第64話:届く手紙、揺れる心
ヒロ視点のお話です。
「明日から、いよいよ探索か……」
遠征の前夜というのは、妙に時間が長く感じられる。
準備はとうに終わっている。装備の確認、隊員の健康状態の把握、行程の最終確認——やるべきことは、すべて終えている。あとは夜明けを待つだけだ。
それでも眠れないのは、今夜に限ったことではない。
私はランプの灯りの下、机の引き出しを開けた。中には、数通の手紙が束になって収められている。
そのほとんどは、オスカーからのものだ。
王宮の廊下で声をかけられてから、ほぼ毎月欠かさず届いている。内容は決まって近況報告だ。法務部での仕事のこと、王宮の様子、アデルのこと——誠実で、押しつけがましくなく、それでいて「また会いたい」という気持ちが、行間の端々に滲んでいる。
私の返事は、いつも短い。
近況を数行書き、「お体に気をつけて」と締める。それだけだ。
……それ以上、何を書けばいいのかわからない。
ふと、一通だけ差出人の異なる手紙が目に入った。
叔父上——ヴァルター・クラウゼンからのものだ。
最初に届いた時、この名前を見ただけで、冷水を浴びせられたように体の奥が冷えた。
——まさか、と思った。
目を閉じれば、いつだって思い浮かぶのは、あの日のことだ。
十歳の夜、書斎の向こうから聞こえてきた笑い声。
「いい時に兄たちも死んでくれたよ」
あの時の叔父の声は、今も耳の奥にこびりついて離れない。
私は一つ息を吐き出し、ぐっと眉間に力を込めた。
そして、目の前の手紙へもう一度視線を落とす。
「久しく連絡が取れず心配していた。一度ゆっくり話したい。都合のいい日を知らせてくれれば、こちらから会いに行く」
——心配していた、だと?
「……ふざけるな」
何度読み返しても、腹立たしさは消えない。
ぐしゃぐしゃに丸めて捨ててしまいたい衝動を、私は必死に押し殺した。
脳裏に浮かぶのは、すでに返送した簡素な返事だ。
「この手紙がそちらに届く頃には、魔の森で任務に入っています。一ヶ月ほど不在となる予定ですので、戻りましたらこちらから改めてご連絡いたします」
先延ばしにしているだけだということは、自分でもわかっている。
……それでも今は、どうしても会う気になれなかった。
そして、机の上には、今日届いたばかりの手紙があった。
——アデルからのものだ。
封を開け、便箋を広げる。
子供の頃から変わらない、丸く、少しだけ右上がりになる文字が目に入った。
『ヒルベルト兄様へ
春には隣国の婚約者の元へ移り、一年後に式を挙げることになりました。
王都を離れる前に、一度でいいので、兄様の顔を見せてもらえませんか?
会いたいです。
アデルより』
短い手紙だった。
私がクラウゼン家を出た時、アデルは八歳だった。
いつも私の後ろをついて歩き、「ヒルベルト兄様、これ見て」「ヒルベルト兄様、聞いて」と、無邪気に声をかけてきた。
廊下を歩くたび、その声が当たり前のように背中から追いかけてきたものだ。
そのアデルも、もう間もなく成人し、嫁ぐ年になったのか。
オスカーからの手紙にも、以前から縁談の話は書かれていた。
相手は隣国の裕福な商家で、アデル自身も嬉しそうに嫁入りの準備をしている、と。
隣国——。
今を逃せば、もう会えないかもしれない。
私は窓の外へ目を向けた。夜の庭を、風が静かに抜けていく。
——会うべきか。
考えたくない問いが、頭に浮かぶ。
アデルは、この件に関係ない。オスカーも、おそらくは……。
少なくとも、手紙を読む限りでは——昔と変わらず、私たち兄弟を案じてくれているように思えた。私が家を出た理由も、叔父上のしたことも、何も知らないように思える。
だが——確証はない。
親しく振る舞っていても叔父上の子供だ。本当に何も知らないのか。
——考えれば、きりがない。
私は手紙を手に取り、そしてまた机に置いた。
問題は、それだけではない。
レオのことが、頭を離れない。
あいつは今、修行の地にいる。
戻ってきた時、あいつは何を選ぶのか。
冒険者か、騎士団か——あるいは別の道か。
はっきりしていることはただ一つ。
オンタリオで生きると、あいつは言うだろう。お嬢様の隣で。
それは、疑いようがない。
……だが。
その先で、貴族という立場が必要になる日が来るとしたら。
レオには、本来の名前がある。
クラウゼン子爵家の次男——レオナルド・クラウゼン。
私が連れ出したことで、その立場は宙に浮いたままだ。
「やはり……一度、叔父上に会うべきか」
思わず、独り言が漏れた。
だが同時に、強い拒絶が込み上げる。
会いたくない。
——いや、違う。
会って、真実を知るのが怖い。
父と母の死を、私はずっと「事故」だと信じてきた。
馬車の事故。不運な出来事。
オンタリオに来て間もない頃、貯めた給金で情報ギルドに調査を依頼したこともある。返ってきた答えは「間違いなく事故だった」というものだった。
だからこそ、あの言葉も——
ただの身勝手な本音だと、自分に言い聞かせてきた。
だが。
もし、あれが事故ではなかったとしたら。
あの言葉の裏に、別の真実があるとしたら——。
調べ直すべきなのか。
あるいは、直接問いただすべきなのか。
だが、それをしてしまえば——もう後戻りはできない。
オンタリオでの今の暮らしも。
オスカーやアデルとの関係も。
そして——レオのこれからも。
すべてが、変わってしまうかもしれない。
ランプが、ジジッと音を立てて揺れた。
私は大きく息を一つ吐き出すと、思考を断ち切るように、手紙を引き出しへしまい込んだ。
——今は、考えるな。
アデルへの返事は、探索から戻ってからでいい。
明日は出発だ。
今は、目の前の任務に集中する。
今回同行できなかったお嬢様たちの分まで、岩塩窟を探す。
手がかりを掴み、隊を無事に連れ帰る——それだけを考えればいい。
ふと、視線を窓の外に向けると、少し白み始めた空が目に映った。
夜明けまで、まだ時間はある。
……少しでも眠っておかなければ。
私はランプを消し、寝台に身を横たえ、そっと目を閉じた。
ヒロ、早く寝て!




