第57話:ヒルベルト・クラウゼン
第14話『ヒロの帰還』ではハルカ視点でヒロとの出会いを描きましたが、今回はその裏側となる出来事を、ヒロ視点からお届けしています。
「部屋の中には機密情報もある。申し訳ないが、侍従殿は外で待っていてくれ」
レイノルド殿下の執務室に到着すると、殿下直々に待機の指示が下された。
私はアーサー殿下へ目で確認を取り、その言葉に従って扉の外に控える。
扉の前には殿下の護衛が二名控えている。私はその邪魔にならぬ位置に身を置き、静かに佇んだ。
中で何が話されているのかは分からない。ただ、扉に背を向けて廊下に立ち、行き交う人々の足音や視線をやり過ごしながら、呼ばれるのを待つ。
意識の一部を扉へ向けつつも、頭の中ではこの後の段取りや探索隊の準備について思考を巡らせていた。執事見習いとなって以降、常に先々を見越して動くことが、すっかり癖になっているらしい。
時間は有限だ。旦那様やアーサー様にご不便をおかけするわけにはいかない。
そんなふうに考えを巡らせていた、そのときだった。
扉の前を通り過ぎた文官らしき一団のうちの一人が、ふと足を止め、こちらを振り返る。
「——ヒルベルト?」
聞き慣れない名前——いや、違う。
久しく、呼ばれていなかった名前だった。
「ヒルベルトじゃないか!?」
驚いて足を止める同行者たちに「先に行っててくれ」と声をかけ、早足でこちらへ向かってくる栗色の髪に、見覚えのある目元をした青年の姿があった。
「……」
「俺だよ!オスカーだよ!」
オスカー。
その名前を頭の中で繰り返してから、私はようやく声を出した。
「……オスカー?」
「やっぱりヒルベルトだ!良かった、生きてたんだ!」
オスカーが駆け寄ってきた。その顔には、屈託のない喜びが溢れていた。ためらいも、遠慮も、計算も、何もない。ただ純粋な再会の喜びだった。
「声が大きい」
思わず低く言葉が漏れた。隣に佇む護衛たちの視線が痛い。
「ここは王宮の廊下だ。殿下の執務室の前でもある」
「あ、すまない」
オスカーは一段声を落とし、護衛から少し離れたところへ私を引っ張り出した。少しだけ気まずそうな顔を見せてはいるものの、記憶の中と同じ屈託のない明るさで、気安く話を続けてくる。
「妹も・・・アデルも心配してたんだ。元気そうで本当に良かった。レオナルドも一緒なのか?」
「……今日は来ていない」
「そうか。近いうちに会えるかな。なあ、やっぱり去年の訓練場でローゼンベルク伯爵令息と模擬戦をしていたのはヒルベルトだったんだろう?あの時見かけて以降、ずっとそうじゃないかと思って調べていたんだ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「調べていた?」
「ああ。父上もいろいろな伝手を使って調べてくれていて——」
「叔父上も、ご存じなのか」
「もちろんだとも。ヒルベルト、どうして今まで連絡してきてくれなかったんだ?俺が学院に行っている間にいなくなっていて、知った時は本当に驚いたんだぞ。アデルも母上と親戚のところへ行っていて留守だったし、あの時は家中が大騒ぎで——」
オスカーの言葉が続いている。
私はそれを聞きながら、胸の奥に何かが静かに沈んでいくのを感じていた。
叔父上も、ご存じ。
その一言だけが、頭の中に響いていた。
「積もる話もあるが、今は仕事に戻らなくてはならん」
オスカーが少し残念そうに言う。
「俺は今、ここで文官として働いている。アデルも会いたがっている。一度屋敷に来ないか?」
「今日はアーサー殿下に従ってこちらへ伺っているだけで、領に戻ってからもしばらくは出張の予定がある。せっかくだが、しばらくは難しい」
「そうか……なら、オンタリオに手紙を出すよ」
オスカーがまっすぐに私を見た。
「なあ、ヒルベルト。俺は今でも、家督はお前が継ぐべきだと思っている。その話もしたいんだ。それから、レオナルドのことも——今の立場はどうなっているんだ?貴族としての教育は受けているのか?将来はどうするつもりなんだ?それも含めて、ちゃんと話し合おう、ヒルベルト」
言いたいことを全部言い終えると、オスカーは「また連絡する」と言い残して足早に廊下を去っていった。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、私はただぼんやりとその背中を見送っていた。
今更、何を。
その言葉が口から出かかって、しかし声にはならなかった。
オスカーは悪い人間ではない。あの無邪気な笑顔が作り物でないことは分かっている。私が生きていたことを、心の底から良かったと思ってくれている。
だからこそ、どうしたらいいのか分からなくなる。
——叔父上も知っている。今はただ、その事実だけが、重く心の底に沈んでいた。
◇◇◇
私の生家であるクラウゼン子爵家は、代々王領監査に関わる実務の家だった。法と書類と手続きを重んじ、政治的な駆け引きを好まず、地道に積み上げる誠実さを美徳とする家風。父はその典型のような人で、母も学識ある穏やかな貴族令嬢だった。
私が十歳になる年の秋、父と母が外出先で馬車の事故に遭った。
知らせを受けた時、弟のレオナルドはたったの三歳だった。何が起きているのか理解できず、両親の姿が見えないと泣きながら屋敷中を探し回るような年齢だった。
間もなく、叔父のヴァルターが一家を連れて屋敷にやってきた。
最初は「家を守るため」という名目だった。家督の届出を済ませ、『クラウゼン子爵』の印璽を手にした叔父は、私に「これは一時的なものだ。お前が成人したら家督を返す」と言った。レオナルドには「情緒が不安定だから、遠縁の農場で静養させよう」とも言った。
『遠縁の農場』その言葉の響きが、妙に引っかかった。
叔母は私たちを特に気にかけることもなく、かといって虐げるでもなく、ただ自分には関係ない存在として距離をとっていた。オスカーとアデルは従兄弟として私たちに好意的だったけれど、当時の彼らはまだ子供で、与えられた情報と環境を鵜呑みにしているだけだった。
一人、また一人と、昔からの使用人が辞めていき、気づいた時には、屋敷の中で私の味方は誰もいなくなっていた。
それでも、まだ叔父の言葉を信じ、ここで頑張ろうと思っていた。
転機となったのは、偶然耳にしてしまった叔父の言葉だった。
書斎の扉の向こうから、誰かと話す声が聞こえてきた。
兄上は運が良かっただけだ。……本来、家督を継ぐべきだったのは私の方だというのに。たまたま先に生まれただけで、自分の方が頭も良く、あらゆる面で優れているというのに——理不尽なことだと、叔父は語っていた。
「遅くはなったが、やっと俺にも運が巡ってきた。うるさい親戚連中や使用人も遠ざけた。あとは、ほとぼりが覚めた頃——あの子たちの“処遇”を決めれば、それで終わりだ」
くぐもった笑い声まで聞こえてきた。
その瞬間、かつて叔父が口にした言葉が脳裏によみがえる。
——『レオナルドは情緒が不安定だから、遠縁の農場で静養させよう』
ここにいてはいけない。
このままでは、レオナルドと引き離される——いや、最悪の場合、消される。
一刻も早く逃げなければ。弟を連れて。ここにいては、だめだ。
考える時間はなかった。迷っている余裕もない。
その夜のうちに、持てるだけの財貨をかき集め、眠っていたレオナルドを抱き上げて屋敷を飛び出した。
——その後のことは、あまり思い出したくない。
世間知らずの十歳の子供が、三歳の幼児を連れて生きていけるほど、世の中は甘くなかった。
王都を彷徨ううち、持ち出した金はあっという間に尽き、宝石も途中で盗まれた。
親切を装って近づいてきた大人に攫われそうになったこともある。
わずかに持ち出した着替えや、父母の形見も、逃げる途中で失ってしまった。
食べ物は底をつき、雨の夜には体が冷える。
レオナルドが高熱を出しても医者にかかることもできず、体を休める場所すらなかった。
気力も体力も尽き果て、しゃがみ込むと、それ以上一歩も動けなくなった。
人目につかない路地裏で、弱っていく弟を両腕で抱きしめながら———このまま、きっと死ぬのだと、どこか他人事のように思った。
誰かに助けてほしかった。
「大丈夫だよ」と抱きしめてほしかった。
父上と母上に会いたかった。
幸せだった、あの頃に戻りたかった。
寒くて、眠くて、怖くて。
……レオナルドの、熱すぎるほどの体温に縋りつくことしか、もう私にはできなかった。
——そのとき、声をかけてきた人がいた。
小さな女の子だった。私より年下のはずなのに、ためらいもなく目の前に立って「大丈夫、怖がらないで」と言って手を差し伸べてくれた。
——ハルカお嬢様だった。
あの時の慈愛に満ちた澄んだ瞳を、私は今でも忘れられない。
昔見た本に描かれていた天使は、きっとこんな瞳をしているんだろうな、とぼんやりと思った。
天使の瞳は、光を受けて金色にも見える、きれいな琥珀色をしていた。
◇◇◇
お嬢様に拾われてから、どれほどの年月が経っただろう。
タイロン様に引き取られ、オンタリオの屋敷で暮らし始めたばかりの頃は、ここにいれば、いつか叔父上に見つかってしまうのではないか——そんな不安が、常につきまとっていた。
何度か逃げ出そうとして、そのたびに保護された。
そんなある日、お嬢様が言った。
「逃げたいなら逃げていいよ。でもレオは置いていって」
——弟を置いていけるはずがなかった。
唯一残った家族と生きるために、すべてを捨ててきたのだから。
その一言で、腹が決まった。
この場所で、レオと共に生きる。
そうして日々を懸命に過ごすうちに、気がつけば——オンタリオ家の皆様の中に混じり、
私もレオも、いつの間にか笑顔の絶えない日々を送るようになっていた。
かつての家を出て、レオと二人で王都を彷徨っていた頃は、いつも両親と笑い合った日々に戻りたいと願っていた。
ここには両親はいない。けれど——自分たち兄弟を「家族」と呼んでくれる、お嬢様とアーサー様、ラオウ様やタイロン様をはじめとする人々がいる。
——今の自分にとって、オンタリオこそが帰る場所だ。
その想いは、揺らがない。
ただ——。
弟のことを考えると、胸の奥に小さな小石が残るような感覚がある。
レオは今、修行の地で腕を磨いている。
「自分の力で立ちたい」と言って出ていった、あの日のことを思い出す。
頼もしかった。誇らしかった。
そして——ほんの少しだけ、申し訳なかった。
貴族の家に生まれながら、名前を捨て、身分を持たずに生きる道。
それは私が選んだものであって、レオ自身の意志ではない。
あの時は、それが生き延びるための唯一の道だと思っていた。
けれど、それが本当に正しかったのか——今でも答えは出ていない。
レオのお嬢様への想いを、私は知っている。
あいつが何を考えているのかも、おおよそはわかる。
そして、その想いがどこへ向かうのかも——。
だとすれば。
レオには、貴族という立場が必要になる日が来るかもしれない。
オスカーの言葉が、頭の中で繰り返される。
——家督の話もしたいんだ。それも含めて、ちゃんと話し合おう。
私は、オンタリオ家に生涯を捧げると決めている。その気持ちに嘘はない。
だが、レオにはレオの意志も希望もあるのではないか——。
「待たせたな、ヒロ」
タイロン様の声に思考が途切れた。顔を上げると、タイロン様が隣の護衛に声をかけ、アーサー様を呼び出しているところだった。
「いえ、問題ありません」
何事もなかったように、表情と声のトーンを整える。いつも通りの作業。
ただ、胸の中は整えられないまま、ぐちゃぐちゃな気持ちを抱えて帰路に着いた。
馬車の中で、アーサー様とタイロン様が言葉を交わしていた。私はそんな二人の声を遠くに聞きながら、再び思考の海に溺れ始める。
オスカーに手紙を出すと言われた。
きっと近いうちに本当に届くだろう。あいつは変に真面目で義理堅いところがあるから。
その時、私は何と返せばいいのか。
——答えは、まだ出せずにいた。
悩めるヒロ。レオが近くにいれば、話すこともできるのですが、まだレオは帰ってきません。




