人と車は似ている。ルッキズムの分析
私は人と車は似ていると思っている。
人の体は車の見た目。
人の心は車の運転手。
車の見た目が良かったとして、運転手のマナーが悪ければ(窓からタバコポイ捨て、爆音の排気など)、多くの人は、その車のことを魅力に感じないはずだ。
逆に車の見た目が悪かったとしても、運転手のマナーが良ければ(歩行者優先、頭をさげるなど)、その車に魅力を感じる人もいるはずだ。
世界がどんなに見た目の話をしていて、「見た目が悪いやつはダメだ」と、どれほど言っていたとしても、それはまったく事実ではない。
街中を見てみれば、車の見た目にはいろんな物があることに気づくはずだ。小さくて可愛らしいフォルムや、大きくて強そうなくるま。
つまり、好みは人それぞれだという事だ。
見た目が悪くても、運転手が良ければ、それもまた、魅力的な車だ。交通ルールを守り、譲り合いを行える運転手が運転する車には、品性と輝きが見える。
見た目が悪いからなんだというのだ。
そんなことで、自分の価値は決まらない。
嘘がつきやすいネットではなく、
実際に街を見てみれば分かる。
全てが見た目で決まるわけじゃない。
◇
そもそも、ルッキズムはなぜ蔓延するのか?
私が思うに、社会が国民に要求するレベルが高くなっており、その問題の複雑を解決するために、手の加えやすい「見た目」に傾倒しているようにみえる。
「見た目は変えられない」と言う一方で、整形や化粧で簡単に変えられる現状がある。
ルッキズムの世界の中心地にいる「ホスト」という職業の支配人は、「見た目は後でいじればいい。心はそう簡単に変えられない。だから、中身が大事。」と言って、内面重視で採用しているようだ。
ルッキズムの極地にあるホストの世界ですら、最終的には、「運転手」を見ているという事実があると考えると、これは「見た目は簡単に変えられるが、心を変えることは難しい」ということだと思う。
自分の心という「見えない運転手」の技術向上を考えたなら、自分自身による「常に良き運転手であり続けよう」といった忍耐が必要になる。
「外見」という分かりやすい記号で、他人の価値を一方的に測り始める方が、自身の内面を見られるスキを与えないから、ルッキズムは楽なのかもしれない。
外見に関するマウントを取ることで、相手よりは社会を分かっている上位者だと思える。
つまり、高いレベルを求める社会構造に、みんな苦しんでいるからこそ、手の加えやすい「ルッキズム」が蔓延したのだと思う。
そう考えると、ルッキズムとは、「歪な社会構造が生み出した病」と言える。




