二割減。特級品位に至っては、半減……? 数え間違いではないのか」
「三度、数え直させましてございます」
技師長が、額の汗を拭いながら答える。
「坑道は無事、人手も変わりございません。ただ……鉱脈そのものが、痩せております。それに、坑内のマナの噴気が、目に見えて弱い。古株の坑夫どもは、『山の息が浅くなった。まるで何処かにマナが流れてしまっているようだ』などと」
「山の息、ときたか」
東部の山師は、すぐに山を生き物にしたがる。ルイスは鼻で笑い⸺だがしかし、報告書は閉じなかった。 兄と違い、ルイスは数字を軽んじない男である。
魔法学校で首位を争った頭脳は、剣よりも帳簿の異常にこそ鋭く反応する。彼は書庫から過去の産出記録を運ばせ、十五年分を机に並べた。
ルーン領の魔石は、この十五年、「東部の奇跡」と呼ばれる豊作を続けてきた。祖父の代の記録と比べれば⸺明らかに、出来すぎの十五年だった。
(……十五年。始まりの年は、いつだ)
指が記録の上を遡り、一枚の日付で止まる。そして、細り始めたのは、今年の春。
ちょうどそこへ、従者が商人の便りの写しを届けた。商人どもの間で出回っているという、北方の与太話。 『死の土地の山の唸りが、黙った。死の土地が蘇ろうとしている』と。
⸺今年の、春に。
「…………」
ルイスは長い間、窓の外の鉱山を眺めていた。 無能の弟が、北へ消えた。同じ春に、死の山が黙り、東の奇跡が痩せ始めた。
偶然。十中八九は、偶然だろう。魔力なしのあの出来損ないに、山を黙らせる芸当などあるはずがない。
第一、あれの左遷先と当領では、地図上の距離は随分と離れているのだ。
⸺だが、ルイス・フォン・ローゼンベルクは、一割の側を放置できない性質だった。それが「出来すぎの十五年」の終わりと重なっているなら、なおさらに。
「誰か」 呼び鈴を鳴らし、現れた従者に、彼は静かに命じた。
「馬車の扱いに慣れているものを二人。北へやれ。商人に化けさせろ。……死の土地の『今』を、私の目の代わりに見てこい」
従者が下がると、ルイスは壁の大陸図の前に立った。北の端、検地台帳の写しに黒く塗り潰された一画を、白い指がゆっくりとなぞる。
「見せてもらおうか、タクミ。⸺お前の左遷先で、何が起きているのか」
その視線の先で、地図の上の「死の土地」は、ただ黒いままだった。
地図というものは、いつだって現実より、少しだけ古いのだ。




