二十一ノ怪
鬼さんの問いにも、その先の話を聞くことは出来なかった。
膝から崩れ落ちて両手を畳の上に着くと、わたしは蹲り嗚咽を零しながら泣いた。
悔しい。悲しい。そして傷つき、絶望した。
様々な感情が心の中に吹き荒れて、真っ黒に塗り潰されていく。苦しくて胸を掻き毟ると、鎖骨に指先が当たった。
思い出す、首にあった無数の痣。薄い、赤い痣。
あれは鬼さんがわたしにつけた痕だったんだ。どうしてわたしは、こんな、こんな酷いことを忘れて今まで鬼さんと普通に話していたの?
あの時、どうして……
「鈴音」
足が畳を離れた音が聞こえて、わたしは短い悲鳴を上げ身を固くした。強く体を丸めて、自身を掻き抱いている腕は自分の爪が喰い込んでいた。
「お前は何も覚えていないのカ?」
上げた足をそのまま下ろしたのか、足音が近づく事はなかった。
わたしは体を無理やり小さくさせたからか、肺が圧迫され、泣いていたせいもあり呼吸困難になった。
何も言えず苦しい中、喘いで懲りもせず、身を震わせていた。
「アレは……普段のお前とは思えない程、妖しい瞳をしていタ。あれは確かにお前であって、お前じゃなかっタ」
何もかも理解出来なかった。したくなかった。
分かっているのは受け入れたくない現実だけだ。しかも自分が知らないうちに、という最悪な形で。
ああこれなら、これなら気がつかなければ良かった。
のほほんと呑気にあの縁側で座って、雑誌を読み耽り鬼さんから与えられた様々な物で、その日その日を過ごせば良かった。
それがどんなに廃退的で、怠惰なものであっても。
「鈴音は俺と目合うのは嫌カ?」
もう何も聞きたくない。見たくない。こんな現実いらない。
そう、そうだ。わたしは知らないんだもの。辛い現実を見てもなければ、知っている事も無い。
これはわたしの身に起きた事なんかじゃないんだ。
「ナァ鈴音」
わたしじゃない。わたしじゃない。紅い鬼に触れられたのは、わたしじゃないんだ。
「鈴音」
じゃあ誰なの?
わたしじゃないんだったら、他に誰が紅い鬼を受け入れた?
「鈴音」
「――鬼様」
自分の口から艶っぽい声が漏れた。
全く自分とは違う声では無いのだけれども、質が違う。いつか聞いた女郎蜘蛛たちの、あの花魁や遊女たちと同じような妖艶な声音。
「苛めないで下さいと、言ったじゃありませんか」
のそりと自分の体が動いた。
袖で滑らかに涙で塗れた顔を拭うと、はぁ、と気怠げに溜息を吐いた。
変な感じだった。
喋っているのはわたしなのに、なんだかワザとらしいと言うか、違和感があった。
戸惑うわたしをよそに、身体と口は勝手に動いて、まるで突然独り芝居でも始めたかのようにスラスラと話し出したのだ。
「あれだけ泣きました。そしてこれだけ泣きました」
乱れた髪をいつの間にか震えの止まった指が梳いていく。
わたしはこの状態を、まるでどこか慣れた様に、他人事みたいに内側から傍観していた。
「涙を流す雀は御嫌でしたか? 啼くだけが宜しかったですか? その逞しいお背中に腕を回しただけでは、ご満足頂けませんでしたか?」
突然の豹変ぶりに驚いたのか、動かなくなった鬼さんの顔に、わたしの腕が伸びる。
気づいたら視界が上がっていて、鬼の横顔に広がる朱色の模様に手を添えていた。
「血肉を貪る様に喰うのが御好きじゃありませんでしたか。それでは常闇の御姐さま方に倣って蕩けた方が宜しかったですか」
鬼さんに触れているはずなのに、感触が伝わって来ない。
自分の喉が声を発する度に震えているのに、何故だか実感が湧かない。
「鬼様とお呼びするのはお嫌ですか? 鬼さん、の方が良いですか? 紫さんから鬼様の雀をと言われていたものですから、畏まった言い方のほうが良いと思ったんです」
無表情な顔をした鬼さんが目を細めて、わたしの頬を撫でた。
「……鈴音カ?」
「わたしは紅い鬼の雀ですよ。お望み通りの、雀です」
口の端が少しだけ上がる。
まだ熱っぽい目元もほんの少し細まって視界が狭まった。
これは妖術か何かに掛かっているの?
鬼さんは気づいていない? でも鬼さんはまた「鈴音か?」と訊いて確認している。
わたしは知らない間に何かにとり憑かれて、わたしの意識が平屋にある時に、体が勝手に動いていたということ?
……でも、そうだとしてもおかしい。だってわたしの意識はきちんとあるし、目も覚めてる。
それになんというか、不思議な感じがあるのだ。
自分を動かしているのが、まったく他人ではないというような、変な感じが。
『こっち』
――え?
『こっちに来て』
意識だけが、本来振り返る事が出来ない背後へと振り向いた。
自分の顔が鬼の胸元に顔を埋めたのを最後に、わたしの景色は真っ暗な闇へと変貌した。
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『大丈夫?』
揺り動かされて、薄く目を開けた。
霞んだ視界にぽってりとした雀の顔が見えた。つぶらな黒い瞳が瞬きして、茶色いふわふわした毛が陽に照らされて少し赤みを帯びていた。
「ここは……」
ゆっくり身体を起こし、辺りを見渡す。
広い畳の部屋。白い障子に敷かれたままの布団。そして派手な雑誌に古いラジオ。
「ここはもしかして、あの平屋の」
鬼さんが作り出したと思っていた幻で出来た一軒家。あの時と変わらず、明るい日差しが部屋に差し込んで、白い障子も雪のように光って眩しい。
縁側の向こうに広がる緑も、瑞々しく木漏れ日が地面の上で優しく揺れている。
『ここなら怖い事は何もないから。ゆっくり過ごして』
雀の可愛らしい声に振り返り、彼女を見た。
首にあった毟られた跡は消えており、菊の花をあしらった紺色の着物を着てちょこんと行儀よく座っている。
「ここは幻とか、妖術で出来た家じゃなかったの? ここにはあなたが連れてきてくれたの?」
『この場所は……あなたが作り出した場所』
「え? わたしが?」
『あなたと、紅い鬼が作り出した場所』
鬼さんが作ったなら分かるけど、わたしが作ったなんて。大体そんな凄いこと、人間のわたしが出来るわけが無い。
訝しむわたしに、雀の子はそっと俯き、また目を何度か瞬きした。
『わたしは今から鬼様のお相手をしにいきます』
「え?」
『その為にもあなたはこの場所で過ごさないといけないの。正気を保つために』
「それはどういうことなの? あなたは、誰なの?」
詰め寄ると、丸い瞳が妖しく冷たいものへ変わる。
悲しいような恨めしいような。どこか寂しさを覚える瞳でわたしをまっすぐ見つめた。
『わたしはあなた。あなたなの』
「あなたが、わたし?」
ドッペルゲンガーとか、そういう物? 日本の妖怪にもそんなのがいるの?
詳しくはないから定かじゃないけれど、わたしの知っている限りそんな妖怪は知らない。よく河童や狐が人間をからかうのに相手に化けるというのは知っているけれど、それとは違うようだし。
「あなたは妖怪の仲間?」
『いいえ。あなたなの。それ以外の誰でも無い』
「えっとじゃあ、あなたがわたしって、どういう意味? もっと詳しく説明して」
前のめりになって食いつくと、雀の子は不安を浮かべて苦いものを噛み締めるように嘴を小さくカチカチと鳴らし、ちいさく頷いた。
『わたしはあの時、初めて表へ出たの。身体を動かし、声を発して、自分で行動した』
表へ出た? 表? 眉を寄せれば彼女は背筋を伸ばした。
雀の子が翼を広げると、茶色の羽と袖の大輪の菊が大きく翻る。
『あなたは耐えられなかった。鬼の雀として生きようとしても、出来なかった。心が砕けそうになった。せっかく生き抜ける手段を手にしても、対抗する道具を持っていても、正気を失えば終わってしまう』
柔らかな風が流れて茶色い産毛の様な雀の頭が揺れると、次第にそれが伸びて黒髪へと変わっていく。
『退魔の剣は妖の闇は払ってくれるけれど、心の憂いは消してはくれない。それにもう常闇の人間となってしまった鈴音は、いくら光を持った人間だからといっても、常闇で生きる者に変わりはない』
すべての頭の羽が黒髪に変わると、長く垂れて顔を隠す。
俯くと幽霊のように手元まで髪が垂れ下がり、明るい場所なのに不気味に映った。
『確かにあなたは退魔の剣を使って闇を遠ざけた。でも気づいたでしょう? 同時に痛みを覚えるのを』
「あ……」
彼女の言葉に思わず声が出た。何度目かの時から、闇が遠ざかるのと同時に苦しさも感じていた。あれがなんだったのか今まで分からなかったけれど、今の言葉からすれば、わたしは自分の中にある常闇の部分まで攻撃していたということになる。
それに鬼さんも言っていた。
わたしの灰梅が消えたからといって、常闇の根がわたしの中から消えるわけではないと。
『痛くて苦しかった。そして悲しかった。受け入れられないことに』
雀の子が袖で顔を隠しそのまま髪を撫でて腕を下ろすと、わたしの顔へと変わっていた。
『でも死にたくなかった。あなたの悲痛も分かっていた。あなたはわたしだから。だから……だから耐えられないあなたに代わって、わたしが引き受けることにしたの』
青白い顔。やや痩けた頬。細い腕に骨ばった指。そして生気のない表情。
それでも――わたしを見る妖しい瞳だけは、艶っぽく煌めいている。
『鬼様を受け入れなければ後がない。でも正気を失ってしまえば意味がない。それをあなたは理解していた。だから壊れそうになった。いくら覚悟を決めても耐えられなかったから』
また、一瞬何かを頭が掠めた。
背筋が凍るような、永い永い刹那の光景が。
『わたしは、わたし達を、あなたとわたしを助ける為に目覚めたの』
さわさわと外で草木が揺れる音がした。
少し冷たい風が部屋に入り込んで、この葉を数枚運んでくる。
やっと動けるようになったのは数分経ったか、あるいは数十分経ってからか。わたしはワナワナと震える手を両手で握りこんで、穴が開くほど、頰の痩けたわたしを見つめた。
「あ、あなたは、わたしがここに、ここにいる間、鬼さんの相手を?」
『えぇ』
「な、何度も?」
『えぇ』
「わたしとここで、会ったりしてたのは」
『えぇ、わたし』
頷きながら肯定すると、細い腕で耳に髪をかけると、息苦しそうに息を吐いた。
『何度かあなたが表へ出てきそうになって、わたしと混ざりそうになる事があったの。その度に狂いそうになって……。だからわたしがここへ戻ってきて、あなたとわたしの意識を引き剥がそうとしたの』
わたしはあまりの話の内容に言葉が出なかった。
彼女の話す通りに理解すれば良いだけの話なのだろうけれど、心がついていかなかった。
『こうなる前にも、何度かあなたへ意識を繋げた。元はひとつだもの。でもあなたは拒絶して、気づいてもすぐに忘れてしまった。もしくは悪い夢を見たとして、自分の心の声ではないと拒否した』
そう言うと、彼女の瞳から赤い涙が頬を伝った。
『鬼様との事は、いくら愛でられている間は我を忘れられても、終わればやはり辛くて悲しかった。でも何よりも、鈴音が雀を拒絶して、自分を無い事にしている事が……何よりも辛かった』
ぽたりと彼女の乾いた手の甲に赤い雫が落ちると、滲んで小さな丸い模様を描いた。それはまるで、梅のような形をしていて――
ハッとして顔を上げると同時に、彼女が立ち上がった。
『もう……行かないと……』
「待って!」
わたしも立ち上がって彼女を掴んだ。
掴んだ腕があまりにも細くて硬いものだから、一瞬折れてしまうのではないかとヒヤリとして力が緩む。
「だめ! 待って。行かないで!」
『行かなければ』
「でも!」
『じゃあ鈴音が鬼様のお相手をするの?』
情けないことに、わたしはその一言に言い返すこともできなければ、首を縦に振ることも出来なかった。
そんなわたしを見て、彼女は弱々しげに微笑むとそっと離れた。
『大丈夫。わたしは大丈夫。わたしは平気です。平気でなければいけないのです。まったく大丈夫です。なんともないんです』
ね? と小首を傾げて笑った。とても、切なげに笑ったのだ。
どうしてだかその話しぶりに既視感があった。少し前に聞いたことがあるような。
呆然とするわたしの真横を、彼女が風のように通り過ぎる。
「待って! 行かないで!」
伸ばした手の先にある木々の天井を、小さな雀の影が更に小さくなり消えていく。
わたしに残されたのは茶色い小さな羽が数枚、縁側の淵に落ちていただけだった。




