ハモンドの場合
ハモンド大王は胸を高鳴らせていた。夢の続きが、待ち遠しくてたまらない。最近、ほとんど同じ夢を見る。真っ暗闇の中を、天に伸びていく透明な階段の夢だ。
夢を見るたびに、彼は1段ずつ階段を上がっていた。きょうも夢を見れば、頂上にある扉にたどり着く。今夜はその先にある景色を知る日だと、朝の時点から予感していた。
パジャマ姿の大王は、いきなり強烈な睡魔に襲われる。ついに夢が見れる! ハモンドは喜びに心を震わせ、寝室の豪華なベッドに横たわる。1分と経たぬうちに、すやすやと寝息を立て熟睡する。
予感は的中した。漆黒の闇に包まれたハモンドがいたのは、澄みわたった階段の頂上だった。目の前には、白木の扉が待ち構えている。彼はうっとりと扉を眺め、悦に入る。
これが、余をさらなる栄光の高みへと導く扉か……。
扉を見据える青いどんぐり眼は、自信に満ちあふれている。彼の治めるイニシェアティ王国は、世界を代表する大国のひとつだ。それほどの国を、28歳の時から30年にわたって統治してきた。絶対的な権力を持ち、世界で最も影響力のある人物のひとりにも数えられている。
彼は鷹揚にドアノブをまわし、扉を押し開ける。中で待ち受ける景色を、確かめるために。
気づいた時には、白木の扉は跡形もなく消えていた。曇天のもと、パジャマ姿でつやのない土気色の大地を踏みしめている。裸足にもかかわらず、足はまったく痛くない。まるで手入れの行き届いた、室内の床にいるようだ。もっとも、足の裏から感じとれる肌寒さだけはいただけないが。
あたりに人はいない。ただ土気色の大地が延々と続くばかりだ。のどが渇いたので、水を求めて歩き出す。途中で白い服の男を見つける。大王は大仰に呼びかける。
「おい。そこの者」
「はい。何でしょうか?」
ハモンドを見ても、男は動じるそぶりを見せない。その落ち着きぶりが大王には不満だった。余を見て威儀を正さぬとは、とんだ世間知らずよ……。ハモンドは内心の不満をおくびにも出さず、男性に質問する。
「余はのどが渇いている。このあたりに水はないか?」
「この先をまっすぐ進むと、大きな川があります。皆、そこでのどを潤しています」
「わかった。ご苦労」
男性が会釈するなか、大王はひとり歩みを進める。5分ほど歩くと、木々が目に飛びこんできた。周囲には白服の人々が集まっている。彼らの見上げる先には、果実がたわわに実っている。
ハモンドは人々に命令する。
「おい。お前たち」
人々は一斉に振り向く。大王だと気づいて全員が平服する。ひとりがおそるおそる尋ねる。
「な……何でございましょう……?」
そうだ。余を見たのであれば、そうこなくては。満足した王は、得意げに命令する。
「あの果実を余にとってまいれ。のどが渇いておるのだ」
「ははーっ!」
さっそく人々は果物を枝からむしり、速足で大王に駆けよる。彼らは王の前でひざまづき、うやうやしく果物を捧げる。
「こちらに、ございます……」
差し出された果実を見て、王は顔をしかめる。楕円形の果実が、大地と同じ土気色の皮に覆われている。どうにも食欲をそそらぬ色合いだ。表面に凹凸はなく、特段においもしない。王は不満げにつぶやく。
「まずそうだな。いらぬわ」
ひざまずいていた人々は、恐縮気味に言葉を返す。
「……たしかに、これは見た目が悪うございます……。しかし、決して味までは悪くありませぬ……。嚙んだ瞬間、口の中に果汁があふれだす逸品にございます。きっと大王様にも、ご満足いただけるかと……」
「ほう。まことか?」
「はい。皮をむかず、そのまま召し上がれます。大王様の、お手をわずらわせる必要もありません」
かしずいていた人々もうなずく。興味をそそられた王は、ある事実に気づいた。ひざまずく者たちは皆、首元に丸い銀のペンダントをさげている。王国内で、神を熱心に信じる者たちが身に着けるものだ。
信仰心の篤い者たちなら、余を欺くことはあるまい。ものは試しと、王は献上された果物のひとつを手に取る。
「では、いただこう」
「ありがたき幸せにございます」
見た目に反して、果物の表面はざらついている。ひれ伏す人々を見下ろし、彼は土気色の果物にかぶりつく。
ゴムのように弾力のある皮の下から、果汁が口内にあふれだす。しかし、口にふくんだものはすぐに吐き出された。血を汗で薄めたような、ひどい味がしたからだ。
王の大きな口は真っ赤に染まり、吸血鬼さながらの形相になっていた。果実につけられた歯形からも、赤い果汁が大量にしたたり落ちている。鼻をさす血のにおいが、一面に立ちこめる。
まずさに悶絶するハモンドを、立ち上がった人々は冷ややかに見守っていた。誰もが敬意とは程遠い、侮蔑をこめた目で嘲笑している。まさに手のひらを返したような変貌ぶりだ。ハモンドは怒りを隠さず、カラになった果実を投げ捨てる。
「だましおったな! 貴様ら、余を誰だと思っておるのだ!」
ひとりが皮肉たっぷりに答える。
「ご存じですとも。戦争に明け暮れもうろくしきった、ハモンド大王様でしょう?」
大王の顔に朱が注がれるなか、冷笑する人々たちの姿が闇夜に溶けていく。幽霊が消え去るかのように、たちまち全員の姿が消えてしまった。もぎとられた果物だけが、地面に転がっている。
不可解な事態に、ハモンドはしばし呆気にとられる。口の中に充満する不快感が、彼を正気に返らせた。水が飲みたい。大王は木々をあとにして、まっすぐ進んでいく。
しばらくして、右手に石造りの大きな井戸が見えてきた。水だ! ハモンドは井戸まで走り、ふちに手をついて中をのぞきこむ。
希望はすぐ失望へと変わった。井戸の底に見える水面には、両手を伸ばしても到底届かなかった。しかも水面は完全に凍りついている。
気落ちした彼は、あることに気づく。凍った水面に、自分の顔とは違うものが映りこんでいる。何だろうと、彼は目を凝らす。
水面には、軍服を着たふたりの人物が映っていた。両者の間には、10メートル以上の隔たりがある。ただし、どちらも手にした軽機関銃の銃口を相手に向けていた。
彼らはハモンドのよく知っている人物だった。ひとりは同盟国の首相。もうひとりは敵国の皇帝だ。
彼らの軽機関銃にはある特徴があった。どちらも弾倉の真下から、透明なL字形の管が伸びている。円形ではなく、細長い長方形の管だ。その先は透明な長方形の大箱につながっていた。真上には屋根があり、中には真鍮色の銃弾が横向きにびっしり詰めこまれている。
すぐさま銃撃戦が始まった。透明な家から管を通り、無数の弾丸がひっきりなしに送りこまれる。どの銃弾も相手ではなく、その足元に近い地面に命中していく。弾が当たるたびに小さな爆発が起きる。そのつど地面からは、悲鳴のようなものが響きわたる。
疑問に思ったハモンドは、彼らの足元を注視する。その意を知ってか知らずか、水面は首相の足元近くを映し出す。
なんと首相の足元には、無数の小人たちが群れをなしているではないか。爆発を避けながら、人々は口々に叫んでいる。
「もうやめてくれ!」
「わたしたちに平和を返して! 人の命を何だと思ってるの!」
「あれだけ戦争はしないって言ってたじゃないか! それなのに、どうしてイニシェアティなんかの口車に乗せられたんだ!」
非難にさらされながらも、首相は引き金を離さない。彼はうさんくさい薄ら笑いを浮かべ、振り返らずに放言する。
「皆様も、さぞ苦しいことでしょう! しかし私自身も、実に心苦しいのです! どうか国民の皆様方も、しばしのご辛抱を!」
場面は切りかわり、皇帝の足元が映る。爆音に遮られてはいるが、ここでも小人たちが巨人を糾弾していた。皇帝も足元ではなく巨人を見つめたまま、とってつけたような偽りの微笑とともに答える。
「今は国民が一丸となって戦う時! ただただ、敵に勝つことだけを考えよ! その先にこそ、輝かしい勝利が待っている!」
国民の声に何ら耳を貸すことなく、巨人たちの銃撃戦は続く。次にハモンドが不思議に思ったのは、銃弾の出どころだった。
透明な箱にある銃弾など、たかが知れている。にもかかわらず、いっこうに弾が切れる気配がない。あの小屋は、どうやって銃弾を補充しているのだろう?
今度も水面が、的確に大王の疑問に答えてくれた。首相の管の先にある透明な箱がアップで映る。透明な小屋の地下から、真鍮色の銃弾が浮かび上がっていく。小屋の前では若い小人の青年が、悲壮な顔つきで家族にあいさつしていた。
「行って、まいります……」
「頑張るんだよ……!」
青年は一礼し、小屋に向かう。横たわる銃弾の中には、底面のふたが開いているものもある。彼は空いている筒の中に入り、ふたを閉める。彼の入った銃弾を、地下から現れた底の空いた空の銃弾が押し上げる。
またも場面が変わり、皇帝の透明な小屋になった。小屋の前では、軍服の小人たちによってひとりの小人が連行されている。軍人に取りおさえられた男は、必死に抵抗する。
「やめろ! オレは……オレは、まだ死にたくない!」
「つべこべ言うな! 貴様も我が国の国民なら、命を捨てて戦え!」
酷薄な軍人たちは、嫌がる男性を力づくで銃弾の中に押しこむ。すぐにふたは閉ざされ新たな弾に突きあげられていく。
これで銃弾の謎も解けた。巨人たちが行なっていたのは、単なる銃撃戦ではない。国民の命を使い捨ての道具に変えた、残酷きわまりない戦争だった。銃弾による爆発は、両国民の命まで奪いさっていたのだ。
しかしハモンド大王は、この悲惨な事実を毛筋ほども意に介さなかった。まったく別のことを考えていたからだ。
何をしている! もっと、景気よく憎き皇帝に撃ちこまんか! 同盟国なら、我らのために犠牲を払うのは当然! 何人死のうが構わん! そんな犠牲など、勝てばすべて帳消しにできる! 勝利の暁には、あの敵国から賠償金をたんまりせしめられるのだから!
これが、為政者たるハモンド大王の意見だった。大金に目がくらみ、国民の命など一顧だにしていない。頭にあるのは皮算用ばかりだ。
もしこのまま同盟国に圧力をかけつづけたら、敵国と戦争してくれるだろう。我らの参戦は、同盟国が苦戦してからがいいな。そうすれば恩が売れる。憎き敵国も叩きつぶせるうえに、金もむしり取れる。
国民がいくら死のうが関係ない。余は生きていられるのだから。この戦争でも、我が国はぼろ儲けだ……!
戦況は膠着し、なかなか決着がつきそうにない。果物の不快な味も、口の中から消えていた。見飽きたハモンドは、残忍さと狡猾さのにじみ出た目を井戸からそらす。傲慢な大王はまたしても川を目指す。
歩き続けて彼も汗ばんできた。両足も熱を帯びている。しかしその熱を、地面から伝わる冷気が和らげてくれる。はじめは凍えきっていた大地が、今は心地よく感じられる。
ようやく、待望の大河を視界の端にとらえた。大きな川沿いに、これまた白い服を着た人々が密集していた。川のほとりは、腰の高さほどの極彩色の木々で彩られている。
やっと、まともな水にありつける!
こみ上げる喜びが、疲れていたハモンドをつき動かした。川のほとりまで全力で駆けぬける。必死に走ってくる男を見て、人々は急いで道を開ける。
人々の間を通り抜け、ハモンドは川辺にかがみこむ。両手で水をすくいあげ、何度も夢中で口まで運ぶ。赤く染まった口も洗い流されていく。
ようやく、のどの渇きが癒えた……!
満足したハモンドは、次第に落ち着いてくる。立ち上がってあたりを見渡すと、白服の人々が遠巻きに彼を眺めている。大王は川岸から離れ、群衆をなだめる。
「恐れるな、余はもう気が済んだ。お前たちも、普段通りにすごせばよい」
大王の言葉に、群衆はざわめく。動揺する民衆を、ハモンドは満足げに見守る。すると、ひとりの男がおずおずと呼びかける。
「おそれながら大王様。ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか……?」
民の声に応えてこその大王よ。ハモンドは自信たっぷりに応じる。
「構わぬ。申してみよ」
男は顔色を変え、怒気を含んで答える。
「貴様の命をよこせ! ハモンド!」
「なに……?」
殺気に満ちた群衆が、ひとりの男に殺到する。絶え間ない怒号が飛びかい、暴徒たちは男を取り囲む。千手観音さながらに、集団の中心へと手を伸ばしていく。
ハモンドは髪を引っ張られ、殴られ、服を引きちぎられる。瞬く間に体も衣服も傷だらけだ。大王は悲鳴にも似た声で訴える。
「今すぐやめよ! 余は、イニシェアティ王国のハモンド大王なるぞ! 誰か、誰か余を助けよ!」
結果は、火に油を注いだだけだった。暴徒たちはなおも手荒く、大王を痛めつける。アザまみれにされた王は、鼻や口からも出血している。忘れかけていた血の味が、さらに濃くなって口中に充満していた。
普段は王の周囲にも、屈強な護衛たちがついている。しかし今の彼は孤立無援。ご自慢の強大な権力が、まったく意味をなさない状況だった。群衆は口々に叫んでいる。
「死ぬまでやめるか! この極悪人め!」
「オレたち全員、貴様に殺されたんだ! 貴様が余計な戦争を繰り返さなければ、みんな死なずにすんだのに!」
「何が神のための戦争だ! 事あるごとに神の名をかたりおって! 貴様ごときが、崇高な神の御名を貶めるな!」
「このまま川に突き落として、恨みを晴らしてやる! 覚悟しろ、ハモンド!」
王は在位中、幾度となく戦争を繰り返していた。開戦のたびに、決まって大王は神の御心によるものだと国民に発信していた。国中で信じられている神を、私利私欲の隠れみのに使っていたのだ。
そのせいで多くの国民が被害を受け、国も疲弊していた。大王を苦しめているのは、度重なる戦役の犠牲者たちだったのだ。
ハモンドをさらに驚愕させたのは、自分たちの騒動を見にきた野次馬の多さだった。何十万人という白服たちが、地平線の果てまで大きな壁をなしていたのだ。とうぜん、彼らもハモンドのせいで落命した者たちだ。
ひとつの都市から、人間をひとり残らず連れてきたような光景が、見渡す限りに広がっていた。この白い壁だけでも、見る者は圧倒される。しかも皆の白い目が、窮地に陥った大王に注がれている。心を手ひどく突き刺していくような、耐えがたい視線が。
もはや王は完全に包囲されていた。前方は犠牲者たちのぶ厚い壁にふさがれ、後方には流れの速い大河が控えている。事態を収束させようと、王は必死に説得を試みる。
「余は神の名をかたってなどおらぬ! 神は本当に、戦いを欲しておられるのだ!」
「黙れ! 慈悲深き我らの神は、貴様の所業にたいそう胸を痛めておられる! 無辜の民を数え切れぬほど失い、心から嘆いておられるのだぞ!」
ハモンドは大きく目を見開いた。即座に反論した人物に、見覚えがあった。丸いペンダントが胸元できらめいている。先ほど果実を献上した者だ。
見れば殺到する人々の中には、煙のように姿を消した信心深い者たちが勢ぞろいしていた。彼らはなおも大王を叱りつける。
「貴様が国民ではなく、金勘定にしか興味がないことは全員に筒抜けだ!」
「さっき井戸で銃撃戦を見たよな? あの井戸は想起の井戸! 中をのぞきこんだ人物の深層心理を、あぶりだすものなんだ!」
「あの井戸が、貴様がまた戦争を起こしたがっていることを証明した! しかも他国の国民だけでなく、自国民の命すら顧みないこともな!」
「貴様を生かしておけば、多くの人たちが苦しむことになる! 潔くここで死ね! それこそが全国民の総意、そして神の本当の思しめしだ!」
反論の余地などなかった。ますます追いこまれた大王は、懸命に群衆から脱出しようとする。しかし人々が足の踏み場もないほど密集し、身動きすらままならない。
さらに先ほどから、何かが王の下半身にまとわりついていた。視線を落とした王は、思わず肝を冷やした。
足をおさえていたのは、川岸に生える木々だった。より厳密に言えば、木々と思いこんでいたものだった。それらは地面から生えていた、けばけばしく色づけされた人間の腕だったのだ。腕までもが群衆に味方し、憎き大王を仕とめにかかっていた。
八方ふさがりの戦争狂は、荒っぽく川に突き落とされた。落下の瞬間、王は悲鳴を上げる。
「うわっ!」
ギャラリーからどっと歓声が上がる。水面にはハモンドの上半身が浮かんでいる。流されながらもがく彼に、群衆は罵詈雑言の嵐をあびせかける。同情の声など、ひとりとして上げようとしなかった。
突き落とした群衆のひとりが、仲間に残酷な提案をする。
「まだまだ腹の虫がおさまんねぇ! 血潮の実を投げつけるか!」
「いい考えだ! 近くからかき集めて、狙い撃ちにしてやろうぜ!」
何人かが集団を離れ、ハモンドの反対側にある川の上流へ向かう。どぎつい色合いの腕木のなかに、人間の背丈以上の茶色い腕の数々が見える。
その手は、大王の吐き出した土気色の果実をつかんでいる。これが血潮の実だ。
ここでも人々は、手から果実をもぎ取っていく。腕木のなかには、自分から果実を落としてくれるものもあった。ありったけの血潮の実を抱えて、仲間たちのもとに戻る。
一方のハモンドは、何とか上陸しようともがいていた。水中で、懸命に両足を動かそうとする。ところが、意思に反して両足がまったく動いてくれない。
まずい! このままでは溺れる!
何度やっても、足は反応してくれない。恐慌をきたしたハモンドは、両手をしきりにばたつかせる。無情にも、身体は徐々に沈みこんでいく。下手に動いたせいで、口の中から少なからぬ水が入りこんでいた。
流れはハモンドから、着実に体力と体温を奪っていく。徐々に動きが鈍くなり、沈みゆく男の心を絶望が支配していく。
果実を手にした暴徒たちが川沿いに追いかけ、傷口に塩を塗りにきた。恨みに燃える人々が、次々と血潮の実を投げつける。
「死ね! ハモンド!」
「わたしたちの恨みを、思い知れ!」
果実の速射砲が、身動きのとれないハモンドに襲いかかった。恐れおののくハモンドの左腕に、血潮の実が直撃した。粉々に砕け散り、左腕が真っ赤に変わる。その赤色は、王に献上された果実を思い出させた。
「これは、あの時の……!」
今度は、頭で2つの果実がはじけた。王の上半身が朱に染まる。果汁が目に入り、痛みで目を開けることができない。男は激痛のあまり絶叫する。
「あぁっ!」
なおも人々は、残った果実を投げることに余念がない。観衆からはしきりに喝采が上がる。全員の心に渦巻く怒りと憎しみは、さらに激しさを増すばかりだ。
血潮の実はハモンドから視界を奪った。疲れはて、両腕も動かせない。耳に入る音も次第に遠のいていく。それでも、水流とは異なる轟音だけは聞こえていた。地獄の底からほとばしる大合唱。その音が、自分に近づいてくる。
見えないことが、より恐怖を煽りたてていた。呼吸が速くなり、胸では心臓が暴れ放題だった。冷や汗も止まらない。恐怖に震えるハモンドの脳内は、ある疑問で埋めつくされていた。
何だ? いったい何が、余に近づいてるのだ?
流れの先で男を待ち構えていたのは、大渦だった。とどまるところを知らない怨嗟の声がなせる業か、突如として川の真ん中に大渦が発生したのだ。瀕死のハモンドの耳に届いたのは、この大渦の音だった。
なすすべなく流された男を、一瞬で大渦がのみこんだ。
「うわぁぁぁっ!」
断末魔の叫びも、恐怖で乱れた心音も大渦の中に消えた。ものの数秒で、男の姿は完全に見えなくなった。大渦は勝ち誇った雄たけびを上げ、なおも死人に鞭を打ちたけり狂っている。
暗君が完全にのみこまれた瞬間、耳をつんざく大歓声がわき上がった。地面が揺れるほどの、すさまじい歓喜の声だ。恐ろしい大渦の音さえかすむような大音声だった。全員が一様に、我を忘れて喜びに浸っていた。
ちなみに、ハモンドを直接突き落とした人々の反応は、大きく三つに分かれていた。
一つ目は、大観衆と同じく狂喜乱舞している者たち。小躍りする者もいれば、手をたたいて哄笑する者もいる。手伝ってくれた木々と、握手を交わしにいく者たちまでいる。
二つ目は、何の反応も示さず冷然と大渦を見つめる者たちだ。あんな悪党、死んで当然と言わんばかりの視線を送っている。彼らはいずれも、感情の高鳴りとは無縁だった。
そして最後は、むなしさを感じている人たちだった。復讐を遂げられても、離れ離れになった大切な人たちと再会できるわけではない。その事実に心づいて、彼らの心は暗くなっていたのだ。
いずれにせよ、ハモンドは恨み重なる犠牲者たちの手で殺された。もみ合いになったあたりの地面はめくれ上がり、下に隠れていたものがあらわになっている。埋まっていたのは大量の人骨だった。これが大王の足に伝わった冷気の正体だったのだ。
今やハモンドがいた痕跡を示すものは、この人骨だけだった。川岸の誰もが、水没者のことなどとうに関心を失っていた。
扉の先で大王を待ち受けていたのは、栄光などではなかった。多くの命を奪った報いにふさわしい、非業の死だった。
ところで、なぜハモンドは悲惨きわまる悪夢を見たのだろうか? 実は彼が悪夢を見たのには、れっきとした理由があった。時間をさかのぼり、その答えを紐といてみよう。
豪華な寝室のキングベッドで、ハモンドはぐっすり寝入っていた。白い布団が、呼吸に合わせ波打っている。部屋にあるすべてのものが、見ているだけでも穏やかな気持ちにさせてくれる場所だ。
しかし今夜は、部屋の調和を乱す例外がまぎれこんでいた。熟睡した男が使う白い枕に異変が起きていた。枕は灰色になり、長方形から紡錘形に変貌を遂げる。ミミズクの羽角を思わせる赤い突起が、中央から上向きに2つ生えてくる。
この怪物こそが、イニシェアティ王国で伝説として語り継がれてきた夢魔だった。目も口もない夢魔は枕に化け、とりついた人々に不可解な夢を見せる。ハモンドの悪夢も夢魔の仕業だったのだ。
夢魔は突起と同じ赤色の触手を、八方に伸ばしていく。触手の先端は、いずれもヒルの吸い口のようになっている。
おぞましい口々が、音もなくハモンドの全身にはりついた。ほどなく夢魔は、触手から何かを吸引する。しこたま水を含んだホースのように、細かった触手が見る見るふくらんでいく。
吸引が始まると布団に覆われたハモンドの足元が、厚みを失い平坦になっていく。布団ごしに、体が失われていくことがわかる。夢魔は男を溶かし、捕食していたのだ。
体は時間をかけて、下から上へと失われていった。膝下が失われたころ、眠っているハモンドの顔が紅潮する。彼は寝言を怒鳴りちらす。
「だましおったな! 貴様ら、余を誰だと思っておるのだ!」
ちょうど血潮の実で一杯食わされたところだったらしい。なおも夢魔の食事は続く。足元から始まった消失は、腰を経て胸のあたりにまで達していた。本人が気づかぬ間に、体は静かに消えさっていたのだ。
この時、目を閉じている男の顔はひきつっていた。絶えず小さなうめき声を上げ、体中に汗が浮かんでいる。ちょうど夢の中で、川に突き落とされかけていたのだ。水中で足を動かせないのも当然のことだった。既に、下半身がなくなっていたのだから。
川に突き落とされた瞬間、大きな寝言が静寂を破る。
「うわっ!」
夢で流されているハモンドは、体をゆすり懸命にもがいていた。
布団の下から厚みがなくなっても、食事は終わらない。まだ、布団から出ている上半身が残っている。肩にはりついた触手を、液体が通過していく。空気が抜けていく風船のように、両肩はしぼんでいった。
水中で王の腕が動かなくなったのも、このころだった。恐怖で顔は青ざめ、冷や汗が浮かんでいた。低いうめき声は、依然として途切れることなく喉から絞りだされている。
ハモンドが始終味わった恐怖こそ、夢魔にとっては最高の調味料だった。ひと息に捕食しないのも、より味のいいものをこしらえるためだった。
肩に続いて首が押しつぶされていく。喉も失われたことで、うめき声による悪趣味なバックコーラスも途切れた。
とうとう、手間をかけて熟成させた頭部を味わう時がきた。極上の味わいを長く愉しむためか、今までよりほんの少し遅めに吸引している。
まずはアゴと歯がすぼみ、溶かされていった。頬や鼻がつぶされていき、目まで失われていく。冷徹さの際立つ青い目が消え、意味のない空洞だけが残される。ここで王も、血潮の実で視界をふさがれた。
クライマックスは、とびきりのメインディッシュで締めくくられる。脳だ。筋肉から血管、頭蓋、脳漿、脳髄まで、夢魔は脳を取り巻くすべてを、ぞんぶんに味わいつくしていった。その結果、押し流されたハモンドも大渦に飲みこまれたのだ。
ご馳走をじゅうぶん堪能した夢魔は、勢いよく赤い触手を格納する。死体を覆っていた布団が、勢いでまくれ上がる。布団は静かにベッドから床に落下する。
ベッドには、パジャマともどもぺしゃんこにされた抜け殻が横たわっていた。遺された汗まみれの皮に、枯れかけた雑草のような頭髪だけが残されている。命とともに、残骸からは本来あるべきはずの人間らしさまでもが奪われていた。
最後の1本になった触手の吸い口から、ピンク色の液体がしたたり落ちる。こうして体内を溶かされ、夢魔の餌食になったのだ。
この一本も格納すると、夢魔は枕から抜け出す。白い枕の隣には、楕円形の夢魔が浮かんでいる。
浮遊する夢魔は、さらに形を変える。今度は羽角が特徴的な、灰色のミミズクに変身した。両目両足と羽角だけは赤く、本来の面影を残している。
ミミズクは音もなく羽ばたき、寝室の窓に向かっていく。閉ざされた窓をすり抜け、外へ飛びたった。窓から見えたのは、月明かりに照らされ遠ざかる、ミミズクの後ろ姿だった。




