アダム・スミスは、いつまで殺され続けるのか?
アダム・スミスは国富論を書いた。そして、国富論は、現代経済学の基盤となっている。
特に「自由経済」という考え方は、転売問題や非道徳的なビジネスなどの問題を引き起こしている。
これは変な話ではないか?
なぜ、世界的に広く認められている論理が、こんな単純な問題を解決できない?
みんなは変だと思わない?
変な状況に違和感を持っているから、
「それはおかしい」って声をあげるんでしょ?
そもそも、アダム・スミスは経済学の教授ではなく、倫理学や道徳哲学の教授だった。スミスは、国富論を書く前に「道徳感情論」という本を執筆している。
この「道徳感情論」は、国富論における自由経済を上手く機能させるための、そもそもの「前提条件」が書いてある。
そして、道徳感情論では、「公平な観察者」と呼ばれるものが出てくる。
「人は、心に公平な観察者を持ち、その観察者が認める範囲で行動をするべきだ。」と、スミスは言っている。
スミスを研究し、のちにノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センも、「国富論と道徳感情論は、現代経済学の二輪である。どちらが欠けても機能しない」と言っている。
つまり、転売や非道徳なビジネスは、国富論の一部だけを切り取り、自分たちの行為を正当化するために、スミスの理論を不当に扱っている。
その行為は、スミスの力を借りておきながら、スミスの顔に、常に唾を吹きかけているようなものだ。
そして、これは個人的な思想になるが、元来、学問を学ぶ人間は、その分野が悪用されないように、「知識の門番」でなければならない。
しかし、経済学においては、「近代を支配する経済学を学んだ」という称号を掲げることに夢中になりすぎて、門番の役割を放棄、あるいは、教えられていない人間がいるようだ。
その結果が、転売や非道徳ビジネスの蔓延である。
(この文章を見つけた経済人は、いまからこっそり学び直せば「真の経済人」といえるわけだから、幸運とも言える。)
私は物書きの端くれとして、偉人たちに敬意を払いたい。それは彼らが偉いからではない。
物書きに挑戦して、自分の考えを文字にすることが、とても難しい事と知っているからだ。
ましてや、その考えが「世界規模の理論」であるならば、彼らはかなり苦心したはずだ。
彼らの言うことは難解だが、それは彼らの人生そのものであるからだ。彼らの人生を傾聴せず、あまつさえ、彼らの知肉を踏み続け、唾を吐きながらお行儀の良いふりをするのは、あまり感心しない。
スミスはいつまで、殺され続けるのだろう?
【まとめ】
・「自由経済」という考え方だけでは、不十分。
・学問を学ぶものは、その分野の門番
・自由経済は、公平な観察者によって成り立つ。




