第十二区画「誰にも見せない監査報告書があるようです」
グレンツェ砦、二階の小部屋。
瓦礫を運び出し、部屋中の埃を落とし、床を磨き、寝台代わりの長椅子を据えただけの部屋。
それでも、扉と屋根と鍵がある。家出をした人間にとって、この三点がどれほどの贅沢か、王都の令嬢だった頃の私は知らなかった。
髪を解くと、石の粉と茸の胞子の匂いがした。王都の香水より悪くない匂いだ、と思ってしまった。私も大概、毒されている。
蝋燭を一本灯し、旅行鞄の奥から一冊の帳面を取り出す。
これは日記と呼ぶべきなのだろう。もっとも、本来なら私に日記は要らない。
私の【絶対記憶】は、何ひとつ忘れることを許してくれない。見たもの、聞いた声、言われた言葉。全部、消えずに残り続ける。
だから、書くのだ。
書けば、記憶はただの「記録」になって、棚に仕舞える。要するに、帳簿付けと同じである。
今夜で逃避行にもひと区切りがついた。よって、期中の記録を監査する。
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【王国暦一〇五〇年、四月一日】
成人の儀を見学。タクミ様(当時の評価:観察対象)が、デッドエンドへの左遷を命じられる。
特記事項。土下座して泣いていたが、呼吸は最後まで一度も乱れなかった。五年前と同じ。あの涙は演技である。目的は不明。ただ、口頭で交わされた条件は全件記憶した。少なくともあれは「惨めな絶縁状」ではない。あの方は何か重大なものをとても静かに、持ち去った。
結論:追跡調査を要する。
【四月五日】
家出。及び、補佐官への就任。
動機は打算である。打算である。打算である。と、当時の私は三回書いている。三回書く必要があった時点で、監査上は「虚偽記載の疑いあり」と指摘せざるを得ない。
なお、同行を申し出た際、あの方は二秒で快諾した。想定問答を四十七通り準備していた私の立場はなかった。
【四月六日〜七日】
馬車移動。特筆事項はないため、割愛。
【四月八日】
馬車の中が、静かになった。世界の法則が書き換わるところを、初めて見た。
資金 金貨五百枚の開示を受ける。成人の儀の土下座はやはり台本だったと判明。「悪辣です」と発言した記録を残す。訂正はしない。
同日、傭兵を雇わず「言葉の通じる魔物と雇用契約を結ぶ」との経営方針を聴取。正気を疑う旨、記録する。(後日注:疑ったことを、お詫びする)
また、四段階のロードマップなる計画の説明を受ける。第一段階から順に実現可能性を試算——試算不能。前提となる概念(いんふら、あんかーてなんと等)の定義が不明なためである。用語集の作成を要求した。
なお、予算表に計上していた『葬儀費用(二名分)』は、本日付で削除した。根拠はない。削除したくなったので、削除した。こちらも、『虚偽記載』の疑いをかけられる可能性有り。
【四月九日】
ノルトールにて物資仕入れ。市場価格の適正化に貢献(決済額・銀貨四十枚)。
あの人が商人に「開通したら指定業者に」と予約をしていった。大言壮語である。……ただ、あの方が語ると、なぜか風景が見える。枯れた大通りに、隊商の列が並ぶところが。これは錯覚として処理した。
【四月十日】
廃道区間、一日目。進むほどに、人の営みの痕跡が消えていく。夜、遠くで何かの声。
怖い、と書いておく。この帳面は誰も監査しないので、正直に書いておく。
……ただ、焚き火の向こうで「手土産」だの「街路樹の樹種」だのの検討を続けている人が視界にいると、恐怖の見積もりが、どうしてもうまく膨らまない。困った人だ。
【四月十一日】
灰狼の襲撃。戦闘員登録に同意(後程、事前説明を求める旨、抗議済み)。
三分間、私は私ではなかった。いや、正確には、私の演算のすべてに、初めて身体が追いついた三分間だった。あんな戦い方が世界に存在したとは到底信じられない。
初売上、銀貨二十八枚見込みを計上。当開発領、開業前に黒字。
【四月十二日】
入領。湧水を飲んだ。王都の水より甘かった。
あの方の見ているものは、私には見えない。説明される言葉だけ。だが、あの水の冷たさは本物だった。
同日、領地の利回り算出に失敗。生まれて初めて、私の演算が答えを返さなかった。悔しさは感じなかった。それこそが、一番記録しておくべき異常である。
固定資産台帳に『時価:算定不能』と記載。王都の監査人が見たら卒倒すると思われる。
【四月十三日】
砦の明け渡し、強制執行。死傷者、双方ゼロ。
殲滅しない理由を質したところ、「経営判断だ」との回答を得る。……虚偽とまでは言わない。だが、全部でもない。ゴブリンの子供を見た時の目と、ザグ氏の前に膝をついた時のあの人の声は、経営判断の声ではなかった。
私は嘘を見抜くのが得意だ。でも、最近は、嘘の形をした本音も、見えるようになってきた。
【四月十四日】
雇用契約第一号、締結。家族手当、支給開始。第五条(噛んでよい)、成立。
ゴブリンたちが私を「こおりのアネゴ」と呼び始める。納得はしていない。でも、訂正もしていない。
ザグ氏が境界線を越えた瞬間の顔を、記録しておく。昨日まで自分を拒んだ場所に、迎え入れられた者の顔。……私が馬車に乗せていただいたあの朝も、あんな顔をしていたのだろうか。
『従業員三十二名、初日の離職者ゼロ。全員定時退社』
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読み返しを終え、新しい頁にペンを置く。本日分の追記だ。
【四月十四日・追記】
期中監査の結果を、要約する。
王都からの距離、馬車で八日。これは、私が自由になった距離に等しい。
私は逃げるためにこの土地を選んだ。誰も来ない土地なら、隠れて、細々と、生き延びられると計算して。だが現状、この土地は「誰も来ない」どころか、日ごとに賑やかになっている。計算と違う。でも、悪い誤差ではない。
なお、実家からの追手は本日まで観測されていない。追跡の費用対効果が成立しないため、と推定する。私の計算通りである。……計算通りであることは少しだけ、腹立たしい。
タクミ様への評価を試算する。
科目一「恩義」
五年前のハンカチ一枚。利息不明、未返済。
科目二「好奇心」
増加の一途。天井が確認できない。
科目三「 」
三つ目の科目には、まだ名前を付けない。該当する勘定科目は私の中に存在しないから。名称、保留。
ペンを置き、鞄のいちばん奥から、白いハンカチを取り出した。
五年前のあの日から、洗って、火熨斗をかけて、返す機会を計算し続けてきた一枚。今なら、いつでも返せる。何しろ毎日、隣にいるのだから。
……でも、返済すれば、債務は消える。
貸し借りが帳簿に残っている限り、取引は続く。だからこの借りは、もう少しだけ、返さないでおく。
我ながら、財務経理失格の判断である。でも、これは記録には残らない貸借だ。
蝋燭を消す前に、廊下の気配を確かめた。領主は、既に就寝している。
あの人は驚くほどよく眠る。まるで何十年もの睡眠負債を取り戻すように。毎晩、自分は眠れるのだということを確かめるみたいに。
……でも、それは良いことだと思う。眠れない夜を過ごすより、ずっと良い。
明日は山へ行くと言っていた。誰も生きて帰らないという山へ、「手土産は何がいいか」と本気で悩みながら。
あの人の見る未来が本物かどうか、隣で、私が検算する。
それが、私の職務である。
以上をもって、期中監査報告を終わる。
CFO セリア・フォート・アークライト




