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第八話 港町の昼餉

北辺の役所で働き始めて三日目、私はようやく「昼休み」という概念を思い出した。


正午の鐘が鳴ると、庁舎の空気が一斉に緩む。

王都では、昼休みとは名ばかりで机を離れないことが多かった。けれどここでは、現場職も文官も、鐘とともに手を止め、湯気の出る食堂へぞろぞろ向かっていく。最初は面食らったが、北辺の寒さを思えば理にかなっている。食べなければ、午後が持たない。


「アイリスさん、今日は一緒にどうですか」

マルタさんに誘われ、私は庁舎裏の職員食堂へ入った。


長机が並ぶ質実な食堂だ。煮込み魚の匂い、黒パン、根菜のスープ。豪華さはないが、どれも体が求める味をしている。

最初こそ私が入っただけで会話が止まったものの、ここ数日は少しずつ慣れてきたらしい。昨日の賃金未払い案件が効いたのか、露骨な敵意は感じなくなっていた。


「こちら、空いてますよ」

向かいに座ったのは、記録係の青年トマスだった。真面目そうな顔立ちだが、緊張するとすぐ声が上ずる。

「いつも助かっています」

「ぼ、僕は帳面を運んでるだけです」

「運ぶのも大事な仕事です」


すると彼は耳まで赤くなった。

素直な人らしい。


食事を始めてほどなく、隣の卓からひそひそ声が聞こえた。

「ほら、あの人だよ。補佐を引っ張った」

「王都の令嬢って聞いたが」

「でも、昨日ガイの件もやったろ」


聞こえていないふりをしてスープを口へ運ぶ。

別に称賛が欲しいわけではない。でも、何かが変わりつつある気配はあった。


その時、食堂の扉が開き、空気が一段階きりりと締まった。

レオンハルト公爵だ。

護衛も連れずに、当然のような顔で配膳口へ並ぶ。公爵が一般職員と同じ鍋から昼食を受け取る光景は、王都育ちの私にはなかなか衝撃的だった。


「閣下、こちらへ」

食堂長が慌てて奥の席を空けようとするが、公爵は首を振る。

「空いているところでいい」


そうして、よりにもよって私たちの卓の端へ座った。

周囲が静かになる。トマスなど緊張のあまりパンを落としかけていた。


「……にぎやかですね」

私が小声で言うと、公爵は平然とした顔でスプーンを持った。

「食堂はそういう場所だ」

「そういう意味ではなく」

「君の方こそ、もう少し慣れろ」


言われてしまうと弱い。

私は素直に口を閉じた。


食事の最中、マルタさんが思い切ったように口を開く。

「閣下、明日の荷役当番表ですが、補佐の机から出てきた偽名登録分を除くと、人手が足りません」

「どのくらいだ」

「朝便だけで十二人」

「港湾兵から四人回す。残りは日雇い組へ正規賃金で声をかけろ」


公爵は即座に指示を返した。

そのやり取りを聞いて、私は少しだけ見方を改める。戦う人、冷たい人、威圧的な人。噂は色々あったけれど、少なくともこの人は、現場の数字と流れを把握している。


「アイリス」

「はい」

「賃金未払いの件、今日中に通達を出せるか」

「出せます。ついでに今後の標準雇用契約も作ります」

「ついで?」

「こういうのは再発防止まで書いて一式です」

「そうか」


そこで、彼はほんの少しだけ口元を緩めた。

周囲の職員たちが息を呑んだ気配がする。公爵が笑うのは珍しいらしい。


昼食後、私は約束通り標準雇用契約書の雛型を起こした。

読み書きが苦手な人夫にも分かるよう、条項は短く、支払日と罰則を大きく書く。証人欄も設け、署名できない者には読み上げ確認の印を残せるようにする。

書き終えた紙は、いつもよりきれいに光った。均衡の取れた契約は見ていて気持ちがいい。


夕方、その雛型を持って埠頭へ出ると、ガイが仲間を連れて待っていた。

「本当に持ってきたのか」

「約束しましたから」

「前の役人は、現場で話を聞いてもそれで終わりだった」

「私は終わりにするために書いていません。始めるために書きます」


読み上げるたび、人夫たちの顔つきが少しずつ変わっていく。

不信、半信半疑、そして最後には、まだ小さいが確かな期待。


契約書を受け取ったガイが、ぎこちなく頭を掻いた。


「……あんた、変わってるな」

「よく言われます」

「冷たい顔してるのに、やることはまっとうだ」

「褒めているのですか」

「たぶんな」


私は少しだけ考え、答えた。

「それなら、ありがとうございます」


帰り道、港の風は相変わらず厳しかった。

それでも、胸のどこかに小さな火種が灯っているようだった。

仕事はまだ山ほどある。

けれど、誰かが「言っても無駄だ」と諦めていた場所で、「言えば変わるかもしれない」と思ってもらえるなら、それはきっと悪くない。


そんなことを考えながら庁舎の角を曲がると、ちょうど馬から降りたレオンハルト公爵と目が合った。


「終業札は」

「裏返しました」

私は胸を張って答える。

すると彼は小さく頷いた。


「よろしい」

それだけなのに、妙に褒められた気がしてしまうのが少し悔しかった。

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