過剰な承認欲求はどこからくるの
手術室で自撮りをする。
社外秘の資料をSNSにあげる。
このような、ルールや心のブレーキを超越する「過剰な承認欲求」はどこからくるのだろう。
私は、テンプレート化したコミュニケーションが人の欲求を満たせなくなっていることが要因の1つなのかな、と思う。
「社交辞令」というものがある。これはコミュニケーションを円滑にすすめるための技術だが、近年は乱用されすぎているように感じる。
なんなら、社交辞令と分かりにくいものも「社交辞令」と言い張る人間がおり、人が人の言葉を信用できない現状が多々あるのだろう。
社交辞令はテンプレートだ。「お綺麗ですね。」「実にお目が高い」などは、社交辞令という箱の中にある言葉たちだ。
しかし、近年は「絶対に遊びにいきましょ!」といった言葉すら″その場を円滑に回すため″という共通点から社交辞令と主張する人間がいる。
それは違うのではないか。
社交辞令は、相手が社交辞令と分かるような仕掛けが必要だ。「円滑に回すため」という点が共通している……と言うならば、その言葉は「その場を取り繕う嘘」となにが違うのだ。
テンプレートの言葉や対応は良いものだ。しかし、使えば使うほどに自身が透明になってしまう劇薬でもある。
それを常用し、親しい家族や付き合う友達、パートナーにすら「透明な対応」をしてしまうと、自分の意思はそこから消えてしまう。
つまり、ルールや心のブレーキを超越するほどの過剰な承認欲求は、その人自身が「透明化」していることからきている。そして、その行為は透明化による不透明さを取り払いたいという「実在の手触りを求める行為」でもあるのだろう。




