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ナルティーの場合

 夢や希望に使命感? そんなもの、とっくの昔になくしている。教会の仕事も惰性で続けているだけ。昔からの家業なので、やめたくてもそうはいかない。何せ、家にはもう私しかいないのだから……。

 ナルティーは、この10年近くを流されるように生きてきた。彼の家は、代々イニシェアティ王国で教会を営んでいた。彼の代で7代目になる。

 彼も若いころは、聖職者として希望に満ちあふれていた。妻や子宝にも恵まれ、順風満帆な日々を過ごしていた。神は本当にいるものだと、心から信じてやまなかった。

 しかし、その情熱はもはやない。きっかけは10数年前。幼いひとり息子が急死してからというものの、すべてが音を立てて崩れ去っていった。


 当時の息子は、3歳の誕生日が近づいていた。年季の入った教会の隣に、ナルティー一家の住居がある。どちらの周囲も、妻の趣味で色とりどりの花々に彩られていた。

 母親が少し目を離した際、外で遊んでいた彼は、花壇のアジサイにとまっていたカタツムリを誤飲してしまった。その時ナルティーは教会で、信者たちと礼拝をしている最中だった。

 そのせいで息子は寄生虫に感染し、不幸にも命を落とす結果になった。遺されたふたりはひどく落胆し、お互いに励ましあった。

 この事故が、妻を大きく変えた。事故から程なくして、家と教会から花壇がひとつ残らず撤去された。教会もどことなく殺風景になり、周囲を覆う漆喰の黒ずみが目立つようになった。

 あれだけ草花を愛した妻が、それ以来何の興味も示さなくなってしまった。さらに、たえず自責の念にさいなまれていた。自分がよく息子を見ていれば、彼は死なずにすんだのだ、と。

 ナルティーは妻を決して責めず、一貫して励ました。自暴自棄になってはいけない。悪いことばかりではない。必ず、神が我らを守ってくださる。だから、ともに前を向いて生きよう、と言葉の限りを尽くした。自分を太陽のように明るく照らしてくれた妻が、元気を取り戻せるように。

 しかし、妻の心が最後まで晴れることはなかった。思い煩った彼女はとうとう病にかかり、10年前にこの世を去った。ナルティーの両親は、息子が生まれる前に亡くなっていた。家庭からも、明るさが完全に失われた瞬間だった。


 こうしてナルティーは天涯孤独の身になった。何よりも絶望したのが、信仰の無力さだった。人生のすべてを捧げて、ひたすら信奉した神。その神が、何らの役にも立たなかった。それどころか、自分が最も護りたかった家族を、ことごとく奪いさろうとは……!

 幻滅した彼は、この時から信仰心を捨てさった。信仰だけではない。家族の死は、彼の心にあったはずの情熱や心まで、彼から取りあげてしまった。

 それでも、ナルティーは信者たちの前ではその様子をおくびにも出さなかった。今もおごそかに、聖職者としての務めを果たしている。彼の苦労を知る信者たちからは、老成した物腰になったとほめられることも多い。

 しかし、本人にはよくわかっていた。私は老成したのではない。感情を、人として失ってはいけないものを、どこかでなくしただけだ。そのせいで、心の動きが鈍くなったにすぎない。

 気づけば、何も残っていなかった。年齢だけを重ね、今年で46になる。ただ、それだけだ。


 何もないくせに、このごろは妙な夢を見るようになった。真っ暗闇のなか、ポツンと透明な階段がある。なぜか、その上に自分がいる。周囲が暗闇なので、階段が上下のいずれに向かっているのかもわからない。

 確かなことは、夢を見るたび自分の位置が変わっていること。1段ずつ先に進んでいることだった。階段の先は、木製の扉につながっている。今度夢を見れば、扉の前にいるだろう。

 で、それがどうした? 進んだところで何の感慨もない。扉の先にも興味はない。どうせ、何も起こりはしないさ。たとえ何かあったとしても、今の私と同じ無味乾燥なものしかあるまい。


 ナルティーは教会での仕事を終え、隣接する自宅に戻っていた。この日は、国民の多くが待ちわびていた日でもある。今夜はキックボクシングのヘビー級世界タイトルマッチが中継される。挑戦者のトーレスが世界を獲れるか、皆の注目の的になっていた。

 この大一番は、現在の大王が就任してから初めての世界戦だ。先代のハモンドとは対照的に、今の大王は平和路線に大きく舵を切った。そのおかげで同盟国と敵対国も歩み寄りを見せ、戦争の心配もなくなった。忘れかけていた真の平和が、国内外にようやく訪れたのだ。

 だからこの世界戦は、多くの国民にとって平和を象徴するイベントでもあった。間違いなく、全国民の関心を集める一戦となっていた。

 しかしながら、今のナルティーはそこまで格闘技に関心はない。信者たちと話題を合わせられるよう、しぶしぶテレビで観戦しているにすぎなかった。髪と同じ灰色の目が、テレビの画面に向けられている。

 

 チャンネルを合わせると、すでに試合は始まっていた。

 リングの上では、筋骨隆々なふたりの男が対峙している。両者とも右の手足を引いたファイティングポーズで、基本に忠実な構え方まで同じだった。

 青いグローブが挑戦者のトーレス。トレードマークである、横に白のラインが入った青いトランクスを着用している。

 もうひとりの黒人の男は、チャンピオンのバロテッリだ。彼は赤いグローブに、白一色のトランクスだった。

 ナルティーは画面左下に表示された残り時間を一瞥する。今は2ラウンド目で、残り時間は2分半だ。

 バロテッリのキレのいいワンツーを、トーレスは両腕できっちりガードする。王者は2発目の右ストレートから、さらに3発目の左ローキックにつなげる。ムチのようなローがトーレスの右足に決まる。

 そもそも王国の人々は、おしなべてキックボクシングを見る目が鍛えられている。今でこそ関心が薄らいだとはいえ、ナルティーの見る目も健在だった。一目見ただけで、チャンピオンの実力と狙いを見抜いていた。

 この前、キック大ファンのアムサーじいさんが言ってた通りだな。チャンピオンは長い手足を活かした、切れ味鋭いパンチとキックが武器だって。もともとはパンチが得意だったけど、世界を獲る前からキックにも磨きがかかったんだっけ。より盤石な強さを手にしたチャンピオンでも、ワシらのトーレスならきっと倒してくれるって熱弁してたな。

 確かにチャンピオンは、パンチも蹴りもかなりいい。馬力のあるトーレスが、ワンツーで止められてたし。最後の左ローは、トーレスの得意な右ハイを封じるためか。よく相手を研究して、かなり警戒してる。こりゃ、かなりの強敵だな。

 バロテッリはなおも前に出て、左右のフックで挑戦者にプレッシャーをかける。トーレスはバックステップで距離を取り、相手のパンチが空を切る。

 対するトーレスは、右のミドルで反撃に出る。しかし王者は左足で難なくカット。バロテッリは重い蹴りにもひるまず、左のストレートを返す。これはトーレスがスウェーで上体をそらしたことで、空振りに終わる。しかし続けざまに繰り出した右のミドルは、トーレスの左腕に命中する。

 最後の蹴りを防がれたとはいえ、攻撃を重ねるチャンピオンにやや流れが傾きつつあった。彼はなおも積極的に圧をかけ、挑戦者を追いこんでいく。

 会場は明るく、熱気にあふれている。まぶしいばかりに照らされたリングを見て、ふとナルティーは近所の街灯を思い出す。

 このあいだも、あの街灯に羽虫がたかってたな。羽虫どもは、昼は太陽の明かりに憧れている。夜になれば、街の明かりに引き寄せられる。

 昼も夜も、明かりに魅せられている。虫はいつでも、本能的に夢を見続けることができる。一生、夢の中に浸っていられる。あいつらは今の私よりも幸福だ。夢もへったくれもなく生きている私よりも、ずっと……。


 彼の思考を遮ったのは、テレビから聞こえてきた大歓声だった。押していたはずのチャンピオンが、リングに両膝をついている。トーレスがダウンを奪ったのだ。実況席から熱気を帯びた解説が流れてくる。


「ダウンだーっ! 勢いづきかけたバロテッリに、トーレス必殺の右ハイキックが火を噴いたーっ! これで勝負あったかーっ!」


 思索にふけりながらも、ナルティーは試合の流れを見落としていなかった。今後の展開も即座に予想できた。

 まだチャンピオンは立ってくる。確かに右ハイがカウンター気味で当たったが、少し決まり方が浅かった。しかも接近されすぎたせいで、蹴るときに体勢も崩されていた。カウント8で立つかな。

 ナルティーの予想通り、チャンピオンはカウント8でファイティングポーズをとる。彼の目を見たレフェリーは、試合を続ける。

 しかし、チャンピオンのダメージは大きかった。構えもどこかおぼつかず、足取りも重い。弱っているのは明らかだった。

 ナルティーは残り時間を確認する。まだ2分近く残っている。立つには立ったが、このラウンドで終わりだな。

 好機と見たトーレスは、一気に距離を詰める。ここぞとばかりに、果敢にラッシュをかける。躍動するトーレスに触発され、会場もにわかに色めきたつ。

 ガードの上から、チャンピオンにパンチの嵐が襲いかかる。観客もヒートアップし、トーレスコールが会場を塗りつぶす。

 トーレスはガードの隙間をついて、的確にパンチを命中させていく。右のフックがアゴに入ると、チャンピオンはぐらつく。倒れるのも時間の問題だ。

 左のフックこそ防がれたが、ゆるんだガードの間に右のアッパーがねじ込まれた。衝撃でチャンピオンの顔が上がり、力尽きて前のめりに倒れる。レフェリーが試合を止め、トーレスはガッツポーズ。天を衝くような歓声が上がった。実況も興奮している。


「やりましたーっ! トーレスが、2ラウンドKO勝利! 国内タイトル獲得からわずか7か月で、世界タイトルをも手中におさめましたーっ! 新たな時代を象徴するニュースターが、ついに世界の頂に立ったーっ!」


 トーレスの勝利が確定した直後、外からも大歓声がこだました。この世の春と浮かれ騒ぐ声を聴けば、町中がお祭り騒ぎになっていることも容易に想像がつく。

 ただナルティーだけが、周囲の熱狂とは一線を画していた。あぁ、勝ったんだ。おめでとう。それ以外の感想はない。彼はぼんやりと思索にふける。


 明日の礼拝後も、全員この話題で持ちきりだろうな。お調子もののレノックスくんは礼拝の間、じっとしてられるだろうか。この試合のことをペチャクチャ話したてて、お母さんにきつく叱られなければいいが……。


 考えこむうちに、ナルティーは抑えがたい眠気にとらわれる。もともと、試合が終わったら寝ようと思っていたところだ。準備万端の彼は寝室に向かう。寝室の扉を開閉し、部屋の右手にあるベッドで横になる。ちなみに左にあるのは、亡き妻がかつて使っていたものだ。

 ベッドで仰向けになり、布団をかけて目を閉じる。よほど眠たかったのか、いびきを立てて眠りにつく。


 真正面には白木の扉がある。黒塗りの世界で、透明な階段をまた進んでいたからだ。扉を前にしても、さしたる心の動きはない。何があろうと、正直どうでもいい。

 確かにどうでもいいのだが、ここで扉を開けないと、いつまでも階段が夢に出てくるように感じられた。

 それは困る。変ちくりんな夢が終わるのなら、開けたほうがいい。彼はおもむろに右手をドアノブに伸ばし、手首を回して扉を押し開けた。


 世界が変わり、自宅に併設する小さな教会の前に立っていた。服装も、礼拝用の黒衣になっている。

 漆喰でできた教会の壁は、とうに白さを失っていた。黒ずんだ外観からは、陰気さがにじみ出ている。

 屋根のてっぺんは盃を模した、厚みのない楕円形のオブジェが設置されている。これが王国の信仰のシンボルだ。

 もともとは信仰に忠実な、銀の盃をアイコンだった。それが時代を経て簡略化され、今では丸型のものが定着した。そのオブジェは光沢を失い、くすんだ色合いでしょげかえっている。

 彼は見慣れた、古ぼけた教会に入ろうとする。なんとなく、そうしなければならないと思ったからだ。歩き出した矢先、何者かが彼を呼び止める。


「あなた!」


 振り向くと、妻と幼い息子がそばに立っていた。活気に満ちた、太陽の笑みをふたりとも浮かべている。

 夫は優しく微笑み、聞き返す。


「どうしたんだい?」


 妻は愛しいわが子を示し、嬉しそうに打ち明ける。


「この子が、あなたに直接忘れものを届けてあげたいって」

「忘れもの……?」


 幼児は得意げに、右手のペンダントを差し出す。


「これ」


 彼の手にあったのは、信仰の証である丸いペンダントだった。息子の優しさに気づいた父親は、かがみこんで忘れものを受けとろうとする。


「ありがとう」


 ナルティーの右手がペンダントに触れた途端、ペンダントは白に変わった。

 ギョッとした彼は、跳ね起きるように上体を起こす。見れば妻子からもみるみる色が抜け落ち、全身が真っ白になっている。

 優しく微笑みたたずむ妻子は、いつしか骸骨になっていた。ナルティーは恐怖で悲鳴を上げる。


「うわっ!」


 妻子だけではない。自分たちを囲んでいる教会や住居、さらには周囲の景色まで脱色されている。白化したものたちは次第に輪郭を失い、白い空の中に溶けていった。

 目を白黒させている間に、ナルティー以外のすべてのものが、白い世界に消えさってしまったのだ。


 あたりには、文字通り何もなかった。ただただ白い空間だけが、どこまでも無限に広がっている。

 色のない空虚な空間を見るうちに、ナルティーはだんだん不快になってきた。何だか自分の深層心理を、誰かに見透かされたような気分だ。本当に、何もない自分の心を。

 そう思うと、居心地が悪くなってきた。彼は踵を返し、真後ろを向く。後ろには、最初に入ってきた白木の扉がある。そこから戻ればいいと考えたのだ。

 ところが、当初あったはずの扉は消えていた。前方と何ら変わらない、色のない景色が延々と続いている。

 彼は茫然と立ちつくし、ただただ途方に暮れるばかりだった。直前に見た家族の面影に涙するわけでも、取り乱して泣き叫ぶわけでもなかった。

 そうだ。ふたりとも、とっくの昔に死んでしまった。いないのが、もう当たり前になっていた。あの時から、私も生きる屍になったんだ。何もかもが、なくなったんだ……。

 悲しい。それなのに、不自然なほど心のなかに打てば響くものがない。あまりにも反応がなさすぎて、いま自分の心が痛いのか、それとも苦しんでいるのもわからない。心がない状態に、何の疑問も持たなくなっていたから。

 じゃあ、どうする? 神にでも祈るか? だが祈ったところで、何の意味がある? 

 神はどこまでも底意地が悪い。すべてを捧げ一心に祈れば裏切る。信心を棄てたら、取り上げたものを返すふりをして、これ見よがしに人をたぶらかす。

 とんだ偽善者だ。救いなど、求めても無駄だ。その深遠な御心(みこころ)を理解できない私たちには、身勝手さに翻弄されることしかできやしない。


 諦めたナルティーは、もう考えることをやめた。何を考えるでもなしに、ただつっ立ったまま、空虚な空間を眺めつづけていた。

 彼自身は気づかなかったが、呆然と立ちつくす体からは、徐々に色が消えていた。妻子のように真っ白になり、肉体と周囲の境目もどんどん曖昧になっていく。こうして空っぽのナルティーは消滅し、正真正銘の何もない世界になった。


 寝室で熟睡するナルティーの枕もとで、枕に化けていた灰色の夢魔が正体を現した。中央にある2つの突起と同じ、赤い触手が四方八方へ伸びていく。くたびれた男の全身に触手が吸着する。

 高いびきのナルティーだったが、急に顔をしかめ寝言でうめきだす。


「うわっ!」


 妻子の姿が変わり、肝を冷やしたのだ。後にも先にも、異変はこれだけだった。数秒ほどで男はまたいびきを立てる。驚くほど、何も起きなかった。

 夢魔は早々と触手をしまいこむ。1本だけ残った触手の先を、男の額にかざす。触手の吸引口から、白い雫がしたたる。落下した雫は額をすり抜け、男の中にしみとおる。同じ雫がまた落下し、額を通過した。今度もまた同じものが体内に吸収された。この3滴目が浸透した直後に、ナルティーは夢から消えていた。

 夢魔はきまり悪そうに触手を戻し、憑依していた枕を離れる。灰色のミミズクに変身した夢魔は、左側にいる男をにらむ。赤い目はどことなく不満そうだ。

 こしゃくにもナルティーは、動きを合わせわざわざ右を向いてきた。相変わらずいびきがやかましい。何を思ったのか、ミミズクは小憎らしげに男の頭を蹴りとばす。

 幸いにも足の裏が当たり、ツメで頭を傷つけられることはなかった。しかし、衝撃で男の顔はぐるりと左を向かされた。どつかれて出た寝言は、苦悶の声だった。


「うーん……」


 また癪にさわるいびきが始まった。ミミズクは男に背を向け、音を立てず天井へ舞い上がる。夢魔は天井をすり抜け、ナルティーの前から姿を消す。


 翌朝、目覚まし時計の音でナルティーは起こされた。時計を止めると、彼は首の痛みに気づく。どうやら、眠っている間に寝違えてしまったようだ。右手で首をおさえていた彼は、ぽつりとつぶやく。


「あれ……?」


 私は最近、何の夢を見ていたんだ? たしか、おかしな夢を立てつづけに見ていた気がしたんだが……? 思い違いか?


 目覚めたナルティーは、夢魔による夢のすべてを忘れてしまっていた。彼に残されたのは、何かを思い出せない心のモヤモヤと、首の痛みだけだった。

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