第六話 最初の摘発
エルマー・ジン補佐の執務机から出てきたものは、想像以上だった。
未処理の私印が三つ。
商会ごとの裏帳簿。
退職職員への口止め金記録。
そして、ボイド税関長の名で押された白紙委任状が二枚。
「最低ですね」
思わずこぼした私の言葉に、隣で文書を仕分けていたマルタさんが小さく頷いた。
庁舎の一室は今、臨時の証拠保全室になっている。私は朝からずっとそこで分類作業を続けていたのだが、昼を過ぎたあたりから頭の奥が鈍く重くなってきていた。
昨夜ほとんど眠っていないのだから当然だろう。
でも、手を止めたくない。
こういう時ほど、証拠は湯のように冷める前に固めるべきだ。
「アイリス」
不意に名を呼ばれて顔を上げる。
入口に立っていたのはレオンハルト公爵だった。いつの間にか日が傾いていて、窓から斜めの光が差している。
「まだやっていたのか」
「はい。あと少しで補佐関連が終わります」
「その『あと少し』が三刻続いている」
「……ご覧になっていたのですか」
「執務室の前を通れば分かる」
彼は部屋へ入り、机の上へ封書を一つ置いた。
見れば、今夜の封鎖命令書と、証拠資料の保全許可が正式な公爵印付きで整えられている。仕事が速い。
「ありがとうございます。これでゼグナー商会側が押し入っても」
「押し入らせない」
「頼もしいですね」
「事実だけを言ったまでだ」
相変わらず無駄のない会話だ。
けれど、以前の私ならその簡潔さを冷たいと思ったかもしれない。今は違う。必要な時に必要なものが届くことの方が、ずっと信頼できる。
私は封書を受け取ろうとして、ふっと視界が揺れた。
「あ……」
指先から紙が滑り落ちる。
膝が抜けかけたところを、とっさに誰かの腕が支えた。
冷たい。
でも、びっくりするほどしっかりしている。
「座れ」
「だ、大丈夫です」
「座れ」
二度目は命令だった。
私はおとなしく椅子へ戻される。レオンハルト公爵は部屋の隅にいた護衛へ合図を送り、すぐに熱い湯と食事を持って来させた。
「倒れた文官の『大丈夫』ほど信用ならないものはない」
「倒れてはいません」
「その一歩手前だ」
反論の余地がない。
差し出されたのは肉入りの温かいスープと、香辛料を効かせた焼きじゃがいもだった。湯気が目にしみる。
「食べろ。今日はここまでだ」
「でも、あと少しで」
「今の君は、証拠を増やすより誤読を増やす」
「……そうかもしれません」
ようやく認めると、彼は少しだけ表情を緩めた。
それが笑ったのかどうか、私にはまだ判別できない程度の変化だったが。
「王都では、誰も止めなかったのか」
不意に問われる。
私は匙を止めた。
「止める方が困るのでしょう」
「困る?」
「私が書類を処理している間は、皆が楽でしたから」
答えると、室内が静かになった。
マルタさんは気を遣ったのか、記録束を持って隣室へ移ってくれる。
「君は、ずっとそうやって働いてきたのか」
「必要だからです」
「必要なら壊れてもいい?」
「……そうは言っていません」
「言っているのと同じだ」
彼の青い瞳がまっすぐ私を見る。
冷たい色なのに、不思議と目を逸らしたくはなかった。
「ここでは違う」
レオンハルト公爵ははっきりと言った。
「働くために休め。明日も必要だから休む。これは命令だ」
「北辺の公爵閣下は、文官にまでそんなことを?」
「疲れた頭は判断を誤る。判断を誤れば、兵も港も死ぬ」
戦場の理屈なのだろう。
けれど役所にも、そのまま当てはまる気がした。
私はスープを一口飲む。
塩気が染みた瞬間、ようやく自分がどれほど空腹だったのか理解した。
「……分かりました。今日は終わりにします」
「よろしい」
「ただ、明日からはボイド税関長も本格的に動くと思います」
「当然だろうな」
「脅しも懐柔もあるはずです」
「それで折れるのか」
「まさか」
言い返すと、彼は今度こそ確かに笑った。
ほんの一瞬だけ口元が緩んだだけだが、氷の表面に薄く陽が差したような変化だった。
そのあと私は宿舎まで護衛付きで送られた。
玄関前で別れ際、公爵はふと思い出したように言う。
「明日から日没後の残業は許可制にする」
「許可制?」
「勝手に無茶をする顔をしている」
「そんな顔でしょうか」
「自覚がないなら余計に厄介だ」
外套越しの海風は刺すように冷たかったが、なぜだか胸の内は妙に温かかった。
王都で私は、「もっと愛想よく」「もっと社交的に」「もっと我慢しろ」と言われることはあっても、「休め」と命じられたことは一度もない。
宿舎の窓を閉め、机へ今日の記録をつける。
最後の欄へ、私は少し迷ってから一行を書き足した。
『北辺フェルンベルク公爵、冷たい手の人。だが判断は公平。今のところ、信用に値する』
そこまで書いて、ふと笑いそうになる。
今のところ、なんて付けたのは照れ隠しかもしれない。
その夜、私は久しぶりに、朝まで一度も起きずに眠った。
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