第61話:閉ざされた扉
「早速ですが、引き継ぎを始めましょう」
翌朝、ヒロの声が応接室に静かに響いた。朝食後にヒロによる引き継ぎが行われると聞き、私もルナと共にそっとその場に加わった。
とはいえ、セシルへ引き継がれるのは主に護衛任務だ。アーサーの大まかなスケジュールと行動範囲、それからいくつかの禁止事項を共有すれば、内容としてはそれほど多くはない。
「殿下は早朝六時に起床されます。八時の朝食までの時間は、お嬢様と自主訓練を行っております」
ヒロはいつも通り、無駄のない口調で淡々と説明を続ける。
「朝食後、午前中は座学です。現在は王宮より講師を招き、マナー、法律、政治について学ばれています。この間は扉前での護衛をお願いします」
「承知した」
短く、しかし力強い返答。セシルの声には、すでにやる気が満ちている。
「昼食後は、剣術、体術、および魔法の訓練となります。こちらは状況に応じて、共に参加していただいて構いません」
「剣術に体術か! それは楽しみだ!」
ぱっと顔を輝かせるセシルに、思わずこちらもつられて口元が緩む。
私はそこで軽く手を挙げた。
「はい! お祖父様が出発までの間、時間のある日は午後の訓練を見てくださるそうです」
「本当ですか!?」
セシルの目が一段と輝く。
「はい。十日後には探索に出発しますので、本日から一週間ほどはラオウ様も比較的お時間が取れると聞いています」
ヒロが補足すると、セシルは勢いよく立ち上がった。
「うおおおっ!!」
突然の雄叫びに、私とアーサーは思わず肩をびくり震わせた。
——ああ、うん。やっぱりこうなるよね。
しかしヒロは、ほんのわずかに視線を上げ「……コホン」と小さく咳払いを一つしただけだった。
それだけで場の空気を整え、何事もなかったかのように話を続ける。
「我々が探索に出た後は、アーサー殿下もご一緒に、オンタリオ騎士団の訓練を見学していただきます。一部の訓練については参加も許可されています」
「ありがとうございます! 楽しみにしています!!」
セシルはぐっと拳を握り、小さくガッツポーズを取る。
その隣で、アーサーも「騎士団の訓練!」と、嬉しそうに拳を握りしめていた。
その様子を見て、ヒロはほんのわずかに目を細める。
——けれど、その表情はやはりどこか暗い影を秘めていて。
喜ばしいはずの光景を前にしているのに、どこか一歩引いたような、そんな違和感が残った。
「では、午後からの訓練に備え、午前の座学に集中なさってください」
簡潔にそう締めくくると、ヒロは一礼し、セシルに護衛を頼むと「準備がありますので、お先に失礼します」と足早に部屋を後にした。
背後では、さっそくラオウとの訓練の話題で盛り上がる二人の声が響いている。
弾むようなその声を背に、私はルナと顔を見合わせ、小さく頷いた。
「ヒロ! 待って!」
廊下に出てすぐ、私はその背中を追いかけた。
ヒロは驚いたように足を止め、振り返るとすぐにこちらへ歩み寄ってくる。
「どうされましたか、お嬢様」
いつも通りの穏やかな笑顔。
けれどやはり、その奥にわずかな翳りが見える。
「ねえ、ヒロ。少しだけ時間、もらえる?」
そう言って近くの空き部屋へと視線を向けると、ヒロは一瞬だけ迷うような素振りを見せたが、すぐに頷いた。
「……かしこまりました」
部屋に入り、扉が閉まると、外の賑やかな声が遠のく。
静かな空間の中で、私はまっすぐヒロを見た。
「最近、少し元気がないみたいだけど……何かあった?」
その言葉に、ヒロの肩がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。
本当に、見逃してしまいそうなほどのわずかな反応。
けれど次の瞬間には、いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
「いえ、特に何も。……そうですね、強いて言えば、探索中にお嬢様とアーサー様が無茶をなされないか、それが少し心配です」
柔らかな声音。
けれど、どこかよそ行きのようにも感じる。
「ヒロ」
私は一歩、距離を詰めた。
「そんな言い方で誤魔化されると思ってる?」
少しだけ、語気を強め、ヒロの深い茶色の瞳をじっと覗き込んだ。
「……」
少しだけ、ヒロの瞳が揺れる。けれど、やっぱり何も言わない。
ただ静かに、顔を逸らし、私から一歩遠ざかった。
「……でもね」
反射的に逃げようとするヒロと距離を置き、私はそこで、わざと力を抜いた。
「無理に聞き出したいわけじゃないの。だから、今日はこれ以上は聞かない」
ヒロの肩が、ほんの少しだけ緩む。
「でも——」
私は続ける。
「本当に何か困ったことがあるなら、誰でもいいから頼ってほしい。私でも、お父様でも、お祖父様でも。……アーサーも、心配してたよ」
「……っ」
小さく息を詰まらせたヒロが、一瞬だけ目を閉じ、深く頭を下げた。
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
そして、顔を上げる。
「ですが、本当に何でもありませんので。どうか、お気になさらないでください」
その言葉は丁寧で、誠実で——けれど、それ以上踏み込ませないという、はっきりとした意思を感じさせた。
私は何も言えず、その場に立ち尽くした。
「……失礼いたします」
ヒロは一礼し、そのまま部屋を出ていく。
閉じられた扉の向こうへと消えていく背中を、ただ見送ることしかできなかった。
「お嬢様……」
隣でルナが、心配そうに声をかけてくる。
「話す気は、なさそうですね」
「……そうだね」
私は小さく息を吐いた。
「今はまだ、無理に踏み込むべきじゃないかもしれない」
探索隊の準備もある。
それに——ヒロ自身が、まだ話す覚悟を決めていない。
「もう少し様子を見よう。探索から戻ってきたら……その時、もう一度聞いてみる」
「かしこまりました」
ルナは静かに頷いてくれた。
けれど、胸の奥に残った違和感は、消えることなく、私の中でじわりと広がり続けていた。
アーサーとセシルは、ラオウ様の訓練やオンタリオ騎士団の訓練への参加を許され、喜びを爆発させます。
その一方で、どこか翳りを帯びたままのヒロ——ハルカの心配は募るものの、本人はまだ話す気がないようです。
次回は、ラオウ様による訓練の様子をお届けします。




