第十七区画「実は仕組みが一番最強のようです」
翌朝。岩窟の前で、調印式が執り行われた。
岩の上に広げた契約書を、俺は一条ずつ、声に出して読み上げていく。
◆◆◆◆
【守護竜契約書】
前文
デッドエンド領の山の奥底には、守護龍イグナリオンの寝所が存する。かつて当領の坑道普請より生じた騒音はその安眠を甚だしく妨げ、領と龍との間に容易ならざる緊張を招いた。
よって、デッドエンド領主タクミ(以下「甲」という。)と守護龍・警備最高顧問イグナリオン(以下「乙」という。)とは、甲が乙に静穏かつ冷涼なる寝所を保障し、乙がその威をもって当領の抑止力に任ずる相互の利益に鑑み、両者永きにわたる和平と共栄を期して、ここに次のとおり契約(以下「本契約」という。)を締結する。
第一条(寝所の維持) 甲は乙の寝所に【静穏】【恒温】の札を永久に貼付し、月に一度の点検と、十日に一度の冷水を届ける。
第二条(抑止力及び出動義務) 乙は当領に在住し、その威をもって領の抑止力となる。領地への大規模な侵攻の際は、乙の入眠前に限り、一度の出動義務を負う。
第三条(マナ結晶の採掘) 乙の寝所の床下に存する特級マナ結晶の採掘は、乙の書面による同意を要し、産出の一割を乙の取り分とする。
第四条(危害の禁止) 乙は、工事関係者ならびに当領の関係者に危害を加えない。ゴブリンも、これに含む。
第五条(違約の効果) 甲の工事が失敗し騒音が戻った場合、乙は甲を食ってよい。乙が違約した場合、甲は冷水の配達を停止できる。
本契約の成立を証するため、本書二通を作成し、甲乙記名の上、各自一通を保有する。
王国暦一◯五◯年四月十八日
甲 デッドエンド領主タクミ (血判)
乙 守護龍・警備最高顧問イグナリオン (爪印)
「——以上です。ご異議は」
『ない。……四条の「ゴブリンも、これに含む」は、念の入ったことよ』
「明記しろと、依頼主がうるさかったもので、また、これに付随する覚書にも印を押していただきたく」
イグナリオンは俺の手の中にある覚書の内容を一瞥してから一言。
「まあ、よかろう。この程度は瑣末な物よ」
岩陰から様子を窺っていた鍋兜が、ホッとしたような顔をしている。
署名は、俺が血判。そして、イグナリオンは爪判である。
イグナリオンが厳かに爪先をインク壺(樽で代用)に浸し、契約書へと下ろした、その瞬間。
「お待ちください、イグナリオン様」
セリアが無表情のまま、すっと別の羊皮紙を差し出した。
「爪判は、こちらの別紙へ。本紙の署名欄には、物理的に入りませんので」
『また枠の話か!! 貴様らの紙は、なぜそうも狭いのだ!!』
かくして守護龍契約書は、本紙一枚、爪判用別紙一枚(特大)の二部構成で締結された。大陸初の様式である。
調印が済めば、着工だ。
俺は現場に全員を集め、まず地面に退避経路の線を引いた。
「作業前に、今日の危険を全員で確認する。前世……前の職場で『危険予知』と呼んでいたやつだ。この現場の危険は三つ。熱、落石、それから足元の亀裂。合図を決める。俺が笛を一回吹いたら作業中断、二回で退避。退避先はこの線の外。——繰り返すぞ! 復唱!」
「ふくしょう!」
「そうじゃない。中身をだ」
危険予知を終えたら、次は札だ。
俺は現場の中央に立ち、ゆっくりと見回した。ここは俺の土地。ならば、枚数に制限はない。
「【神域の用途指定】——区画、当作業範囲の全域。用途、【工事区画】利用資格、登録作業員」
地面を光の線が走り、洞口の上に札が浮かんだ。
『工事区画につき、関係者以外立入禁止』。
続けて、貼る。貼る。貼る。
「【退避路】——主経路、副経路。【資材置場】【ズリ捨場】【風の道】——ギグ、枝道が繋がったら呼べ。その場で貼る」
「お、おう!」
「【危険区画・立入禁止】本日時点で天井の緩い、三箇所。近づくな。……まあ、近づけないが」
次々と札が浮かび上がり、光の境界が現場を区切っていく。ゴブリンたちが「おおー」と間の抜けた歓声を上げた。
効果は、初日から分かりやすかった。
資材置場に積んだ坑木は、どれだけ雑に積んでも崩れない。ズリ捨場の捨て石も同じだ。退避訓練で走らせてみれば、線の外へ出るまでの時間が、札のない時の半分になった。
立入禁止の札を貼った緩い区画に、面白半分で近づこうとしたゴブリンが一体。
「うっ……なんか、や、やだ……足が、行きたくないって言ってる……」
「そう感じたら、それが正解だ。さっさと、戻れ」
そして最後に、日陰の一角へ、あの一枚を貼った。
『休憩所につき、しっかり休むこと』
半刻後、そこで水を飲んで座り込んでいたゴブリンたちが、目を丸くして飛び起きた。
「な、なんだこれ! もう、疲れが抜けた!?」
「休憩所だからな。ここでは、休むことが仕事だ。疲れたら必ず入れ。これは命令だ」
「休むのが、めいれい……」
ザグが、心底わけの分からんという顔で、鍋兜の下から俺を見上げていた。
いいんだ、それで。俺だって昔は、分からなかったんだから。
初日は散々だった。
朝礼で「本日の危険を三つ」と言えば、ゴブリンたちは「クマ!」「ハチ!」「アネゴ!」と叫んだ(「最後のは誰ですか」とセリアが静かに怒った)。
退避訓練では笛を吹いた瞬間、全員が四方八方に散った。線の外へ、と何度も教え直す羽目になった。
だが、二日目からゴブリンたちは化けた。
風の道が開通したのが、大きかった。ギグの班が細い枝道に潜り込み、崩れた岩を退け、二本の火道を繋いだ瞬間、洞の中を、すーっと冷たい空気が流れたのだ。
それまで熱気に噎せ返っていた坑内が、呼吸のできる場所に変わった。以後、風班は洞の入り口で、布と枠で作った巨大な団扇を交代で煽ぎ続ける。
地味で、退屈で、そして誰一人サボらない仕事だった。彼らはもう知っていた。この風が止まった時に、中で何が起こるかを。
支保班は、想像以上だった。狭い場所ほど、ゴブリンは強い。人間なら這って進むしかない隙間に潜り込み、坑木を担ぎ、寝転がったまま柱を立て、梁を渡す。ザグは組み上がった支保を平手で叩き、耳を寄せ、時々こう言った。
「駄目だ。この柱、鳴いてる。取り替えろ」
俺の【鑑定眼】が『支柱・応力集中:許容内』と表示していても、ザグが「鳴いてる」と言えば、俺は取り替えさせた。数字は平均を見るが、職人の耳は、例外を聞くものだ。
運搬班のズリ出しは、まさに人海戦術だった。籠に岩を詰めて背負い、火道の斜路を鎖のように連なって運び上げる。
捨て石は約束通り、坑口から離れた下流の窪地へ。彼らは何度も何度も、自分たちの頭上に何もないことを確かめながら積んだ。
水班は坑内を巡り、濡れ布を替え、水を配って回る。高熱区画に入った者は、四半刻で必ず外へ出す。「あと少しだ」と粘ろうとする奴を、ゾグは容赦なく引きずり出した。あの小さな体のどこにそんな力があるのか。
そして坑口には、点呼板が立った。左に掛かった木札の数が、坑内の人数。子供たちが誇らしげにその番人を務め、誰かが出入りするたび、甲高い声で数を読み上げる。
「よん、ご、ろく——ろくにん、なか!」
俺が教えた「指差し確認」を、彼らは何故かいたく気に入った。岩を運ぶたび、柱を立てるたび、「あしもと、よし!」「あたま、よし!」と甲高く唱和する。
うるさい。だが、うるさい現場は、大抵、安全な現場だ。
施主も働いた。人力で三日かかる巨岩の撤去は爪の一振り、資材の山越え輸送は翼で一っ飛び。熱で人が入れない最深部の整形は、鱗の御方が直々に担当した。
『……我は依頼主であるぞ。なぜ働いておるのだ』
「施主参加型リノベーションです。このおかげで工期が縮みました」
『世が世なら伝説に謳われる龍の使い方ではないわ』
文句を言いつつ、龍はどこか楽しそうだった。十五年間、この山で誰かと何かをするのは、初めてなのだろう。
セリアは記録と工程管理の鬼だった。資材の残量、各員の作業時間、岩盤の微細なひび割れの推移——全てを諳んじ、遅れの芽を数字で摘んでいく。
ゴブリンたちの「アネゴ」呼びは、すでに畏敬の域に達していた。
そして、作り上げたこの仕組みは命を救った。
「タクミ様。第三支保区画、天井の亀裂——昨日比で二・三倍に進行」
セリアの報告に、俺は迷わず笛を二回吹いた。
二度の甲高い音。ゴブリンたちが道具を放り出し、【退避路】の光る帯へ飛び込む。走る、走る。札のかかった道は彼らの背を押し、頭上から落ちかけた小石さえ、道を避けるように逸れて跳ねた。
全員が線の外へ出て、二十を数える間もなく、さっきまでゴブリン三名が働いていた区画の天井が、岩ごと抜け落ちた。
轟音。噴き出す土煙。【退避路】の札が圧に押されて明滅し、それでも、消えなかった。
土煙の中で、点呼。だが数える必要すら、なかった。
坑口の点呼板は——全ての木札が、右に戻っていた。
「ぜんいん、そと!」
子供の甲高い声が、土煙の中に響いた。
「ガグ、よし!」「ギグ、よし!」「グズ、よし!」
……全員、無事。
俺は崩れた区画へ向き直り、すぐさま札を切った。
「【神域の用途指定】——当区画、【立入禁止】。二次崩落の恐れあり。道具は諦めろ。誰も入るな」
……そして、思う。
俺の札は、天井を支えられなかった。世界の法則を書き換える力を持っていて、岩ひとつ、止められなかった。
当たり前だ。あの亀裂は、俺がこの世界に生まれるより前から、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ刻まれてきたものだ。もう起きてしまったこと。積み上がった劣化。俺の力は、それを巻き戻せない。
俺にできるのは、これから起きることを味方につけることだけだ。逃げること、走ること、知らせること。
助かったのは、亀裂を毎朝測っていたからだ。笛の意味を全員が知っていたからだ。走る道が決まっていたからだ。木札が掛かっていたからだ。
札は、間に合わせてくれた。だが、間に合わせるだけだ。逃げる場所と、合図と、訓練がなければ、あれはただの、光る紙だった。
その晩、ゴブリンたちは俺の笛を神器か何かのように拝んでいた。
拝む相手が違う。拝むなら、亀裂の推移を毎朝測っていたセリアの記憶力と、迷わず逃げた自分たちの足と、木札を掛け替え続けたチビたちを拝め。
セリアは工程表を広げ、四日目の欄に、赤い炭で書き込みを入れた。
『四日目:天井亀裂の進行を確認(前日比二・三倍)→ 笛二回・全員退避。同区画は直後に崩落。人員被害なし。支保を再設計のうえ続行。遅延ゼロ』
「……遅延ゼロ、か」
「はい。安全計画を守ったことによる工程の遅れは、本日時点で、ありません」
当たり前だ、と言いたかったが、やめた。前の人生では、その『当たり前』を証明するために、何百人が声を枯らしてきたか知っている。
仕組みで守る。腕力でも魔法でもなく、仕組みで。それが、前の人生で得た教訓であり、俺の美学だ。
そして五日目。放流路の最終区画を残すのみとなった。地脈まで、岩盤四十メートル。ここから先は、ゴブリンでも、人でも、龍でもなく、マナ自身に掘らせる。
「いよいよ、明日だな」
「ここまで、工期遅れなし。事故はゼロです」
「ああ、よくできてる。だが、気を引き締めなおそう。ここからが正念場だ」
「……タクミ様は、こういう時は慢心や油断をなさらないのですね。普段は楽観的な思考をしておりますが」
「オンとオフの切り替えは大事なんだ。ずっと、オンだと、いつか、ぶっ倒れてしまうよ」
……過去の俺みたいにな。なんて、そんな事は言えなかった。
何故だか、そんな風に語った俺のことをセリアは、じっと、ただ見つめていたのだった。




