第十六区画「紙に書いた事は本当になるようです」
夜。砦の食堂。俺は夕食の匂いが充満した頃合いを見計らって、世紀の難交渉を切り出した。
「ザグ。明日から、北の山で工事をやる。人手が要る」
スープを啜る音が、ぴたりと止まった。三十二対の目がこちらを向き、ザグの鍋兜がゆっくりと持ち上がる。
「…………断る。死んでも行かんと、言った」
「日当は倍。肉は毎食三切れ。危険手当も付ける」
「い、いらん! 肉で命は買えん!」
「龍は手を出さない。契約でそう縛る」
「そんな約束など——」
「今日、その龍が翼で俺たちを庇った。焼け死ぬところだったのを、な。証人はセリアだ」
「事実です。反射的な行動でした。演技ではありません」
ザグは唸った。唸って、唸って、それでも首を縦に振らない。恐怖は理屈では動かない。それは分かっている。だから俺は、最後の札を切った。
「ザグ! あの山は、元はお前たちの山だろう」
「……っ」
「山が壊れたから、お前たちは追い出された。狼も、他の獣もだ。明日からやるのは、龍のご機嫌取りじゃない。あの山を直す工事だ。直れば、山は冷めて、草が戻って、獣が戻る。……いつか、お前たちの帰れる山に戻る」
食堂が、静まり返った。
ザグは長いこと俯いていた。やがて顔を上げた時、その目はまだ怖がっていたが、別の色も混ざっていた。
「………………カミに、書け」
「ん?」
「『龍は、俺たちを食わない』、『山は、いつか帰れる』ぜんぶ、カミに書け! 領主のカミは——本当になる!!」
一瞬、言葉に詰まった。
字も読めない連中が、契約を信じている。この十日、書いた約束を一つずつ守った、ただそれだけの理由で。
「……ああ。全部、書く。一言一句な」
その場で、覚書をしたためた。後程、締結する予定の守護龍契約を原契約とするものだ。順番が前後してしまうが、効力は変わらないから問題ないだろう。
◆◆◆◆
【守護龍契約に関する覚書】
前文
デッドエンド領主タクミ(以下「甲」という。)と守護龍・警備最高顧問イグナリオン(以下「乙」という。)とは、締結予定の守護龍契約(以下「原契約」という。)において、乙の寝所の静穏と当領の抑止力に関する相互の権利義務を定めた。原契約第四条は、乙が工事関係者ならびに当領の関係者に危害を加えざる旨を約し、ゴブリンもまたこれに含むものとした。
このたび、北の山の普請に伴い、ゴブリンの長ザグ(以下「丙」という。)の率いるゴブリンの去就が問題となるに至った。よって甲・乙・丙の三者は、原契約の趣旨を確認し、あわせてこれを補うため、丙をあらたに当事者に加えて、ここに次のとおり覚書(以下「本覚書」という。)を取り交わす。
第一条(禁止事項) 乙は、丙及びゴブリンを食べることを禁じる(守護龍契約・第四条に明記する)。
第二条(許可)北の山を直した後、山へ丙及びゴブリンが帰ることを、甲は認めるものとする。
本覚書に定めなき事項は、なお原契約の定めるところによる。本覚書と原契約とに齟齬あるときは、本覚書を優先する。
本書三通を作成し、甲乙丙記名の上、各自一通を保有する。
王国暦一◯五◯年四月十七日
甲 デッドエンド領主タクミ (血判)
乙 守護龍・警備最高顧問イグナリオン (爪印)
丙 ゴブリンの長ザグ (拇印)
◆◆◆◆
ザグは読めもしない文字列を穴が開くほど眺めてから、大事そうに、例の退去通告書と同じ懐へ仕舞った。
……どうやら、彼にとっての金庫はあの懐にあるらしい。
「その紙、明日持ってきてくれ。龍の判も必要だ」
それから俺は、丸めていたもう一枚を、テーブルに広げた。工程表である。
「次は、仕事の中身だ。誰が、何を、どうやるか。……ザグ、お前が一番大事な班の頭だ」
鍋兜が、ぴくりと動いた。
「支保班。柱と梁で、天井を支える仕事だ。あの火道は、人間には狭すぎる場所が多い。潜って、組んで、山を落とさない。——できるか」
「……穴の柱なら、赤ん坊の頃から見てる」
「頼もしい。次、風の道だ」
俺はテーブルの上に、火道の枝道を描いた。
「あの洞は蒸し風呂だ。しかも、酸素も薄い。何もしなければ、直ぐに全員ぶっ倒れる。だから枝道を繋いで、熱気の抜ける通り道を作る。作ったら、交代で、ずっと風を送り続ける。——地味だが、この工事で一番、命に直結する仕事だ。ギグ、お前の班にやってもらう」
「オイラ!?」
小柄なゴブリンが飛び上がった。周りが囃し立てる。
「他に誰がやれる。細い枝道に潜れるのは、お前らだけだ」
「……お、おう。任せろ」
「運搬班はグズ。掘った岩と土を、籠でリレーして外に出す。ここで一つ、絶対の約束だ。捨て石は、坑口の上には積むな。必ず下流に、離して積め」
「なぜ?」
「上に積んだら、雨が降った時、緩んで、自分たちの逃げ道の真上から降ってくる」
食堂が、しんとなった。ゴブリンたちが一斉に、自分の頭上を見上げた。何もない天井を。
「水班はゾグ。湧水を運んで、濡れ布を替えて、飲ませる。——暑い中で働く奴が倒れるのは、たいてい水を我慢した時だ」
そして最後に、俺は子供と年寄りたちを見た。
「ちびとよぼよぼには、後方支援をやってもらう。坑木の皮むきや準備、縄綯い、炊事——それから、点呼板の管理だ」
「てんこ、ばん?」
俺は木札の束を掲げた。三十四枚。一枚ずつ、絵が彫ってある。ザグの札には鍋。ギグには風。俺のには……セリアが彫った、なぜか羊皮紙の絵だった。
「これがお前たちの名札だ。坑に入る時は、この板の左に掛ける。出たら、右に戻す。——こうすれば、今、中に何人残ってるか、字が読めなくても一目で分かる」
「…………」
ザグが、木札をつまみ上げた。鍋の絵を、じっと見ている。
「……なんで、こんなもんを作る」
「山が落ちた時に、誰を掘り出しに行けばいいのか分からない——それが、一番、地獄だからだ」
誰も、何も言わなかった。
やがてザグが木札を握りしめ、掠れた声で言った。
「……ニンゲンの現場ってのは、みんな、こうなのか」
「……ああ、本来であればな」
俺はぼそっと呟いた。確かに現場はこうあるべきだ。
……でも、そうじゃない現場も多いのも事実。だから、せめて、自分自身が担当する現場くらい守りきりたいのだ。
こうして、作業員三十二名(うち実働二十一名)の山岳派遣が決まった。危険手当、肉三切れ。ゴブリン史上、最も高待遇の遠征の始まりだ。




