第九話 偽造印章の船
問題は、たいてい相手がこちらの準備を待ってくれないことだ。
その朝、外港の見張り台から早鐘が鳴った時、私はちょうど前日の雇用契約雛型を清書しているところだった。
庁舎がざわめき、トマスが顔色を変えて飛び込んでくる。
「入港船です! 西方籍の商船《オルドナ号》! でも、入港証に押されている封港解除印が変なんです!」
「変?」
「印章室の誰も、昨日そんな許可を出していないって」
私は席を立った。
偽造印章。最も単純で、そして最も厄介な不正のひとつだ。印そのものを偽るのは難しくても、古い印影を転写し、見栄えだけ整えれば素人目には分からない。忙しい港ならなおさらだ。
埠頭へ出ると、すでに大きな貨物船が岸壁へ寄せられていた。
船腹には西方商会の紋章。だが入港証の封蝋は妙に新しく、紙の端は不自然に乾いている。急ごしらえだ。
船長らしき男が、いかにも迷惑そうに両手を広げた。
「おいおい、北辺の役人はいつもこうなのか。うちは正式な解除印を持ってるぞ」
「見せてください」
私が書面を受け取ると、男は鼻で笑った。
「読めるのか、嬢ちゃん」
「ええ。あなたよりたぶん丁寧に」
周囲が少しざわつく。
船長の眉がつり上がったが、私は気にせず紙へ視線を落とした。
封港解除印は、一見すると本物に近い。
けれど誓約紋の中心が空洞だ。本物の公印は、押された瞬間に使用者の魔力が微細な核となって沈む。これはそれがない。形だけを写した空っぽの印だ。
「偽造です」
「はあ?」
「少なくとも正式な公印ではありません。いつ、どこで取得しましたか」
「王都を出る時に――」
「ではなぜ、王都式の刻字であるはずの外周文が、北辺旧式の略字になっているのです」
「なにを言って」
「偽物は、見慣れている人ほど雑に見えます」
私はその場で通関保留の札を切り、船倉検査命令書を起こした。
すると船長の顔が見る間に険しくなる。
「勝手な真似をするな! この船はゼグナー商会と契約している!」
「でしたらなおさら確認が必要ですね」
その名前が出た瞬間、周囲の役人の肩が強張った。
やはり、ゼグナー商会はこの港の空気そのものに根を張っている。
「待ちなさい」
背後から低い声が降る。
振り返れば、レオンハルト公爵が衛兵を率いて来ていた。今日は外港の検分だったらしい。
「船倉を開けろ」
公爵が言う。
「拒否するなら、偽造公印使用の疑いで船ごと押収する」
船長は露骨に狼狽した。
その表情だけで、かなり答えが出ている。
結局、甲板下の検査で見つかったのは、申告書にない薬草樽が二十七本、加工前の魔石箱が八箱、そして北辺では原則持ち込み禁止の濃縮酔毒まで三瓶。
しかもその多くに、荷主不明の仮印が使われていた。
「なんですか、これは」
私が問うと、船長は苦し紛れに叫ぶ。
「積み込み港の手違いだ! うちは運んだだけで」
「では、なぜ隠し底にしていたのです」
「……!」
隠し底は、申告し忘れではできない。
最初から誤魔化す気だった証拠だ。
検査が進むうち、トマスが一冊の小型台帳を見つけて持ってきた。
船内取引記録だ。そこには「G」「B」「白紙印二」など、妙な略記が並んでいる。
「B……ボイド?」
トマスが顔を引きつらせる。
私は首を振った。
「断定はまだです。でも、少なくとも内通者はいます」
船長はその場で拘束された。
周囲では荷役人夫たちが低くどよめき、見物人まで集まり始めている。
港では、目に見える取り締まりがそのまま噂になる。良くも悪くも。
「アイリス」
公爵が私を呼ぶ。
「この件、どこまで読める」
「偽造印章は入り口です。本命は未申告貨物より、誰が通してきたかでしょう」
「同感だ」
「それと……」
私は押収した入港証をもう一度見た。
「この偽印、作りが妙に丁寧です。一度きりの素人仕事ではありません。継続的に使われています」
「なら、工房がある」
「ええ。港の近くに」
公爵はすぐに衛兵隊長へ指示を出した。
外港周辺の封鎖、印章職人への聞き取り、近月の入港記録洗い直し。命令が飛ぶたび、人が動く。
私はその光景を見ながら思う。
この人は、決めた時の速さが異常だ。
検査が終わる頃には、北の空から細かい雪が降り始めていた。
白い粒が船腹へ吸い込まれ、海へ溶ける。
「寒いか」
隣に来た公爵が問う。
「少し」
「宿舎へ戻れ。残りは衛兵がやる」
「まだ記録が」
「戻ってから書け」
そう言われ、私は一瞬だけ反論しかけて、やめた。
代わりに素直に頷く。
帰り際、埠頭の人夫たちが私を見て、小さく帽子を上げた。
昨日まではなかった仕草だ。
それに気づいた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
私はまだ、この港の人間ではない。
けれど書類一枚、印一つで、守れる線がある。
そのことだけは、少しずつ伝わり始めている気がした。




