誹謗中傷に対する考え方(※誹謗中傷に″だけ″使う技術!!)
私は誹謗中傷に対してメンタルが強い。それは、誹謗中傷や悪口、極端な否定を「共通しているものやテンプレートを消し、そこに人の存在はあるのか?」といったレンズで物を見ているからだ。
例えば、「バカ」や「死ね」、「お前に聞いていない」といった言葉は、子供時代に、無料で手に入るテンプレートな悪口群だ。
これは、基本的に誰もが使えるために、ユーモアもなく、仕草や言動が一定で、面白くもないし、見飽きた。
その見慣れた中傷に加え、相手の意思も、「人を傷つけたい」といったものしか含まれていない。
そして、その″人を傷つけたい″という意思も、「ストレスを感じると何かに八つ当たりをする」という、生物の習性によるもので、大抵の人間が持つものだ。
よくあるテンプレートの悪口群に、誰もが持つ習性。ならば、その言葉は、その人固有の「意思」ではない
つまり、相手の意思はその言葉に存在していない。
・見慣れた中傷行動か?
・よくある人の習性か?
この2つのレンズを使えば、その中傷に人の意思が含まれているのか、本物の言葉なのか、ある程度分かる。
いままでに何度か、「共通している物は消す」という話をしてきたが、この考え方は、あらゆる物を考えるときに役立つ。
「共通している物は消し」、残った物を「それである必要はあるか?」と審査すると、自分の価値が見えてきて面白いよ。
あと、この技術を扱う上で大切なことを話すけれど、【話と関係ない人格攻撃や、見知らぬ人間からの悪意のある中傷にのみ使う】というルールを厳守してほしい。
人間はテンプレートの言葉の中で生きている。それは、相手に敵意を持っていないことを表したり、私は場を乱しませんよ、といった表明でもある。
だから、それらがテンプレートだとしても、この技術を使って、相手の存在を消してはいけない。
それをしてしまうと、自分の心身が孤立することになる。
だから、「人格攻撃や見知らぬ人からの中傷に対して使う」というのを忘れないでほしい。
【あとがき】
もう少し詳しく説明する。
実際、人の意思は複雑であり、「共通している物は消す」という技術で、全てが消えるわけではない。
ただ、誹謗中傷の場合、「聞き慣れた単純な言葉」「中傷してしまう衝動性」は、ある程度の単純性があると私は思う。
だから、その存在を論理的に消す。
もちろん、彼らの心の痛みに共感し、寄り添うこともできるが、「関係ない人に『死ね』と言える人間」を私は好きになれない。
とくに、ネットのような匿名性が高い場所だと、相手のこと(なにが好きなのか、どんな人生なのか)が分からず、なおさら、共感できない。心に寄り添うのは難しい。
ましてや、「死ね」「バカ」といった既存のテンプレートを振り回し、可能な限り、透明で在り続けようとする相手ならば、もはや、そこに相手の存在はないと私は感じる。
その一方で、一般的な人々が扱うテンプレート的会話は少し勝手が違う。
たとえば、「私は赤色が好きです」といった言葉は、何処かで聞いたテンプレートであり、その言葉を発した意図も自己紹介であるため、よくあるものだ。
けれど、その人自身が「赤が好きだ」と自認していることを考えると、その言葉の背景には、その人の人生の中で蓄積されてきた「赤にまつわる歴史」があるため、深い広がりがある。
ゆえに、単純な「バカ」や「死ね」といった中傷とは大きく異なる。




