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第十一話 夜の執務室で

難民船の件で港が落ち着きを取り戻したのは、その日の夜もかなり更けてからだった。


私は公爵府から借りた会議室の片隅で、供出した医療物資の一覧と、第三倉庫の在庫差異を照合していた。難民対応そのものは成功したが、倉庫不足の問題は別だ。こういう時に「善行の勢い」で有耶無耶にすると、次の誰かが死ぬ。


窓の外は吹雪き始めていた。

石壁の向こうで風が吠え、灯りに雪が斜めに流れていく。暖炉はあるが、北辺の寒さは容赦がない。


「まだ起きていたか」


顔を上げると、レオンハルト公爵が立っていた。

執務を終えたばかりなのか、外套の肩へ雪が薄く積もっている。彼は私の前へ小さな木箱を置いた。


「何ですか」

「温熱石だ。机の下へ置け」

「……私に?」

「この部屋は冷える。指がかじかめば文字が乱れるだろう」


開けてみると、掌サイズの赤褐色の石が布にくるまれていた。触れた途端、じんわり熱が移る。

魔具店で見たことはあるが、庶民向けの安価品ではない。北辺の冬を知る人間が選ぶ、本気の防寒具だ。


「ありがとうございます」

「礼は不要だ。備品扱いにしておけ」

「備品にしては個人への配慮が細やかすぎます」

「……君はそういう余計なところまで気づくな」


そう言いながら、彼は向かいの椅子へ腰を下ろした。

珍しいことだった。普段なら必要な指示だけ伝えて去る人なのに。


「在庫不足、どのくらいだ」

「高価薬草が十箱前後。帳簿上は三か月前から少しずつ減っています」

「大きく抜かないのは、目立たないためか」

「はい。それと、誰かが定期的に帳尻を合わせていた。倉庫係単独では難しいです」

「税関長か商会か、あるいは両方」

「その可能性が高いです」


私は紙へ目を落としながら答えた。

すると、ふと彼の視線が止まったのを感じる。


「何か」

「君は疲れると、ペンを握る指だけ力が強くなる」

「……そうなのですか」

「さっきから筆圧が深い」


言われてみれば、たしかに紙へ先端が刺さりかけている。

恥ずかしいところを見られた、と思いながら指をゆるめた。


「王都では、こうして夜まで働くのが当たり前でした」

気づけば、そんなことを口にしていた。

「昼間は人前で使う書類の確認。夜は表に出せない修正や監査。私は婚約者の補助、という名目でしたが、実際は都合の悪い数字を見つける係です」

「報酬は」

「家同士の婚約ですから」

「払われていないのと同じだな」

「そうですね」


暖炉の火がぱちりと弾ける。

不思議な沈黙だった。気まずくはない。ただ、言葉を急がなくていい沈黙。


「なぜ契約を見る力があるのに、今まで逃げなかった」

やがて彼が問う。

私は少し考えた。


「役に立てば、必要とされると思っていたからです」

「必要にはされた」

「便利には、の間違いでした」


自分で言って、ようやく胸に落ちた。

必要と便利は似ているようで違う。必要は人として数える。便利は道具として数える。

私はたぶん長いあいだ、その違いに目をつぶっていた。


レオンハルト公爵はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言う。


「私は、人の言葉をあまり信じない」

「それは、なんとなく分かります」

「だが行動は見る。君は自分に利がなくても、凍えた難民のために倉庫を開けた」

「契約に書いてありましたから」

「それでも、開けない役人はいくらでもいる」


私は返す言葉を失った。

褒められているのだと分かるまでに少し時間がかかる。


「君のことを、冷たい女だと聞いた」

彼は続ける。

「だが私には、そうは見えない」

「……ありがとうございます」

「ただし、無茶をする」

「それは少し認めます」

「少しか?」

「少し多めに」


そこでようやく、彼がはっきりと笑った。

短く、静かに。

それだけなのに、室内の温度が少し上がったように感じる。


外は吹雪なのに、おかしな話だ。


「もう一つ」

公爵は立ち上がりながら言った。

「難民船の件で、明日、王都へ報告を上げる。君の名も入れる」

「私の?」

「倉庫を開けたのは君だ」

「領主命令があったからです」

「文書を書いたのは君だ」


言い切られてしまうと、否定しづらい。

私は小さく頷くしかなかった。


彼が部屋を出る直前、私はつい口を開いていた。


「閣下」

「何だ」

「手が冷たいのは……本当に体質だけですか」


一瞬、彼の足が止まった。

まずいことを聞いたかもしれないと後悔しかけた時、彼は半身だけ振り返る。


「氷属性の魔力が強いだけだ」

「それで」

「長く触れていると、相手を痛めることがある」

「私は平気でした」

「君は手袋をしていた」

「では、次は素手で確かめます」


なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。

けれど彼は目をわずかに見開いたあと、困ったように言った。


「……変わっているな、君は」


そのまま去っていく背を見送り、私は両頬が熱いことに気づいた。

温熱石のせいではない、と思う。

たぶん。

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