二十ノ怪
「せめて鬼様のお相手はきちんと果たして下さいませ。お辛いのでしたら以前申した通り、鬼様の雀になって下さい」
鬼さんの、雀? わたしに起きたことではなく、紅い鬼に飼われた雀に起きた事?
「人としてでの御姫さんではなく、鬼様の雀として。その時だけは貴女様ではなく、鬼様の雀なのです。起きた事は御姫さんではないのです。それで良いではありませんか」
わたしじゃなくて、別の誰かに起きた事……。わたしじゃない……。
「ではその忌々しい物騒なものを早くお仕舞いになって下さい。鬼様をお呼びして参ります」
「え?」
思わず涙でグチャグチャになった顔のままで顔を上げると、目の前に浮かぶ煙の塊が、頭上を通り過ぎようとしている所だった。
「それ迄にお顔を少しは整えて下さい。これ以上怠慢は許されませんよ。もう貴女様に甘い選択肢など無いのです」
「わたし……」
「貴女様が悪いのです! これ以上我が儘が通ると思わないで頂きたい!」
今までにない紫さんの怒鳴り声を聞いて、震えるまま言葉も涙も止まった。
ガタガタ震える手には暖かい気配の鞘に収まった木で出来た短剣。退魔の剣。強く握れば温かさが伝わって、鬼さんに移された鬼火が消えていく。
聞こえていた妖怪たちの、恨めしいざわめきも遠くなる。
「わたしが、悪い……」
呟いた時には紫さんの姿は無かった。
まだ震え続ける手で鏡台の引き出しを開けると、その中へ剣を入れて閉じる。
体も両手もまた震え続けている。それでもいやに頭は冷えていて、空っぽに近い感覚が頭にあった。
「わたしが、わたしが……雀に……」
口に手をやって、荒くなりそうな呼吸を押さえつける。
そして何度も紫さんの言葉を反芻する。
「違う、わたしは鈴音で、鬼の雀じゃなくて……鬼さんが求めているのは雀で……その時はわたしじゃなくて、鬼の雀で……」
わたしは鈴音。鬼さんに好き勝手されるのは別の誰か。わたしじゃない。だから、だから大丈夫。
今から何かが起きても、わたしは無事でいられる。不幸な事が起きるのは、わたしでもない、他人でもない、別の、誰か……。
ぐらりと意識が揺れた。目の前が歪んで見える。
背後から、急に抱き竦められた。首筋に息がかかる。
「お、お願いです……ふ、触れるだけ、に、して下さい……誰にも……知られないように……お願いです……」
背後から髪を撫でられて、耳をあま噛みされる。
体はやはり震え続けている。止まらない。
少し体を離されるとすぐに視界が回り、振り向かされた。
何も見えないまま口を塞がれた。
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気づけば貧血になりながら、息を乱していた。
ここは、籠の中だ。ずいぶん長いあいだ意識が離れていたような気がする。
さっき見ていた光景も同じ籠の中のはずなのに、なんだかまったく別の場所みたいに感じてしまうのは何故だろう。
不意に視線を感じた。
なんだか妙に危機感を抱かせるような嫌な視線。恐る恐る辺りを見回すと、すぐそばにある鏡台が目に入った。
鏡を見れば、髪を乱して冷めた目をした自分がこちらを恨めしげに見ていた。
それは鏡に映ったわたしじゃないと直感的に分かった。
息を乱したわたしとは反対に、鏡の中のわたしは、息をしていないんじゃないかというくらい微動だにせず静かだった。
「なぜ起きてしまったの?」
その瞳は梅は咲いていないのに、あの鬼によく似た闇を孕んでいた。 睨んでいるのにどこか切なく、湖面のような妖しい瞳。懐かしいとさえ思ってしまうその眼。
「あなたは……誰なの?」
口をついて出てしまった問いに、鏡のわたしは不機嫌に顔を歪ませた。その途端に鏡はくだけ、頬をかすった。
「痛っ!」
反射的に目を閉じて両腕で顔を庇う。鬼と過ごしていた時には感じなかった鋭い痛みに、今が現実なのだと今更思い知った。
腕を下げて鏡を見ると、鏡は粉々になり、鋭い切っ先が出来た破片が幾つも自分の衣服の上や周辺に散らばっていた。
破片で切らないよう慎重に立ち上がって、裾で手を保護しながら破片を静かに落とす。
そして破片を踏まないよう気をつけながらその場を離れた。
どうしてこうなんたんだっけ。……えっと……そうだ。確か退魔の剣を見つけて、引き出しが開かないから何か開ける為の道具を探そうとしたら、いきなり剣の光が目に入ってきて……。
ジッと引き出しを見ると、僅かだけれど柔らかな光が漏れているのが見える。とても目が焼けるほどの強い光とは思えない。
なぜわたしはあんなに眩しく感じたんだろう。それに、さっき見た光景……あれは、あの剣がわたしに見せたものなの?
あの記憶。あれは確かにわたしのものだ。ずっと、どうしてだか思い出せないでいた。
あのとき、最後鬼さんに抱き竦められて……それで……それで、どうなったんだっけ?
思い出そうとすると、奇妙なことに、部屋で目が覚めて鬼さんから湯呑を貰ったところに繋がってしまう。途中がない。断片すら思い出せない。
あぁもう、どうして思い出せないの?
頭を抱えながら柔らかな光を見つめる。
剣はわたしに思い出せと言っていたの? それともわたしが今どうなっているのか知りたいと望んだから、それを叶えようとしてくれただけ?
それならその先も教えて欲しい。今のままでは、謎が残るだけで……
素早く襖が開いた。
驚いてわたしもそちらへ顔を向ければ、そこには紅い鬼が立っていた。
「……お、に……さん……」
奥歯が鳴りそうになるのを噛み殺す。
暗がりには象牙色の二本の角を生やした鬼がいた。顔半分は朱色の模様が浮かんでいて、渦のように巻いている。
人のものではない紅い目が、まっすぐわたしを見て少し細まると、一歩部屋の中へ入ってきた。
「鈴音カ?」
「え?」
思わず、怖いと思っているのにこちらも額に眉を寄せてしまった。
「鈴音カ?」
また訊かれ、戸惑いつつもわたしはなんとか頷いてみせた。
「は、はい。わたしです」
何を言っているのだろう。わたしだと分からなかったの?
それとも別の誰かがわたしに化けていて、それを警戒している、とか?
混乱していると鬼さんが部屋に入り、後ろ手で襖を閉めた。
トン、という小さな音がわたしの中にある何かのスイッチを入れたのか、途端に両足がブルブルと震え始めた。
「鈴音なんだナ?」
頷きつつ、後退する。
先程よりも異様に緊張してきて、次第に心臓の音までもが大きくなっていく。
「どう、して、わたしだと、訊くんですか?」
不安が高まっていく。
どうしてだか、さっき見た光景と鬼さんが重なって見える。
「目が覚めているのカ、気になったンでナ」
訛りのある口調を久しぶりに耳にして、それを拭いたくて自分の耳に触れる。
そうするとあの時あま噛みされたのを思い出して、嫌悪感から強く耳を握った。
「わたしは……眠っていた、んですか?」
籠の出口が開いた。
中に鬼さんがゆっくりとした動作で入ってくる。
「わたしは鬼さんと……あの一軒家に、いたんじゃ、なかったんですか? あれは鬼さんが作った……幻か何かだったんですか? もしそうだとしたら、わたしは幻を見ている間、どうしていたんですか?」
また目に薄い膜が張られていくと、じんわりと熱を帯びて滲みた。
理由の分からなさからくる怖さと混乱で、わたしの頭の中はグチャグチャだった。
「わたしは籠の中で眠っていたままだったんですか? あの木漏れ日の下に一度も行っていなかったんですか? あの家は存在していなかったんですか? わたしはどうなっていたんですか?」
一気に捲し立て、嗚咽が溢れそうになった。
この場から逃げ出してしまいたい衝動と、何が起きているのか知りたい欲求が複雑に入り混じって、わたしの体中を震わせる。
「わたしのことを、鈴音か? と訊きましたよね? 鬼さんは、鬼さんからしたら、わたしは誰に見えたんですか?」
鬼さんの方を見上げようとしたけれど、鏡によって出来た傷が頬を流れる涙で痛み、思わず目を閉じてしまった。
「お前は俺の雀ダ」
頭に大きな手が添えられた。その瞬間、なにかが頭をよぎった。
ほんの一瞬なのに、わたしはよぎった何かを理解してもいないのに、全身に鳥肌が立ち、悲鳴を上げながら乱暴に添えられた手を払った。
「触らないで!」
両腕で自分を掻き抱きながら叫んだ。
物音一つせず部屋は静まり返っていた。ただ自分の心音と息遣いだけが、耳障りなくらいよく聞こえた。
「鈴音」
「触らないで……」
強く目を閉じると大粒の涙が落ちて、足の甲に当たった。
触られるのが嫌だった。鬼さんだから、というより誰かに触られるのが嫌だった。とにかく気持ち悪かった。自分が鬼さんを振り払った手すら嫌に思えた。
一体わたしはどうしてこうなんてしまったんだろう? なんで?
妖怪たちの憎悪に触れてしまったから? あれが切っ掛けでこんなふうになったんだろうか。
「お前は……ずっとココに居た」
おもむろに鬼さんは話し出す。
わたしは涙を拭い、鼻をすすりながら瞬きをした。
「ここに?」
「ソウダ。俺が紫に呼ばれて籠に戻ったあと、お前にマタ鬼火を移したンダ。……そしたらお前が酷く苦しそうにシタもんだから……」
ずっと待っていても返事がなかった。恐る恐る見上げると、無表情な顔をした鬼さんと目があった。
「したから……したから、なんです?」
枯れつつある声で先を促すと、沈黙が返ってきた。
二つの紅い目は、見下ろす鬼さんの暗い顔の中で不気味に光っていた。ギラギラしているようにも、虚ろげにも映っている。
「お前を眠らせタ。眠らせて意識をアノ陽の場所に連れてっタ」
「意識を? 意識だけをあの家に?」
「あぁソウダ。身体は籠の中に置いた」
「……そ、それじゃあ、わたしは、あの家にいる間、体の方はひたすら籠の中で眠り続けていたんですか?」
鬼さんは答えなかった。
陰りのある顔は見えにくいが無表情に見える。ただその口は強く結んでもいないのに、開く気配は見えない。
「どうして、黙っているんです?」
黙り続ける鬼さんに問いかける。そして、何かを考える前に自分の口が動いた。
「眠ってる間、わたしの体に何かしたんですか?」
途切れがちだった言葉はその時だけはすんなりと出てきて、頭はどこか冷え切っており、言ったあとは何も出来ずに固まっていた。
物音一つせず静まり返る部屋。
遠くから聞こえていた長唄や軽快な音楽、ヒソヒソとした声すら聞こえない。
もしくは、わたしが鬼さんに集中しすぎているから、耳が拾っていないだけなのかもしれないが。
「鬼さん……」
訴えるように声をかけたが、返事がなかった。
ただそれが肯定のように思えて、わたしは勢いよく立ち上がると鬼さんの着物の袖を掴んだ。
「何をしたんです!?」
金切り声で叫んで強く袖を揺すると、妖しい紅が少しだけ苦々しげに細まった。
「聞いてドウする」
「どうもこうも、自分の身に何があったのか知りたいに決まっているじゃないですか!」
これは半分は嘘だ。半ば知りたくないと恐怖する自分もいるのだが、今は勢いのまま突き動かされている自分のほうが、行動の主導権を握っていた。
「俺は気が進まン」
「そんなのどうでも良いです!」
「鈴音少し落ち着け」
「いいえ話して下さい! 聞かせて下さい!」
鬼さんは舌打ちすると静かに腕を払って、わたしが握り締めていた袖を放させた。
強引なものではなかったのに、不思議と強く握っていた手から、肌触りの良い布の感触が滑って逃げていった。
「お前の意識をアノ場所に連れて行ったのは……お前が……気が狂れたからダ」
「気が?」
「俺にもよく分からンが……お前は確かに俺を受け入れタ。だが何故か、お前の意識も確かにアノ場所にあった」
「意味が……よく、分からないんですけれど。結局……籠の中で眠っていたわたしに、何があったんですか? 籠の中では何が起きていたんです?」
妖しい紅が揺らめくと、一度目を下げたあと、わたしをまた見下ろした。
「お前が俺を慕ッテいると、そう言って肌を重ねてきタ」
「…………え?」
体が突然鉛のように重くなった。指先の感覚もなくなり、目眩も起きて血の気が引いた。
喉が急速に乾いて、喋ろうにも舌が張り付いて続かない。
身体はまさに全身が震えて、奥歯から頭から足から、とにかく全て震えていた。
「……それで……それで鬼さんは……」
やっと出た言葉に、鬼さんは表情を変えることなく端正な顔をわたしに向けると、おもむろに口を開いた。
「鈴音。俺がお前を喰わないと、鈴音は思うカ?」




