第86話:アーサーの新しい日常
今回はアーサー視点です。
食堂でハルカに遠くから手を振った、あの後のお話をお届けします。
「ハルカ、元気そうだったね」
食堂でテイクアウト用のサンドイッチを買って訓練場へと戻る途中、やっと周りから女生徒たちがいなくなったのを見計らって、俺はレオに話しかけた。
「ん?ああ。待望の女友達もできて、毎日楽しく過ごしてるみたいだぞ」
「そっか、レオは毎日ハルカに会ってるんだっけ」
羨ましい。俺なんて、デビュタントぶりなのに。
「そういえば、レオはハルカ嬢の護衛を兼ねて、行き帰りの送迎をしてるんだっけ?ぶっちゃけ、大変じゃない?自分の訓練や授業もあるのに」
訓練場脇のベンチに腰を下ろし、フェリックスが疲れた顔でそう述べる。
確かに、騎士科の訓練は厳しい上に、授業は難しく、課題も多い。その上、レオは早朝や夕食後に自主練も欠かしてないと言う。
「全然。どうせ行き先は一緒だし、ついでだよ」
フェリックスの隣に腰掛けながら、サラリとレオはそう言い切った。
「それより、お前たちの方が忙しいんじゃないか。週末も王宮で仕事してるんだろ?課題する暇あるのか?」
「そうでもないよ。課題は休み時間にもできるし。兄上の手伝いも、まだできることが少なすぎて、勉強させてもらってるって感じだし」
思わず溢れてしまった小さなため息に、レオが反応した。
「最初から何でもできる奴なんていないさ」
レオは少し笑った。
「ラオウ様も言ってただろ。腐らず毎日剣を振り続けた奴が、一番強くなるって」
「そっか、そうだよね」
途端に力が湧いてくる。
そうだ。まだ始めたばかりなんだ。できないことを嘆いてる暇はない。
「二人はラオウ様からそんな指導を受けてきたんだな。正直、羨ましいよ」
フェリックスが、ぺしゃりとうなだれる。
「俺なんて平日も週末も課題に追われて、最近は満足に訓練もできてないよ」
そして、深く息を吐いた。
「アーサーの護衛兼側近になったんだもんな。頑張れよ」
レオがフェリックスの背中をバンバンと叩く。
その勢いに、フェリックスは口に入れたサンドイッチを吹き出しそうになっていた。
俺はそんな二人の様子を眺めながら、レオの隣に腰掛けた。
サンドイッチを口に運び、ちょっと申し訳ない気持ちでフェリックスを見つめる。
「フェリックス、よかったら課題手伝おうか?」
ごくんとサンドイッチを飲み込んで、そう申し出た。
しかし、フェリックスはブンブンと首を横に振る。
「いや、いいよ。俺より忙しい奴に手伝いなんて頼めるか。大丈夫、アーサーがレイノルド殿下の手伝いをしてる間は、俺も休憩時間だ。その間にパパッと終わらせるよ」
明るい笑顔でそう言うと、フェリックスは残りのサンドイッチを口の中に詰め込んだ。
◇◇◇
「アーサー、来たか」
執務室の扉を開けると、兄上がすでに机の前に座っていた。
「はい。今日もよろしくお願いします」
挨拶を交わし、自分用に用意された執務机に向かう。
机の上には、すでに書類の山があった。
「いつも通り、書類の仕分けから頼む」
王宮での生活に慣れ、兄上を手伝い始めた時、最初に任されたのは書類の仕分けだった。急ぎのもの、確認が必要なもの、後回しでいいもの——この三つに分けるだけで、仕事の流れが随分と変わってくるらしい。
「はい」
「それと、今日はクラウゼン子爵にもサポートを頼んでいる。わからないことがあれば何でも聞け」
兄上がそう言うと、ちょうど執務室の扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、ヒロだった。
宰相補佐の職服に身を包んだヒロは、相変わらずの穏やかな笑顔でこちらに会釈する。
「アーサー殿下、本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく」
馴染んだ笑顔に肩の力がほぐれる。
「それと、もしよろしければ、参考までにこちらをどうぞ」
そう言って渡されたのは、案件ごとの仕事の流れと担当部署を、簡潔にまとめた一覧だった。
「事前に目を通していただくと、全体像がつかみやすいかと思いまして」
「……ありがとう。すごく助かる」
正直に言うと、ヒロは小さく微笑んだ。
◇◇◇
その後も、俺はひたすら届いた書類を分類し続けた。
一見単純な作業に思えるが、実際はなかなか難しい。
兄上から渡されたガイドラインに沿って分類を進めていくものの、判断に迷う書類はどうしても出てくる。
「この陳情書は?」
「それは今月三度目の同じ内容ですので、前回の対応記録と合わせてレイノルド殿下にお見せするのがよいでしょう」
俺が手を伸ばす前に、ヒロはすでに該当の記録を取り出して並べていた。
「……いつのまに準備してたの?」
「本日アーサー様のお手伝いができる旨レイノルド殿下にお伝えしに伺った際、そちらの書類の閲覧許可もいただきましたので。その時に」
……これが、ラオウ様やタイロン様、さらには宰相にまで認められた実務処理能力か。
常に三歩先を見て動く。
——いつかは、俺もこの域に達することができるのだろうか。
そう考えた時、不意にオンタリオを発った日のことが脳裏をよぎった。
庭に並んで見送りに来てくれたみんなの顔が浮かぶ。
パトラッシュは「くうん」と鳴きながら体を擦り寄せ、アリサとヒナタは「にいたま、すぐ帰ってきてね!」と泣きながら抱きついてきた。
ラオウ様は肩を叩いて「しっかりやれよ」と送り出し、タイロン様とミランダ様は「困ったことがあったら、いつでも頼りなさい」と優しく背中を押してくれた。
——ハルカは、最後まで小言の連続だったな。
「季節の変わり目は風邪をひきやすいから、気をつけてね」
「無理しすぎないようにね。疲れたらちゃんと休むんだよ」
最後は「学院で会おうね」——そう言って、見えなくなるまで手を振ってくれたっけ。
……ハルカ、会いたいな。
話したいことは山ほどあるのに、もう一ヶ月もゆっくり話せていない。
思わず、深いため息が漏れた。
「お疲れですか?」
ヒロの声に、俺は思考を引き戻された。
「ごめん。少しボーッとしてた」
慌てて次の書類に手を伸ばす。
すると、
「少し息抜きしませんか?」
そう言って、兄上の許可を取ると、部屋の外に連れ出してくれた。
どうやら庭園に向かうようだ。
「アーサー様が政務のお手伝いを初めて、そろそろ一ヶ月ほどになりますね。いかがですか」
隣を歩きながら、ヒロはこちらを見ずに問いかけた。
「難しいな、と思った。自分がわかっていないことが、どれだけあるかがよくわかった」
「それは良い気づきだと思います」
「良い、なの?」
「はい。わからないことがわかれば、次に何を学べばいいかが見えてきます」
ヒロが言葉を続ける。
「アーサー様はきちんと知ろうとなさいます。わからなければわからないと言い、確認できないものは確認を取るようにされていましたよね。その姿勢が大切なのです」
そう言われると、素直に嬉しい。
何もできないと下を向いていた気持ちが、「このままで大丈夫」と認められた気がした。
俺は短く息を吐いた。
「ヒロは……本当にすごいな」
俺も、今日感じたことを素直にヒロに伝えたくなった。
「いつだって、俺たちが気持ちよく動けるように、整えてくれる。メンタル面もそうだけど、実務面でも。さっきの話だって、俺が聞く前に答えが出ていた。あれは経験だけでできることじゃないよね?」
ヒロはしばらく黙って、それから静かに言った。
「そう感じていただけたとしたら、それはお嬢様や旦那様方のお陰です。オンタリオ家で育てていただいた時間が、今の自分の土台になっているんです」
庭園を眺めるその横顔が、どこか誇らしそうだ。
「俺も、ヒロみたいになれるかな」
何気なく溢れた呟きだった。
けれど、その声に、ヒロはピタリと足を止めた。
「手本とすべき相手は私じゃないですよ、アーサー様。ここに戻られたのは、補佐の仕事を学ぶためだったのですか?」
その指摘にハッとする。
「今は、王宮での仕事を知ることが第一でしょう。政務を知り、権力について理解を深めることも大切です。ですが、そこがゴールではないはずです」
ヒロはまっすぐと俺の目を見つめ、落ち着いた声音で話を続けた。
「何ができるかを知った後は、それをどう使うかをよく考えてみてください。そうすれば、自ずと目指す先が見えてくると思いますよ」
俺は静かに頷いた。
「さ、そろそろ戻って仕事を再開しましょう」
そう言って先を進むヒロの背中を、俺は急いで追いかけた。
今回は、アーサーたちの新しい日常を描いてみました。
騎士科で友人たちと過ごす時間や、王宮での生活、そしてオンタリオを旅立った日のことも少しだけ。
それぞれが新しい環境で何を感じ、どんな一歩を踏み出しているのか——そんな姿を楽しんでいただけたら嬉しいです╰(*´︶`*)╯♡




