十九ノ怪
俯いた先には畳の網目と、不健康そうな蒼白い自分の足しか見えなかった。他にも色々視界の中にあったかもしれないが、今はそれを気にしている余裕がなかった。
「鈴音。お前がアレを持つのは、まあ一向に俺は構わン。ただ他の奴らが言うは兎も角。ドウ思うかは、よくよく考えたほうが利口カナ」
背後からの声に背筋が寒くなった。
鬼さんは分かっているんだ。たった今わたしの中に様々な妖怪たちの思念が入り込んだのを。
それを知った上で、あえて蔑んでわたしに言っているのだ。
「そりゃ~俺に不満云々をぶつける奴もいるガ。ま、あの魚よりは可愛いもんダ。お前の大層なご忠告どーり、手荒な真似もせんカナ」
気軽そうに言うも少なからず刺のある言い方だった。最後の方はどう贔屓目にみても嫌味なんだろう。
「それはっ……誰かが鬼さんに、わたしを殺せって直接言ってきたんですか?」
振り向かずに訊けば少し身じろいだ気配がしたあと、鬼さんが「あぁ」と呟いた。
「そんな事を言う奴もいたナァ。刺身にでもしてやれだとか、皮を剥いで宴に出シテくれだとカ。相も変わらず血の気の多いことダ」
「どうしてそんな」
「ドウシテか分からないのカナ?」
肩を掴まれ無理やり振り向かされた。止める間もなく両肩を押されると、背に格子が当たった。
「嘘つけ。分かってるクセに」
間近に二つの紅が迫り息が詰まる。
肩を強く掴まれているせいでつま先立ちになり、より息が苦しくなる。
「分かってるも、なにも……だって、あの剣は鬼さんが」
「アァそうダ。俺がお前にくれてやったカナ」
ニィと口の端が上がれば牙が覗く。
鬼さんの意図が読めない。持ってても良いとわたしに許可をくれたのに、まるで怒っているみたいだ。
今更どうして。やっぱり持たせるのが嫌になったのかな。
「俺の鬼火を移しても、ドウセ俺が離れれば消すつもりだったんダロウ? ダガどうせなら、もうちょいアイツ等の声を聞いてやってクレ」
「え?」
「なぁに……お前が火を消すマデだ……一瞬ダロ?」
また。まただ。また耳鳴りが遠くから聞こえてくる。
目の前の鬼の瞳を見ながら、耳だけが異様に神経を研ぎ澄まされていくのを、わたしはどうすることも出来ずに、顔を強ばらせた。
――何故まだ生きている? あんな物を手にして。我々を侮辱している輩が。万が一にあれを手に常闇を大手を振って歩かれては、弱き者は苦しむぞ。そうか、さてはそれが狙いか。
「違う」
――恐ろしい。早う首を撥ねて頂きたい。お側に置いておきたいのでしたら、四肢を繋ぐか切り落として頂きたいものだ。二度と勝手な真似など出来ぬように。
「やめて。わたしは」
――せっかく常闇に逃れてきたというのに。現世に加えてなんと恐ろしき物が鬼の屋敷になど。貪欲の鬼様はなんともないのか。急ぎ手を打ったほうが良いのではないか。あの人間が何をしでかすか、恐ろしくて恐ろしくて。
「何もしない。……何もしないから!」
――あの人間は我ら妖を、その恨みから殺しに掛かるに決まっている。でなければあの様な忌々しい物を持ち帰るはずがない。皆殺しにされる!
「そんな事しない!」
――鬼様に飼われているからと調子に乗りおって。目障りな! 死んでしまえ! お前なんぞ生きているからいけないのだ!
わんわんと最後に聞こえた声が耳に反響して消えていく。
呆然とすれば、掴まれていた肩が離されてズルリとその場にへたりこんだ。
「何か聴こえたカ? 俺は何も聞こえなかったがナ。……たった今は」
目を見開いて固まっていると、鬼さんがわたしの前に屈んで顔を寄せた。
「ドウシタ? 退魔ノ御剣で俺の鬼火を払うんじゃ無かったのカ? 俺は構わないゾ。消える度にお前に何度でも、鬼火を移してやるサ」
何度でも?
鬼さんへ目を向けると、二つの紅が妖しく煌めいた。深く笑んだ口元からはやっぱり鋭い牙が覗いていた。
「そら、立たせてやろうカ? 剣なら俺は触りたくないンでナ。自分で取りに行けば良いカナ」
「剣……退魔の……」
「鬼火を消すんダロ。直ぐにマタ燃えるものを懲りもせンで」
鬼火を払って、また着いて。そしてまた祓って、また憑いて……それを、ずっと繰り返す?
闇や憎悪を払い除けて、その度に鬼火を移され、鬼火によって闇が生まれ痣が出来て。そしてわたしはまた、妖怪たちの憎悪を自分の中に取り込む?
ううん。そんなのおかしい。祓ってすぐに常闇の痣が出来るなんて。少なくとも痣ができるのは常闇の闇が体に馴染み始めてからのはずだ。
「お、鬼さん。わたしはどうして他の妖怪たちの思念が分かるんですか? 常闇の痣ができるにしても、早すぎます」
いつだって起きたらすぐに支度をするのと同時に、退魔の光を浴びていたんだ。それなのに。
「そりゃお前、常に俺と暮らしているし、俺の鬼火が強いからに決まっているダロ。梅の花が枯れてもお前はもう常闇に生きる者に変わりはナイしナ」
「だってもう、目に灰梅の花がないのにですか?」
わたしは以前、鬼さんの妖気を浴び続けて灰梅が瞳に浮かんでいた。でも退魔の強い光を受けたせいか、その灰梅がなぜか消えてしまったのだ。
「わたしは前に比べて、闇から遠ざかったんじゃないんですか?」
「鈴音。花が咲かぬからといって、根が死んだワケでは無イ。お前の中には既に常闇の闇が根付いている」
「そ、そんな! わ、わたしそんなこと聞いてません! どうして教え」
「それに、ダ。アレだけ誰某から強く恨まれてりゃあ、痣が無くとも感じるものはあるダロウヨ。お前は常闇の人間なんだからナ」
遮ると共にキョロリと紅が動く。
「感じるもの……」
呟いて冷や汗が流れた。
……そう、か。そういう事なんだ。鬼さんはこうなるのを分かっていて、わたしに鬼火を移したんだ。
例え直ぐに消されるとしても、わたしに向けられる周辺の妖怪の憎悪が強いから、移す度に憎しみに塗れた感情を、わたしが無条件に取り込むことになる。
それを繰り返せば、わたしがいつか根を上げると思って消されるとわかっている鬼火を移すんだ。
「辛いカ鈴音」
「鬼さん……」
そっと頭を撫でられて顔を上げる。そうすると鬼さんが暗さを含んだ微笑みを浮かべて、紅い目を細めた。
「それならアノ剣を捨てれば良いカナ。アイツ等の前で叩き割ってやれば、お前に対する恨み辛みも多少は減るダロウ」
「叩き割るだなんて! そんなこと、出来ません」
「それじゃあ延々と恨まれ続けるんダナ。そのことに関して俺は知らン。お前がそれを承知で持ち続ければ良イ」
意地の悪い笑みを浮かべて尚もわたしの頭を撫でた。
わたしはそれを頭を振って嫌がると、強く鬼さんを見上げた。
「鬼さんがわたしに鬼火を移さなければ、良いだけの話じゃないんですか?」
「何故俺がやりたい事を止めねばならン?」
「それはだって」
「俺は退魔の剣をお前にやっタ。なぁ~ンも違えてないゾ」
「それは……そうですけれど。で、でも」
「ナァ鈴音。アレを俺に渡せ」
「え?」
いつになく真っ直ぐ真剣な顔つきになると、鬼さんはわたしの顎を掴んで顔を寄せてきた。
「お前が持つと周りの奴らがウルサイ。せめて俺が隠し持っている分にはそう文句も無いダロウ。あったとしてもお前に矛先は向かわないカナ」
「でも、そうしたら不安で」
「前からあんな物が無くとも、お前はナンダカンダで過ごしてこれた。これからだって、俺がいるんだ。なんも問題ないカナ」
退魔の剣を持っていれば闇は払い除けられる。
けれど辺りの妖怪たちの憎悪は増すばかり。しかも鬼さんに鬼火を移される度に、言葉だけではない、憎悪という感情そのものがわたしの中に直に入り込んでくる。
いくら剣で払い除けるといっても、いつか限界が来るかもしれない。そしたらわたしは……
「鈴音、退魔の剣を手放せ。お前がどうしてもというなら、大事に納めておく。以前のようにその瞳に灰梅を咲かせてまた酌をするなら、俺が守ってヤル」
顎を掴む手とは違う、片方の手が頬に添えられた。
「退魔ノ御剣を俺に渡すと言え。鈴音自らこの紅い鬼に渡すと。俺にあの短剣を渡すんダ。それだけで楽にナル」
わたしは俯いて奥歯を噛み締めると、首を左右に振った。
どうしても手放せない。あの村の女性たちと少年たちから貰った大事な形見でもあるんだ。
快く思ってもいない鬼さんに、他の妖怪に、渡すだなんて出来ない。
「……ソウカ。渡さンか」
強い力がわたしの肩を掴んで引っ張り上げる。そしてそのまま畳の上に押さえつけられた。
「なにを」
「退魔の剣を使えば闇や穢が払えるんダ。お前を多少味わっても、アレを使って綺麗サッパリ浄化してもらえば良い」
全身が瞬時に強張るのと同時に、鬼さんがわたしに覆い被さってきた。一瞬何が起こっているのか分からなかった。あまりにも突然だったから。
「鬼さん待って!」
どうしてこの流れでこんなことになるの。なんで?
首筋を牙と舌が何度も当たってなぞり、重苦しさと身の危険が全身を迸った。
何度も首や鎖骨を強く吸われて、わたしは痛みと嫌悪感から逃れようと我武者羅に暴れて、鬼さんの下から抜け出そうとした。
「何故抗う? 俺が触れても構わないダロ」
「い、嫌です! こんなの、こんなの嫌だ!」
「それならまた俺と勝負するカ? この間ので懲りたと思うガ。所詮ひ弱なお前が退魔の剣を手にしたって、俺には勝てン。あとお前が思っているほど、常闇には軟弱な妖ばかりいるわけじゃ無いカナ」
グイと顎を掴まれて紅と目が合う。
「騒いでいるバカはいるが、それよりも厄介な奴だっている。俺が鬼火を移せば俺のモノだとすぐ分かる。そうすりゃ大抵の奴なら噛み付いてきやしないカナ。……あんな物より俺の鬼火の方が安全だと思わないカ?」
「で、でも……それとこれとは」
「お前は俺の鬼火より退魔ノ剣がイイんダロウ? それなら俺のほうが良イと分からせてやろうと思ってナァ。……ソノ身体デ」
わたしは瞬時に動いた。
伸びてきた手を払い除け、絡みつく足を身を捩って抜け出した。そして逃すまいと鬼さんに腕を掴まれたまま、もう一方の手で鏡台の引き出しを掴み、中から退魔の剣を取り出した。
「もう、もう……止めて下さい……お願いです。止めて下さい」
ブルブル震える手で鬼さんにまだ鞘に収まったままの退魔の剣を向けた。
一方鬼さんは怯んだ様子もなく、わたしの腕を掴んだまま震えるわたしを見て、とても冷めたような表情を浮かばせていた。
「滑稽にしか見えないゾ鈴音」
「だ、だって……」
涙で視界が悪くなると、頬に雫が伝って落ちた。
どうして上手くいかないんだろう。わたしがしている事は悪い事なの?
ほかの妖怪たちを不安がらせ、恐怖を覚えさせ、鬼さんに呆れられ。鬼さんの望むことに応えられないことも、わたしが全ていけないのだろうか。
あの時、鬼さんと仲良くなれたと思ったのに。退魔の剣を持っていいと言ってくれた時、信用してくれたんだと、嬉しかったのに。
そう思ったのはわたし一人だけだったのか。鬼さんは結局わたしを信用してくれていなかったんだ。
「……もういい。失せたカナ」
構えたまま固まっているわたしに、溜息混じりに言葉を吐き出すと、鬼さんはわたしの腕を放して頭を掻きながら、こちらを見向きもせずに傍を通り過ぎた。
籠の格子戸と部屋の襖が閉まる音がした途端に、わたしはその場に座り込んで泣いた。
もう何がどうしてこんな事態になったのか、理解が追いつかない。どうして良いのかすら分からない。
「御姫さん」
上から声がした。
この落ち着いた声は紫さんだろう。わたしは顔を上げずにじっと止まらない涙を拭き続けた。
「何故拒まれたのです? 鬼様とて散々下々から、他の者から苦言を呈されていますのに。貴女様のせいで貪欲の鬼様が気分を悪くされているのですよ」
容赦のない紫さんの台詞に、また涙が溢れてきた。
反論すらできずにわたしはまた嗚咽を堪え、それでも出続ける涙を拭き続けた。
それでも紫さんの態度が軟化することはなかった。
ただただわたしを軽蔑し、苛立ちを隠すこともなく、冷たい視線を注ぎ続けたのだ。




