トーレスの場合
キックボクサーのトーレスは、気が滅入るばかりだった。嫌なことばかりで、日に日にふさぎこんでいたのだ。
誰よりも、強くなりたい。その想いが、若いトーレスをキックボクシングに導いた。彼の住むイニシェアティ王国では、キックボクシングが盛んだったからだ。
国内の競技レベルは、世界でもトップクラス。国内タイトルを獲得すれば、もう世界を獲ったも同然とまで言われている。
今の彼は、国内のヘビー級ランキングで10位。ランキングに名を連ねているのは、一流ファイターの証だ。
しかし、トーレスは限界を感じていた。ここ2試合、下位ランカーと対戦し今のランキングまで上げてきた。連勝とはいえ、どちらも僅差での判定勝ち。連敗でもおかしくない内容だった。試合後にはトレーナーからも大目玉を食らっていた。
下位相手に薄氷の勝利なら、チャンピオンや上位ランカーにはまず通用しない。タイトルとも縁のないまま、キャリアを終える可能性が高い。
そうなれば、今のように苦しい生活が、一生続くことになる……。何ら希望のない将来を考えると、気分が沈んでくる。自信まで一気になくなってくる。
さらに気がかりなのは、よく変な夢を見ることだった。暗闇の中、透明な階段を進んでいく夢なのだ。まるでお前は落ち目だと後ろ指をさされるかのように、日に日に階段をくだっている。どん底にある扉に、一歩ずつ近づいている。
今度夢を見たら、自分は扉の前にいるはずだ。くだりきった先では、きっと引退を勧められるだろう。引退勧告ならまだいい。半年前に死んだ大王は、伝説の夢魔に殺されたという噂も流れている。なかには、王は階段の夢を見てから死んだ、という人もいる。それが本当なら、今夜は自分が……。
彼は憂鬱でたまらなかった。見慣れたはずのみすぼらしいアパートの部屋も、いつになく惨めさをかき立てる。やりきれない気持ちが、座っていた彼に下を向かせる。
急に彼は猛烈な睡魔に襲われた。今夜は何としても、起きてないと……! 懸命に眠気にあらがうものの、圧倒的な力が彼をねじ伏せてくる。
何かに導かれるように、彼は古びたベッドの上に横たわる。ただでさえ使い古しているのに、屈強な男が横たわってはベッドも気の毒だ。きしんだ音を立て、壊れやしないかと心配になる。
重くなったまぶたを閉じゆくトーレスの目には、アパートの天井にできたシミがぼんやり映っていた――。
トーレスは悲嘆に暮れていた。あの階段をくだりきっている。暗闇と圧迫感のある白木の扉が、自分を吞みこもうとしている。
階段を上がり、扉から離れたくて仕方がなかった。しかし、体は彼の意志とは裏腹に動いていく。ドアノブにのびた手が、扉を開ける。誰かに体を操られているようで、心が恐怖に染めあげられていく。嫌がる彼を、意地の悪い両足が扉の先につれていった。
いつしか扉と階段は、影も形もなくなっていた。しかし、漆黒の闇の中にいることだけは変わりがなかった。
トーレスは注意深く、あたりを探る。どうやらトンネルの中にいるらしい。肌を刺すような冷気と、何も見えない不安とで、どうにも心がくじけそうになる。
だが、彼は直感していた。このまま進もうと。正しい方向に向かっているのかもわからない。それでも、自分を信じて歩き続けるしかない。心細さを感じながらも、足を止めずに進んでいく。
しばらくすると、はるか遠くにうっすら光が見えてきた。その光が、彼の心にも希望を灯した。
あれが出口だ! あと少しだ!
彼は光に向かって走り出す。光は徐々に大きくなる。なおもスピードを上げ、暗闇を駆けぬけていく。トンネルの出口が、はっきり見えてきた。彼は全力を振りしぼり、恐怖のトンネルから脱出する。
トンネルの先で出迎えてくれたのは、満天の星空だった。心を躍らせるきらめきが、頭の上で広がっている。息が切れかけていたトーレスは、上空の景色にすっかり心を奪われていた。
我を忘れて見入っていると、流れ星が空を横切っていく。尾を引く星はひとつ、ふたつと増えていき、気づいたら流星群になっていた。星の流れが、たまっていた心の汚れまで掃き清めてくれた。彼の心は、いつしか喜びと希望に満たされていた。
初心にかえっていたトーレスは、無数の流れ星に心の内で願っていた。どうか、自分の願いが叶いますように。世界チャンピオンになれますように、と。
祈りが天にも届いたのか、流星群を背景に虹の橋がトーレスまで架けおろされた。驚愕して頭が真っ白になっているのに、気づいたら足が橋に向かっている。虹の橋を、一歩一歩前進していく。
進んでいくうちに、トーレスはまたも直感していた。自分は必ず、世界チャンピオンになれる。今自分は、そのための階段をのぼっている最中なのだ、と。
七色に光る橋の真ん中で、彼は立ち止まった。頭上から、ひとつの小さな流星が自分に向かって落ちてくる。彼は咄嗟に両手を宙に伸ばし、流星を受け止める。
手の中で煌々と燃え盛っているのに、触ってもぜんぜん熱さを感じない。疑問に思っていると、手にした流星は形を変えていく。
流星は銀の盃になった。薄く平らな盃の底から、マグマのように何かがふつふつと湧きあがる。血だ。血は瞬く間に、盃の中を満たしていく。
トーレスは神を連想せずにはいられなかった。イニシェアティ王国の信仰では、神は自らの血を銀の盃に注ぎ、大地につがしめられた。それがこの世に生命が誕生した瞬間なのだと、広く信じられていたからだ。
盃の血に映る顔を見て、トーレスの脳裏にこの世ならざる者の声が聞こえた。神の啓示を受けたのだ。
この血を飲みほせ。さらば汝の望みは叶えられん。
神にいざなわれ、トーレスは盃から血をゴクゴクと飲んでいく。まずくて生臭いはずなのに、まったく気にならない。しかも血を飲んでいるうちに、どこからともなく元気が湧いてくる。
今度は星々に照らされた盃が、光り輝く王冠に変わった。彼は自らの手で、栄光の王冠をうやうやしく頭に戴いた。そのまま天を仰ぎ、流星群に彩られた星空を見つめる。両手を合わせた彼は、神への感謝を口にする。
「感謝します。神よ――」
ちょうどトーレスが、壊れかけのベッドで眠りに落ちはじめたころだった。頭をのせていた粗末な枕が、もぞもぞと動き出す。黄ばんでいた寝具が、灰色に変わった。枕は紡錘形になり、中央に赤い突起が2つ現れる。ひそんでいた夢魔が、正体を現したのだ。
夢魔は次々と赤い触手を伸ばし、トーレスの全身に吸いつける。ハモンドのように、触手で捕食しようとしているのだろうか?
触手が脈打ち、トーレスに何かが送りこまれていく。細かった灰色の触手が、力こぶのように膨らんでいる。折しも、夢で走り出した彼の息は乱れていた。
意外にも、触手の動きに応じて少しずつトーレスの顔色がよくなっている。しばらくすると、触手の動きがおさまった。夢魔はスルスルと触手をしまいこんでいく。
眠っているトーレスの表情は明るい。トンネルを抜け、不思議な出来事の数々に心を奪われているのであろう。
夢魔は最後に残った触手を、トーレスの頭上にかざす。その吸い口から、彼の額にポトリと赤いしずくが落下していく。
驚くことに、水滴は額を通過し、トーレスの体内に浸潤していった。今度は橙色の水滴がしみとおる。続けて黄色、緑色、青色、藍色、緑色のしずくが、1滴ずつ額をすり抜けていった。7つの水滴は、彼の額に何の痕跡も残さなかったのだ。
その直後に男の全身は、うっすらと発光する。ホタルのような輝きはすぐ消滅し、男は寝言をつぶやいた。
「感謝します。神よ」
夢魔は枕を離れる。顔の前に浮かび上がった夢魔は、灰色のミミズクに変身する。
ミミズクはトーレスをのぞきこみ、首をかしげて目を閉じる。その様子は、まるで彼に笑いかけるようにも見えた。
大きな赤い目を開けると、羽ばたいて天井のシミへ向かっていく。例によって天井をすり抜け、行方をくらました。トーレスの住むおんぼろアパートは2階建てで、彼の部屋は2階にあった。ミミズクはそのまま部屋から外に飛び立っていったのだ。
夢魔が人知れず退散したのちも、トーレスはすやすや眠っていた。その顔には恐怖ではなく、喜びの色が浮かんでいた。
トーレスはジムでサンドバッグを叩きながら、昨晩見た夢のことを考えていた。
世界を獲れると有頂天になっていたが、冷静に考えたらただ夢を見ただけだ。依然として、上位との実力差は埋まっていない。
とはいえ、いやに説得力があった。本能レベルで、自分が世界チャンピオンになれると信じさせてくれる体験だった。神の啓示さえも受けた気がした。だけど、ただの夢だからなぁ……。
なおも考えていると、背後からトレーナーが彼に声をかける。
「トーレス。ちょっと、奥の部屋まで来てくれないか? 話があるんだ」
トーレスの動きがピタリと止まる。揺れていたサンドバッグを受け止め、おそるおそる振り返る。
トレーナーのホーエンハイムは、いつになく神妙な面持ちだ。険しい表情を見て、トーレスの胸を不安がかすめる。
やっぱ、あれはただの夢か……。もう引退しろって、今から言われるのか……?
ふたりは、練習場の奥にある応接間に腰を下ろしていた。テーブルをはさんで向かい合っている。重苦しい雰囲気が、部屋にのしかかっていた。苦しさに耐えかね、トーレスが静寂を破る。
「……その、話って何でしょうか……」
「いいかトーレス。これからオレの話を、落ちついて聞いてほしい」
終わった。オレ、これで引退だ……。
トーレスは目を閉じてうつむき、静かに観念する。しかしホーエンハイムが発した言葉は、想定外のものだった。
「1か月後に、タイトルマッチをやることになったぞ」
「はい!?」
トーレスは目を大きく見張り、思わず立ち上がる。トレーナーは座ったまま苦笑している。
「だから言ったじゃないか。落ち着いて聞けよ、って」
「話って、オレに引退勧めるんじゃないんですか?」
「何言ってんだよ? お前まだ23だろ? 老けこむには早すぎるぜ?」
明るく笑いとばすトレーナーを前に、選手は唖然とする。どうも、自分の早合点だったらしい。安堵と同時に、疑問が頭に浮かんできた。彼は再び席につき、深呼吸してから尋ねる。
「タイトルマッチって、オレがですか? 本当に……?」
「そうだ。お前と、国内王者のホーネッテンとのタイトルマッチだよ」
「待ってくださいよ。たしか、ひと月後って3位の選手とチャンピオンの試合があるはずでしょ? それなのに、オレがタイトルマッチやれるはずないですよ……」
「その選手が、練習中に大ケガしちまったそうだ。しばらく復帰は無理なんで、ほかの対戦相手と試合することになったんだ」
「それで、オレが指名されたと……」
「そういうことだ。試合までの期間が短いから、ほかの候補には断られたみたいでな。だが10位のお前がタイトルマッチなんて、普通じゃありえない。これは神の与えたもうた大チャンスに違いない。そう思って、すぐ承諾しちまったんだよ。お前も絶対、受けると思ったんでな」
たしかに、タイトル戦なら上位ランカーが相手の場合が多い。下位には、そうそうチャンスがまわってくることはない。
そこに降ってわいたように試合の話が転がりこんできた。よく気心の知れたトレーナーが、試合を組んでくれたのも自然ななりゆきだ。
彼の心は、挑戦に傾きかけていた。それでも、まだ最後の決心がつかない。確かに、これは千載一遇のチャンス。しかし、自分は下位ランカーだ。
しかもチャンピオンは、驚異的なまでのパンチ力を誇る。通算のKO率も高く、多くの挑戦者を、自慢の剛腕でなぎ倒してきた。彼の世界ランキングは6位で、近いうちに世界チャンピオンになると目されている。
彼の生まれたナンケッタ地方では、スズメバチをホーネッタと呼ぶ。そのことにちなんで「ナンケッタのスズメバチ」の異名をとっている、強打のトップファイターだ。
それほどの相手と、オレは本当に渡り合えるだろうか……? この不安を、彼はぬぐいされずにいた。ためらう理由に気づいていたトレーナーが切り出す。
「トーレス。ここ2試合、なんでオレがあんなに怒ったのかわかるか?」
「……?」
「オレは、苦戦したことが頭にきたんじゃない。今までと違って、仮にも相手は国内のトップファイターなんだ。そりゃあ、最初は誰だって壁にぶつかる。うまくいかないのも当然だ。本当に腹が立ったのは、お前がまったく持ち味を出せなかったことだ」
「……オレの、持ち味……」
「そうだ。お前の蹴りはとにかく重い。世界だって夢じゃねぇ。だが、あの2試合はどうだったよ? 苦戦してるうちに自信がなくなって、あからさまにキレが悪くなった」
意外に思ったトーレスは、すぐに言葉を返す。
「前にも言いましたよね? オレ、今までと同じように蹴ってたつもりですけど……」
「だったら、オレもまた同じ言葉で返してやるよ。はたから見りゃ大違いだ」
「じゃあ、どうすれば……」
「技術より心の問題だよ。ぜんぶ、自信のなさが動きに出たせいだ。中途半端な蹴りなんざ、相手にだって効きやしない。お前の蹴りがあんなもんじゃねぇって、オレが一番よく知ってんだ。それなのに、あのふがいねぇ戦いぶりときたら……! 思い出すだけで、カンにさわってしかたねぇ!」
トレーナーの熱い思いが、トーレスから迷いを消した。
これまでは、この人の言っていることの意味がよくわかっていなかった。そのせいで築いてきた信頼まで、揺らぎかけていた。
だけど、今ならわかる。きっと、この人の言っていることは正しい。また今までのように、信じてみよう。そうすれば、きっとこの人の、ホーエンハイムさんの期待に応えられる……。
腹をくくったトーレスは、トレーナーに確認する。
「ひとつ、確認してもいいですか?」
「何だ」
「本当に、オレの蹴りは世界にも通用しますか……?」
「当たり前だ。お前が得意な右のハイキックが決まれば、誰だって立てやしねぇよ」
「それなら、またオレにその蹴りが打てるようにしてもらえませんか? 右ハイで、ひと月後にホーネッテンを倒せるように」
ホーエンハイムは途端に相好を崩し、太鼓判を押す。
「まかしとけ! お前の錆びついた蹴り、オレが鍛えなおしてやる! そのかわり、きっちりホーネッテン倒してこいよ!」
トーレスは笑顔で答える。
「はい。ホーネッテンどころか、世界チャンピオンまで倒してみせますよ。ホーエンハイムさんの言葉が、本当だって証明するためにもね」
「それがさっきまで、引退にビクついてたヤツのセリフかよ?」
「引退しなくていいなら、もうオレには怖いものなんてないですよ」
「ずいぶんと心強いな……。そこまで大きく出たんだ! 頼むぜ、トーレス! このタイトルの次は、有言実行でオレに世界も見せてくれよ!」
ホーエンハイムは屈託のない笑みで、トーレスの前に右手を差し出す。トーレスは恩師の右手を握りしめ、力強く宣言する。
「約束しますよ。まずはホーネッテンを倒して国内チャンピオンになる。その次は、世界を獲ってみせるって」
その日から、タイトルマッチに向けたトレーニングが始まった。トーレスはホーエンハイムとともに、過酷なトレーニングに耐えぬいた。
そして迎えた決戦の日。会場は満員。照明にあかあかと照らされたリング上で、レフェリーをはさんでふたりのファイターが構えている。
青いボクシンググローブをはめた、黒髪の男がトーレスだ。グローブと同じ青のトランクスで、ベルトは白くなっている。トランクスの左右にはベルトと同じ、白いラインが入っている。構えは右の手足を引いた、オーソドックスなファイティングポーズ。両足に同じ重心をかけた、最も基本的な構え方だ。
もちろん、もうひとりはホーネッテン。チャンピオンの証である、赤いグローブを両手につけている。スキンヘッドで、オレンジのトランクスが目を引く。ベルトは黒で、トランクスの裾も黒くふち取られていた。
この特徴的なトランクスと、両足にある黒のアンクルサポーターは、いずれもニックネームのスズメバチにあやかったものだ。
彼も右の手足を後ろに引いた構えだが、トーレスに比べて少しばかり体が前に傾いている。得意のパンチを強く打てるよう、基本より左足に重心をかけているからだ。
ふたりは構えたまま、互いに動きを探っている。リング近くの実況席から、アナウンサーが熱戦の模様を伝える。
「イニシェアティのタイトルマッチも、とうとう最後の3ラウンド目に入りました! 事前の下馬評を覆し、トーレスがチャンピオンと互角の勝負を繰り広げています! 予想を上回る挑戦者の戦いぶりに、会場は大いに盛りあがっています!」
先に動いたのはチャンピオンだ。ホーネッテンが踏みこんでくると、挑戦者は右のミドルキックで迎撃。王者はすかさず、左腕を折り曲げて攻撃を防ぐ。決まって踏みこんだところを狙われるため、左足ではカットできないのだ。
トーレスは間髪入れず、左のミドルキックにつなげる。王者は右手を折り曲げ、これもブロック。ホーネッテンの両肘の外側は、赤く腫れあがっている。
蹴りで突進を止めたトーレスは、サッと相手から距離をとる。実況席にいる解説が指摘する。
「この試合中、トーレスはミドルキック、特に右のミドルが効果的ですね。ホーネッテンはいつも左のパンチを起点に攻撃を組み立てますが、肝心の左腕が右のミドルでふさがれる。利き腕の右から入ろうにも、今度は左ミドルできっかけを与えない。自慢のパンチを封じ、相手を勢いづかせない試合運びができています」
前進を止められたホーネッテンは、トーレスと対峙している。キックを防ぎつづけた両腕には、痛みとしびれが残っている。挑戦者を見据えつつ、彼は心の中で舌を巻く。
映像で見たのとは、まるで別人だ……。自慢の蹴りとやらも、大したことないと思ってた。だが、なんて重い蹴りなんだ……! これほどのヤツが下位ランカーに苦戦してたなんて、信じらんねぇよ……!
しかし、感心してばかりもいられない。既に最後のラウンドに入り、このままいけば判定になる。決定打こそないものの、ミドルを当て続けているトーレスにやや分がある。
勝つためには、倒すしかない。たとえKOできずとも、ダウンを奪えば判定で確実に勝てる。残り時間はあと2分。それまでに、決めてやる!
ホーネッテンは一気に踏みこみ、先手を打ってワンツーを繰り出す。キックが間に合わないと判断し、トーレスは両腕でガードに入る。ガードの上から左のジャブ、続けて得意な右のストレートが叩きつけられる。
防いだものの、チャンピオンのパワーにはすさまじいものがあった。トーレスの体はパンチを受けるたびに揺れ、ストレートの衝撃で防御姿勢のまま後退させられた。強打で魅せる王者の姿に、歓声が上がる。
これに気を得たホーネッテンは、ひと息に相手を追いつめにかかる。今度は、もっと強いのをお見舞いしてやる! 再び素早く踏みこみ、左のフックを繰り出す。
対するトーレスは、鋭い左のショートフックで迎え撃つ。先に当たったのは挑戦者の拳だった。カウンターをもらった王者はその場に両膝をつく。
会場の歓声を背に、レフェリーのダウンカウントが宣告される。実況席のアナウンサーも興奮している。
「ダウンだーっ! トーレスのカウンターがチャンピオンのアゴをとらえたーっ!」
トーレスはセコンドのホーエンハイムを一瞥する。彼が左拳を握りしめるのを見て、トーレスも一瞬口元をゆるめる。
この師弟が思い描いたとおりの試合展開になりつつあった。トレーナーは選手の好調の理由を見抜いていた。
予想通り、相手に焦りが出たな! 戦況が膠着すれば、相手は焦る。倒したい思いも強くなる。無意識のうちに攻撃も大振りになって、スキができる。
そのスキを突けば、必ずオレたちにも勝機が見えてくると思ってた。そして、その通りになってきたぞ! あとはわかってるな、トーレス! 最後まで浮き足立たず、確実に勝利をものにするだけだぞ!
恩師の考えが伝わったのか、トーレスは小さくうなずく。彼はリングにいる相手に目を戻し、特訓の成果を噛みしめていた。
本当に、ホーエンハイムさんの言ってた通りだ……! キックがよくなれば、パンチも必ず生きてくる。どっちも、格段にキレがいい。あのホーネッテンから、ダウンまで奪えたんだから……。
カウント8で、立ち上がっていた王者はファイティングポーズをとる。レフェリーはすぐさま試合を再開する。
「ファイッ!」
ダウンさせられた王者はうかつに踏みこめなくなった。トーレスの出方次第で、今後の展開が大きく左右される。
トーレスは冷静に相手を見ていた。倒したとはいえ、まだチャンピオンにはじゅうぶん余力と冷静さが残っている。
効いてないことをアピールするように、笑ってカウント3ですぐに立ちあがった。周りが見えているから、8までじっくり休んでいた。思いのほかダメージは浅いだろう。
ただやみくもに攻めても、返り討ちに遭うだけだ。それより、オレがここでやるべきことは……!
彼が選んだのは右のミドルだった。ホーネッテンは左腕で、即座にブロック。二の矢となる左ミドルも、右腕で防ぎきる。
防御こそされたが、トーレスは微妙な違いに気づいていた。ダウンの前より、若干ミドルが芯を食うようになった。相手がダメージを受け、反応が鈍くなっている証拠だ。
これならいける! ここで決めるぞ! 手ごたえをつかんだトーレスは、再度右のミドルを放つ。しかし完全に見切られており、今度は腕ではなく左足でカットされた。あくまでも蹴りにこだわる挑戦者を見て、ホーネッテンも次の手を決める。
まだ警戒してるか……。思ったより、落ち着いてやがるな。だが、もうミドルは見切った! 今度ミドルできたら、またカットして打って出る!
トーレスは再び右足で蹴りを繰り出す。一方の王者は早くも左足を少し上げ、蹴りをさばこうとする。
左足に重心を置く構えでは、普通より左足を上げるのに時間がかかる。それだけに、彼はこの時下を意識して、早めに左足を上げていた。
彼の予想を裏切り、放たれたキックの軌道は今までと同じではなかった。トーレスはついに伝家の宝刀を抜いた。得意の右ハイキックが、下を意識していた王者のアゴにクリーンヒット。命中した途端、王者の口からマウスピースがこぼれ落ちる。
ホーネッテンは蹴り飛ばされ、全身で大の字を描いてキャンバスに倒れこむ。渾身の一撃で、完全に意識を失っている。
倒れた相手に駆けよったレフェリーは、両手を大きく体の前で振る。試合を止める合図だ。トーレスのKO勝利が確定し、試合終了のゴングが高らかに打ち鳴らされる。試合前までは無名だった若者が、世界に名乗りをあげた瞬間だった。
勝利の瞬間、トーレスは両手を天に突き上げるガッツポーズで喜びをあらわにする。主役のガッツポーズで、会場のボルテージも最高潮に達した。周囲が割れんばかりの大歓声に包まれる。実況席では、興奮で立ちあがったアナウンサーがまくしたてる。
「やりましたーっ! 新チャンピオンの誕生です! トーレスが得意の右ハイで、ホーネッテンを下しましたーっ!」
会場中のトーレスコールを背に、セコンドたちがリングに上がっていく。歓喜の輪の中心では、トーレスがホーエンハイムと抱き合っていた。ふたりの目には、喜びの涙が浮かんでいた。トーレスは声高に叫ぶ。
「やったぜ! ホーエンハイムさん! オレが、チャンピオンになったんだ!」
最高の結果に、ホーエンハイムも喜びに声を震わせる。
「だから言ったじゃねぇかよ、トーレス! お前の右ハイが決まれば、ホーネッテンだって倒せるってよ……!」
このタイトル獲得を皮切りに、トーレスの快進撃が始まった。破竹の勢いで世界王座を奪取すると、長きにわたって世界の頂点に君臨しつづけた。
その圧倒的な強さは人々の心にも鮮明に残り、彼は王国を代表する名選手として歴史に名前を刻むことになる。
しかし、そのきっかけを与えたのが夢魔だとは、誰も夢想だにしなかった。




