第十話 難民船と開かない倉庫
偽造印章の船を押さえてから二日後、港は別の意味で大混乱に陥った。
夜明け前、沖に漂流船が見つかったのだ。
西方の寒波を逃れて北へ流れ着いたらしい小型船で、乗っていたのは女と子どもを含む十七人。全員衰弱し、うち四人が高熱、二人は凍傷を起こしていた。
「薬草庫を開けます」
私は到着報告を聞くなりそう言ったが、倉庫係が青ざめて首を振った。
「無理です。第三医療倉庫はゼグナー商会との保管契約下で、引き渡しには商会立会いが必要で……」
「今は夜明け前です。待っていたら悪化します」
「でも契約が」
契約。
またそれか、と歯がゆさが込み上げる。
私は保管契約書を奪うように受け取り、その場で読み始めた。
条項は無駄に長く、保管責任、引渡権限、損耗賠償が細かく並ぶ。そして問題の一文が中盤に埋まっていた。
『疾病流行、海難、魔獣災害その他公的緊急時において、領主権限またはこれに準ずる文書命令がある場合、この限りにあらず』
「抜け道ではなく、正規の非常条項があります」
「え?」
「ただし、領主権限の文書命令が必要です。閣下はどこですか」
「外港へ向かわれました!」
私は階段を駆け下りた。
朝焼け前の空は青黒く、雪混じりの風が頬を刺す。埠頭の一角にはすでに簡易天幕が張られ、漂流民が毛布にくるまれていた。子どもの咳が乾いた音を立てる。
レオンハルト公爵はちょうど医師へ状況を聞いているところだった。
私は息を整える間もなく契約書を差し出す。
「第三医療倉庫を開けられます。非常条項です」
「条件は」
「領主命令文書。今すぐ作れば」
「作れ」
「はい」
近くの樽の上へ記録板を置き、私は羽根ペンを走らせた。
緊急医療物資供出命令。対象倉庫、品目、数量、使用目的、立会人不在時の後日精算手続き、商会損耗分への補填条項、乱用防止の期限。
急いでいる時ほど、条項は短く正確に。
紙の上に細い光が走り、誓約紋が真っ直ぐ整っていく。
「閣下、署名を」
「読む」
「もちろんです」
彼は一息で全文を読み、頷いた。
そのまま私の差し出した印章盤へ自ら公爵印を押す。青い魔力が紙へ沈み、非常命令文書が完成した瞬間、条文全体が淡く発光した。
「これで開けられます」
「行くぞ」
第三医療倉庫の前では、倉庫係とゼグナー商会の番頭が言い争っていた。
番頭は赤い鼻を怒りでさらに赤くし、私たちを見るなり声を張り上げる。
「勝手なことをされては困ります! 商会の資産ですよ!」
「公的緊急時です」
私は文書を突きつけた。
「契約第十四条二項。非常命令により供出可能」
「そんなもの、後付けで」
「あなたの商会が作った契約書です」
「……っ」
レオンハルト公爵が前へ出る。
「開けろ。今すぐだ」
その一言で、倉庫係は震える手で鍵束を差し込んだ。
中から運び出された薬草、乾燥肉、保温布、解熱用の蒸留液。
医師たちが一斉に動き出す。天幕の中で苦しそうにしていた子どもへ、ようやく薬が届いた。
私はほっと息をつきかけて、ふと違和感に気づいた。
医療倉庫の在庫札に対し、棚の並びが少ない。供出した数量を差し引いても、帳簿より十箱ほど足りない。
「……またですか」
「何がだ」
公爵が問う。
私は在庫札を示す。
「もともと不足しています。しかも足りないのは高価な薬草ばかり」
「横流しか」
「おそらく。倉庫が開かないことをいいことに、平時から抜いていたのでしょう」
番頭の顔色が変わった。
それだけで十分だった。
漂流民の手当てが一段落した頃、天幕の隅で小さな女の子が毛布にくるまりながら、私を見上げていた。
歳は六つか七つほど。頬は赤く熱を持っていたが、目だけはしっかりしている。
「おねえさん、ありがとう」
かすれた声でそう言われて、私は言葉に詰まった。
礼を言われるようなことだろうか。契約どおりに倉庫を開けただけなのに。
「お薬が届いてよかったわ」
そう返すと、少女はにこりと笑った。
その笑顔が、しばらく頭から離れなかった。
庁舎へ戻ると、ゼグナー商会から抗議文が届いていた。
文面は丁寧だが、要するに「勝手に倉庫を開けるな」「損失が出たら責任を取れ」という脅しである。
私はそれを読んで、むしろ少し落ち着いた。
怒っているのなら、効いている。
その夜、公爵印付きで反論文と精算約定を送り返した。
条項は簡潔に、逃げ道はなく。
最後に私は一文を付け加える。
『なお、医療倉庫在庫不足分については別途監査の対象とする』
返書の封を閉じたあと、私は小さく息を吐いた。
この港では、誰かの命さえ契約の陰に隠されてしまう。
だったら私は、その陰を一枚ずつめくっていくしかない。




