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第七話 定時で帰れと言う公爵

翌朝、庁舎へ入った瞬間、視線が集まった。


昨日エルマー補佐が連行された件は、夜のうちに港中へ広まっていたらしい。門番は妙に姿勢がよく、記録係の青年たちは私を見ると慌てて帳面へ目を落とす。歓迎されているわけではないが、少なくとも「王都から来た飾りの令嬢」という扱いは消えていた。


私が机へ着くと、マルタさんが小さな紙束を差し出した。

「これ、今朝の申請です。昨日までならエルマー補佐を通していた案件ですが、今は宙に浮いてしまっていて」

「ありがとうございます。優先順に見ましょう」


一枚目は船員補償申請。

二枚目は倉庫破損の調査願い。

三枚目は荷役人夫の賃金未払い訴え。

四枚目は小商会からの苦情――税関職員に袖の下を求められた、という内容だった。


「……ずいぶん溜まっていますね」

「はい。補佐が『後で見る』と言ってそのままのものばかりで」

「後で見ないための言葉ですね」

「その通りです」


私は一件ずつ目を通し、軽重と緊急性を切り分けていく。訴えが放置される組織は、いずれ訴えそのものが消える。皆、諦めるからだ。

それは役所として最悪だと思う。


昼前、私は荷役人夫の訴えを持って現場へ出た。

埠頭の風は鋭く、荷車の轍にはまだ朝の霜が残っている。申立人の男はガイという名の中年で、分厚い手をしていた。


「本当に来たのか、あんた」

「申請が正式に出ていますので」

「今までは誰も来なかった」

「今来ました」


言うと、彼は少しだけ目を丸くした。

話を聞けば、契約上は十日ごとの支払いのはずが、実際には一か月以上遅らされ、差額も抜かれているという。提示された契約書を見ると、署名の下に後から細字で加えた「港湾混雑時は支払猶予可」の文言があった。インクの乾きが違う。誓約紋もその部分だけ薄い。


「追加条項に同意した覚えは?」

「あるわけねえ。読めねえ奴も多いんだ、俺たちは」

「でしょうね。だから狙われた」


私は記録帳へ控えを取り、その場で臨時差止め命令書を起こした。

文字が整っていくたび、紙の上に淡い金の線が走る。私のギフト【誓約鑑定】は、読む時だけでなく、均衡の取れた条項を書く時にも少しだけ力を貸してくれる。偏りのある一文はざらついて見え、筋の通った条項はまっすぐ光るのだ。


「アイリス嬢」

振り返ると、いつの間にかレオンハルト公爵が立っていた。

今日は簡素な軍服ではなく、濃灰の外套姿だ。港の巡回に出ていたらしい。


「人夫の賃金未払い案件です。差止めを」

「認める」

「早いですね」

「条項が整っている」


ガイは公爵本人の登場に目を白黒させていたが、やがて深く頭を下げた。

「閣下、あんたまで」

「礼はこの文官に言え」

「い、いえ、俺は……」

「申請したのはあなたです。正当な権利を主張しただけですよ」


そう告げると、ガイは言葉に詰まり、ぎこちなく笑った。

その笑みを見て、私は少しだけ胸が軽くなる。


庁舎へ戻ると、午後の鐘が鳴っていた。

私はまだやれる、と机へ向かったのだが、その時、公爵が私の前へ一枚の札を置く。


「何ですか、これは」

「終業札だ」

「終業札?」

「北辺軍で使っている。日没後は、責任者の札がない者は執務室へ戻らない」

「軍と役所を一緒にするのですか」

「疲れた人間は同じように無茶をする」


私は札をつまみ上げた。木製で、片面に『勤務中』、もう片面に『終業』と焼印がある。

率直に言って、少し可愛い。


「君の札だ」

「私の」

「日が落ちたら裏返せ」

「拒否権は?」

「ない」


無表情に言うものだから、少しだけ可笑しくなった。

私は札を机の端へ立てかける。


「分かりました。では、閣下もきちんと使ってください」

「……なぜ私が」

「規則を作った方が守らないのはよくありません」

「私は責任者だ」

「責任者ほど倒れると困ります」


今度は公爵が黙る番だった。

ややあってから、彼は小さく息を吐く。


「君は時々、妙なところで強いな」

「書類しか取り柄がないので」

「その言い回しは気に入らない」

「なぜですか」

「書類で港を動かしている人間に向かって、『しか』は小さすぎる」


そう言い残して去っていく背中を、私はしばらく見送っていた。

冷たい風が窓を鳴らしているのに、耳の奥だけが妙に熱い。


その日の夕方。

私は終業札をきちんと裏返し、日没十分前に庁舎を出た。

こんなに明るいうちに仕事を終えるのは、いつ以来だろう。


港の空は朱と群青のあいだで揺れていて、海鳥が低く飛んでいた。

北辺の夕暮れは寒い。

でも、悪くないと思えた。

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