第79話:水に流して
ハルカ視点に戻ります。
評議会が開かれている間、私はヒロとレオに付き添い、オスカーとアデルに会うため、会場近くの別室に赴いていた。
シンプルな作りの、けれど十分な広さのある応接間だった。三人掛けの長椅子が二つと一人掛けの椅子が二つ、それに見合った長さのあるテーブルが置かれていた。
扉を開けると、長椅子に腰掛けていた二人が立ち上がった。
栗色の髪に灰緑の瞳の青年と、淡い金髪の少女。
オスカーとアデル——以前会った時よりも、明らかにやつれた様子の兄妹がそこにいた。
「ヒルベルト」
オスカーが、一歩前へ出た。
ヒロより少し背が高く、肩幅もある。どこか似た印象を持つ二人だと思っていたが、並んでいるところを見ると、体つきや目の強さが明らかに違うと思った。
「……無事で、良かった」
「ご心配をお掛けしました」
二人が向かい合う。
隣では、アデルが両手を胸の前で重ねたまま、じっとヒロを見ていた。
「アデルも、結婚が決まったそうですね。おめでとう」
「ヒルベルト兄様……お元気そうで、本当に良かった……」
アデルはそう言うと、堪えきれないように目元をハンカチで拭った。
◇◇◇
「弟のレオです」
ヒロがレオを引き合わせると、オスカーとアデルの視線が移った。
「レオナルド……か?」
オスカーが、目を細める。
「大きくなったな」
「……本当に」
アデルも、どこか感慨深そうに呟いた。
レオは少し面食らった顔をして、それから小さく頭を下げた。
「ご無沙汰しています、と言うべきなのかもしれませんが——申し訳ありません。お二人のことは、覚えていないので……レオです。よろしくお願いします」
「ああ、お前は小さかったからな。無理も無い。だが、ずっと、心配していたんだ」
オスカーの声には、飾った様子はなく、ただ安堵が滲んでいた。
「生きていてくれて、本当によかった」
その言葉に、レオが少しだけ目を伏せたのがわかった。
ちゃんとは見えなかったが、その瞳は、たぶん揺れていたのだと思う。
◇◇◇
二人とテーブルを挟んで並んで席に着くと、ヒロが静かに話し始めた。
当時の話。
——両親のこと。
——家を出た経緯。
——そこから、オンタリオに渡った時のこと。
——最後に、今まさに別の部屋で行われている評議会のことも。
オスカーは黙って聞いていたが、その表情はどんどん険しくなっていった。アデルは口元を押さえたまま、何度もギュッと目を閉じ、瞼を震わせていた。
「父上が……そんなことを」
オスカーが、ようやく絞り出した。
「信じたくないが——聞けば聞くほど、辻褄が合ってしまう」
「私は二人を責めたいわけではありません」
ヒロは静かに言った。
「ただ、全てを知ってもらった上で、これからのことをお話ししたかった。それだけです」
「……ヒルベルト」
「評議会が終われば、私は爵位を継承し、試験を経て、王宮に務めることになるでしょう」
ヒロは落ち着いた声で続けた。
「オンタリオでの引き継ぎもありますので、移動は春以降になるかと思いますが」
「そうか」
オスカーが深く息を吐いた。
「それが正しい形だ。それが……本来あるべき姿だったんだ」
それから、オスカーはゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。
「ヒルベルト。レオナルド。今まで、すまなかった」
アデルも隣で同じように頭を下げる。
「私も、何もしてあげられなくて、ごめんなさい。」
しばらくの沈黙。
「顔を上げてください、二人とも」
先に口を開いたのは、レオだった。
「確かに、兄さんには苦労を掛けっぱなしだった。でも——俺は生まれてから今まで、ずっと幸せでした。だから、謝らないでください」
多くを語らないレオの一言、けれど全ての想いが詰まった言葉だった。
顔を上げたオスカーの目から、涙が零れた。
アデルも、しゃくりあげるように肩を震わせていた。
◇◇◇
涙が落ち着いてから、話は実務的な方向へと移っていった。
「屋敷の引き渡しはいつ頃を考えているんだ?」
オスカーが問う。
「引き継ぎが終わり次第、準備を進めます。できれば、移動する前に一度戻って確認したいとは思っていますが」
「ヒルベルト——一つ、厚かましいお願いがあるんだが……」
オスカーがわずかに躊躇してから、続けた。
「俺たちはすぐにでも屋敷を出る。だが、アデルは、春には嫁ぎ先である隣国へ移動する予定だ。できれば、慣れ親しんだ屋敷から送り出してやりたい。……移動まで、アデルを住まわせてはもらえないだろうか」
ヒロは少しの間、アデルを見た。
アデルは目を赤くしたまま、不安そうにこちらを窺っている。
「かまいません」
ヒロが、穏やかに答えた。
「従妹の門出を見守れるなら、私も望むところです」
「ヒルベルト兄様……」
「旅立ちのその時まで、どうかゆっくり過ごしてください、アデル。それに、オスカーも。正式な引き渡しは、その後にしましょう」
アデルが、静かに頭を下げた。その目にはまだ涙が光っていた。
◇◇◇
屋敷の引き渡し時期について話がまとまりかけた頃、廊下からノックの音がした。
「失礼するぞ」
扉が開くと、お父様とお祖父様が入ってきた。
——そして、その後ろから、もう一人。
白髪交じりの、見知らぬ男性だった。
萎縮したように背を丸めている。でも、その顔立ちはオスカーによく似ていた。
「……父上」
オスカーが立ち上がった後、お父様達に気付いて慌てて挨拶をした。
アデルとも挨拶を交わし、お父様とお祖父様はそれぞれ一人掛けの椅子に腰を下ろした。
「裁定はどうなりましたか?」
私は急いでお父様に問いかけた。
「概ね、事前に聞いていた通りだったが——」と、お父様はオスカー達にもわかるよう、かいつまんで説明してくれた。
オスカーとアデルは、それを聞きながら複雑な顔をしていた。
一通りの説明が終わると、重い沈黙が部屋の中に落ちた。
「さて——」
これまで沈黙を守っていたお祖父様が、徐に口を開くと、クラウゼン子爵を静かに見据えた。
「クラウゼン子爵。いや、ヴァルター殿と呼ばせてもらおうか」
穏やかな声だった。
でも、次の瞬間——部屋の空気が、ズシリと重みを持った。
「うっ……」
ヴァルターが、顔を歪める。
顔色がみるみる悪くなり、額には汗が浮かび始めていた。
——お祖父様の威圧だった。
「お、お祖父様?」
私は思わず声を上げ、お父様に視線を向けた。
止めるべきか——そう確認しようとして、気づいた。
お父様も、同じように威圧を放っている。
部屋の中の空気が、一層重みを増した。
「あ……」
ヴァルターの隣にいたアデルが、威圧に耐えかねたように、ふっと意識を失い、横へ傾いた。オスカーが慌てて支える。
「今回のこと」
お父様が、静かに言った。
「それから六年前に、ヒロとレオ、その両親にしたこと。俺たちは、許してはいない」
「な、何を証拠に……ううっ」
ヴァルターが取り乱す。
「有耶無耶にできると思っていたのか」
お祖父様の声は低く、穏やかで——だからこそ恐ろしかった。
「両親の事故。二人が家を出た直後に遭った人攫い。そして今回の件も」
「ち、父上!どういうことですか!?」
オスカーが、震える声でヴァルターを睨む。
「知らん。私は何も知らん」
「父上!」
アデルを支える反対の手で、父親に掴み掛かろうと手を伸ばすオスカー。
一触即発の空気に割って入ったのは、黙って成り行きを見ていたヒロだった。
「旦那様、並びに大旦那様」
ヒロが静かに口を開いた。
「私たちのために、怒ってくださり、ありがとうございます」
「ヒロ……」
「ですが、もういいのです」
私は思わずヒロを見た。
ヒロは真っ直ぐに前を見ていた。
「こんな男でも、オスカーとアデルの父親です。これ以上罪が露見しては、アデルの縁談にも支障が出てしまう」
「ヒルベルト、だが!」
オスカーが言いかけるのを、ヒロが静かに制した。
「本当に、もういいのです」
ヒロは静かに微笑んだ。
「私は今、オンタリオで幸せなのですから」
部屋が、静まり返った。
「先ほど、レオも言ってくれたんです。『今までずっと幸せだった』と」
ヒロが、穏やかな瞳で隣に座るレオを見た。
その後、私を見て、それからお祖父様とお父様を見た。
「私も——お嬢様に拾われ、オンタリオで過ごした日々は、本当に幸せでした」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
「だから、過去のことは水に流します——この件は、これで終わりにしましょう」
ヒロはそう言って、レオへと視線を向けた。
「レオも、それでいいか?」
レオが静かに頷く。
それを見て、ヒロは澄んだ瞳をまっすぐとヴァルターへ向けた。
「今は、これからのことを話し合いましょう」
その言葉を受け、お父様とお祖父様は圧を収めた。
ヴァルターはぐったりと椅子に沈んだまま、もはや何も言えなかった。
それから、継承の時期、屋敷の引き渡し、ヴァルター一家のその後の処遇について、淡々と話し合いが進んでいった。
私はその様子を見ながら、ずっとヒロの横顔を見ていた。
怒っていい話だった。
恨んでいい話だった。
それでも、ヒロは「もういい」と言った。
——ヒロは強いな。
そう思ったら、なぜか、少しだけ目の奥が熱くなった。




