第91話:義理の姉
アーサー視点のお話です。
「夏休みが楽しみだな」
クラウゼン邸からの帰り道、目の前に座るフェリックスが無邪気な笑顔で語りかける。
「フェリックスが楽しみなのは、ラオウ様との稽古でしょ」
「もちろんそれもあるけどさ。兄貴がオンタリオへ行くたび、『あれが美味かった』『これが絶品だった』って自慢してくるから、ハルカ嬢の料理にも興味津々なんだよ」
そう言って、フェリックスが楽しそうに笑った。
俺は曖昧に相槌を返しながら、頭ではさっき見た光景を思い出していた。
……手、繋いでたよな。
あの時、肖像画の前で。声を掛けた瞬間離してたけど、見間違いじゃない……よな?
なんか、胸がモヤモヤする。
あんなふうに、自然に手を握れるくらい、レオはハルカにとって近い存在なんだ。
ヒロもハルカからたくさん褒めてもらってたし、そう言えば俺だけハルカとゆっくり話せていない気がする……。
「……アーサー?聞いてるか?」
フェリックスの声で我に返る。
「あ、ごめん。ボーッとしてた。何だった?」
「……いや、大したことじゃないからいいけど、何か気になることでもあったか?」
フェリックスが心配そうに顔を覗き込む。
「何でもない。ちょっと、疲れが出ただけだよ」
そう言って、窓の外に視線を向けた。
◇◇◇
翌日。
学院から戻った俺は、政務の続きを進めるため、資料を探しに図書室へと足を運んだ。
最近では、書類の仕分けだけでなく、一部の政務も兄上から任されるようになってきている。
やりがいを感じる一方で、その責任の重さや周囲から寄せられる期待も、日に日に増しているように感じていた。
「確か、この辺りに資料があったはずなんだけど……」
俺は過去の地域別雨量の推移をまとめた資料を片手に、治水工事に関する文献を探して書架の奥へと進む。
「あら?」
聞き覚えのある明るい声に足を止めて振り返ると、ソフィア様が本を手に立っていた。
「ソフィア様も探し物ですか?」
軽く挨拶を交わし、自然と並んで書架の間を歩く。
途中、俺は目的の資料を見つけて手に取り、ソフィア様もお目当ての本を見つけられたようで、満足そうに微笑んだ。
「そういえば、先日のお茶会は楽しかったですわね。またぜひ、ハルカ様とご一緒したいですわ」
図書室を出ようとしたところで、ソフィア様が先日のお茶会の話題を口にした。
——ハルカ。
その名前を耳にした瞬間、思わず視線が揺れた。
「どうかされました?」
心配そうな声が降ってきた。
「何でもありません」と答えようとしたのに、喉が詰まり、言葉にならない。
思わず視線を落とすと、小さなため息が漏れた。
そんな俺をしばらく静かに見つめていたソフィア様は、小さく息をついてから、そっと俺の顔を覗き込む。
「ねえ、アーサー様。もしよろしければ、お散歩につきあっていただけませんか?」
そう言うと、手にしていた本を侍女へ預け、微笑みを浮かべながら図書室の外へと歩き出した。
「どちらに向かうんですか?」
「そうですね、せっかくですのでバラ園はいかがですか?咲き終わりも近いので、最後にもう一度見ておきたいと思っていましたの」
俺はコクリと頷き、ソフィア様の後を追った。
後ろから慌てた様子で侍女とフェリックスも付いてくる。
ソフィア様は振り返ると、二人に話が聞こえない位置まで少し距離を置くように伝えた。
「さあ、これで内緒話ができますよ」
イタズラっぽく微笑むソフィア様。
——こんな顔もなさるんだ。
俺は不思議な気持ちで、ソフィア様を見つめた。
「昨日、クラウゼン邸から戻られてから、少し元気がないご様子ですね。夕食の時も何度かため息をついていらっしゃいましたし」
レイノルド様が心配なさっていましたよ、とソフィア様はゆっくり歩きながら小さな声で教えてくれた。
……兄上にまで心配をかけてしまっていたのか。
そう思うと、胸の奥がずしりと重くなり、ますます気持ちが沈んでいく。
「ねえ、アーサー様。よろしければ、お話ししてみませんか?」
「え?」
「誰かに聞いてもらうだけで、気持ちが軽くなることもありますわ。私はアーサー様のことも、ハルカ様のことも存じていますけれど、お二人の事情を詳しく知っているわけではありません。だからこそ、聞き役にはちょうど良いと思うのです」
そう言って、ソフィア様は優しく微笑んだ。
その包み込むような笑顔に、不思議と肩の力が抜けていく。
でも——。
「もちろん、お聞きしたことは秘密にいたしますわ。レイノルド様にも、私の兄にも、ね」
茶目っ気たっぷりにそう述べた時、バラ園に到着した。
まだ大輪の花を咲かせてる品種の前、ちょうど置かれたベンチへ座るよう促される。
戸惑いながら腰を下ろすと、ソフィア様も静かに隣へ座った。
「先日のお茶会でも思いましたが、ハルカ様は、本当に誰にでも分け隔てなく接することがおできになる方なのですね」
話の意図が分からず、訝しげにソフィア様を見つめる。
すると、ソフィア様は穏やかに微笑んだ。
「とても公平で、お優しい方。人として、本当に魅力的な方だと思います」
真剣な眼差し。
「ですが、そのお優しさを恋だと勘違いしてしまう殿方は、これから増えていくでしょうね」
「……!」
一瞬、自分のことを言われたのかと思い、思わず息を呑んだ。
そんな俺を見て、ソフィア様はくすりと笑う。
「それは殿下にも言えることです。——デビュタントを終えたお二人は、もうそういう年頃なのですから」
これは忠告なのか、それとも助言なのか。
——どう受け止めるのべきか。
「……では、どうするのが最善だと、ソフィア様はお考えですか?」
縋るような気持ちで尋ねる。
「そうですね。貴族としての模範解答を申し上げるなら、早めに婚約者を決め、そのことを周囲へ示して牽制する——でしょうか。貴族の婚姻は、家門の利害を賭けた政略的なものがほとんどですから」
「……政略的なもの、ですか」
「ええ。オンタリオ家は現時点においてもアーサー様の後ろ盾となっています。そういう意味では、ご長女であるハルカ様を貴方様の婚約者と定められても、問題はないように思いますが」
「ですが、ハルカは辺境伯を継ぐと言っています。今の俺がオンタリオへ婿入りするなんて、周囲が許すはずがない」
胸につかえていた言葉が、ぽろりと零れ落ちた。
一度口にすると、もう止まらない。
「それに、そもそもハルカは俺のことを弟か仲間くらいにしか思っていません。最近は……レオの方が仲もいいし。レオなら、ハルカの婿養子として、条件的にも能力的にも申し分ない」
そこまで言って、俺ははっと口をつぐんだ。
……俺は、こんなことまで考えていたのか。
情けなさに、視線が自然と足元へ落ちた。
「……アーサー様は、ハルカ様のことがお好きなんですね」
ソフィア様が、そう小さく呟いた。
俺は躊躇いながらも、コクンと頷く。
ちょうどその時、風に揺れたバラの花びらが一枚、ふわりと俺の足元に舞い落ちた。
ほんの一瞬、俺は花びらへ視線を奪われる。
静寂の中、ソフィア様の穏やかな声が響いた。
「——では」
ゆっくりと、静かな声で、ソフィア様は続けた。
「アーサー様は、諦めるのですか?」
諦める?
ハルカを。
二人で、一緒に生きていく未来を。
——そんなこと、できるはずがない。
「いいえ」
気づけば、自分でも驚くほどはっきりと否定の言葉が口をついていた。
「諦めたくないです」
今度は視線を逸らさず、まっすぐソフィア様を見つめた。
初夏の風がバラの香りを運び、ソフィア様の淡い金髪をふわりと揺らした。
次の瞬間。
膝の上で固く握り締めていた俺の手を、ソフィア様がそっと両手で包み込んだ。
「ならば、方法を探しましょう」
「え……?」
「時間はかかるかもしれません。でも、方法はあります」
その穏やかな声に、胸が熱くなる。
「……ですが、先ほども言った通り、今の俺の立場では『婿に入るからハルカと婚約したい』なんて、とても言えません。父上や兄上は毎日政務に追われています。そんな中、自分だけ責任から逃げるようなことは……」
それでもソフィア様は少しも動じることなく、まっすぐ俺を見つめ返した。
「大丈夫です」
その一言は、不思議なくらい力強かった。
「絶対とは、今は申し上げられません。ですが、きっとお力になれます」
そう言って微笑む姿は、どこまでも穏やかで、それでいて揺るぎない。
「だから、私を信じて待っていてください。そして、その間に、ハルカ様のお気持ちを射止めてくださいませ」
少し悪戯っぽく笑って、さらに続ける。
「どれほど外堀を埋めても、肝心のハルカ様のお気持ちを置き去りにしては、誰も幸せにはなれませんもの」
胸につかえていたものが、すっと溶けていく。
目の前で微笑むソフィア様が、今までよりずっと大きな存在に見えた。
初めてお会いした時は、華奢で繊細なお人形のような方だと思っていた。
だが、それは俺の思い違いだった。
この方は未来の国母となるに相応しい、優しさと強さを兼ね備えた女性だった。
「ありがとうございます」
自然と、敬意と感謝の言葉がこぼれた。
「これからは、いつでも気軽にご相談くださいね。だって私たちは『義姉弟』になるのですから」
ソフィア様が微笑む。
——そうか。
俺に、姉ができるのか。
その言葉を意識した瞬間、急に気恥ずかしさが込み上げ、胸がどくどくと高鳴り始める。
「……義姉上」
小さくそう呼んでみると、その響きは不思議なくらいしっくりと耳に馴染んだ。
——ミランダ様以外で、初めて身近に感じることのできた年上の女性。
——兄上の婚約者であり、これから俺の義姉となる人。
俺の呼びかけに、ソフィア様は一瞬だけ目を丸くし、やがて花がほころぶように笑った。
次回からは夏休み編。久しぶりに物語の舞台はオンタリオへ戻ります。
*おまけ*
ソフィア:「お兄様。弟って、とてもかわいいものですわね」
エドウィン:「……お前は末っ子だろう」
ソフィア:「ふふ。今日、できましたの」
エドウィン:「?」
ソフィア:「アーサー殿下が『義姉上』と呼んでくださったのです」
エドウィン:「……そうか」
ソフィア:「頬を染めながら恥ずかしそうに『義姉上』と呼んでくださった、あのお姿……。私、今すぐ絵師を呼んで、永遠に残しておきたいくらいですわ!」
エドウィン:「…………。」




