第五話 腐った帳簿と泣く会計係
その夜、私は地下保管庫にこもって、三年分の原票を洗った。
数字は人を裏切る。
正確には、数字そのものではなく、人が数字へ載せる意図が裏切る。
少しだけ丸めた重量、少しだけ増やした保管料、少しだけ早めた破損申請。その「少し」が毎日積もれば、町ひとつが貧しくなる。
マルタさんは最初こそ恐縮していたが、二時間も経つと別人のように手際よくなった。
必要な帳票を探し、年ごとの紐づけを並べ、私が読みやすいよう順番まで整えてくれる。計算が遅いと言われて雑務へ回された人とは思えない。
「あなた、会計の仕事が好きなんですね」
「……はい」
彼女は少し照れたように笑った。
「合うと、気持ちがいいので」
「分かります」
「分かってくださいますか?」
「ええ。ばらばらだったものが正しい位置へ戻る瞬間は、少しだけ世界がましになります」
その一言で、彼女の目がじわりと潤んだ。
泣かせるつもりはなかったのだけれど、と困っていると、彼女は慌てて首を振る。
「すみません、嬉しくて。ここでそんなふうに言ってくれる方、初めてです」
結局、夜半までに判明したのは以下の通りだった。
一、貨物重量の過少申告による関税逃れ。
二、破損扱いにした倉庫荷の横流し。
三、会計係名義の押印を使った集計差し替え。
四、退職した職員への責任転嫁。
五、印章貸出簿そのものの改ざん。
しかも関わっているのは一人や二人ではない。
最低でも税関長補佐、倉庫係長、印章管理担当、それに外部の商会が必要だ。
私が記録帳へ仮説を走り書きしていると、保管庫の扉が叩かれた。
「閣下の差し入れです」
護衛が運んできたのは、湯気の立つシチューと黒パン、それから温めた茶だった。
私は一瞬、ぽかんとしてしまう。
「……差し入れ」
「食べなければ倒れるだろう、と」
あの人は本当に言葉が足りない。
でも、必要なものはきちんと送ってくる。
マルタさんと二人で遅い夕食を取ったあと、私はさらに帳票を追った。すると、一つ気になる名前が繰り返し浮かび上がった。
ゼグナー商会。
港最大の商会で、穀物、薬草、魚油、魔石となんでも扱う有力組織だ。過少申告貨物の多くが、その関連船から出ている。
「大物ですね」
私が呟くと、マルタさんは青ざめた。
「ゼグナー商会に触るのは危ないです。あそこの会頭は、税関にも衛兵にも顔が利きます」
「だから今まで放置されていたのでしょうね」
「でも……」
「大丈夫です。最初から全部は行きません。まずは内側からです」
翌朝、私は整理した資料を抱えて執務室へ向かった。
ボイド税関長補佐のエルマー・ジンは、私を見るなり露骨に嫌そうな顔をした。細い口髭を撫でつける癖のある男で、まさに帳簿を汚すのが似合う顔をしている。
「おや、新任のお嬢さん。昨日はちゃんと休めましたかな」
「いいえ。とても実りのある夜でした」
「そうですか。では、今日は現場見学でも」
「その前に、確認したいことがあります」
私は彼の机へ、三枚の原票と一枚の差し替え票を並べた。
署名欄、紙質、時刻の不整合、印泥の成分差。そのすべてを順番に示していく。
最初、エルマーは笑っていた。
次に眉をひそめた。
最後には汗をかき始めた。
「これは、単なる記録上の行き違いでは」
「ではなぜ、会計係マルタ・ヒースの押印だけ、三度とも微妙にずれているのですか」
「手元が狂ったのでしょう」
「高熱で早退した日に?」
「……っ」
「さらにこちら、倉庫破損扱いの貨物一覧です。破損申請されたはずの薬草樽が、二日後にゼグナー商会の出荷票へ載っています。破損品が市場へ出回るものなのですね」
「知らんな」
「では、あなたの私印がなぜ出荷票の裏写しに残っているのか、説明していただけますか」
彼の顔色が土気色へ変わる。
周囲で仕事をしていた職員たちの手が止まっていた。
誰もが息を潜め、こちらを見ている。
「名誉を毀損する気か!」
エルマーが机を叩いて立ち上がった。
「王都から来た小娘が、数字を少し見たくらいで――」
「少しではありません。昨夜、三年分見ました」
「狂ってるのか!」
「狂っているのは台帳の方です」
言い切った瞬間、部屋の空気が変わった。
扉が開き、レオンハルト公爵が入ってきたのだ。
後ろには衛兵が二人。さらに、そのさらに後ろからボイド税関長まで顔を出した。
「続けろ」
公爵は短く言う。
私は一礼し、証拠の束を差し出した。
「現時点で確定しているのは、会計改ざんおよび不正押印、倉庫貨物の横流し、虚偽報告です。まずエルマー・ジン補佐の身柄拘束と執務机の封印を要請します」
「認める」
「閣下!」
ボイド税関長が慌てて声を上げる。
「補佐一人の責任で済む話では……」
「だからこそ机を封印する」
公爵の目が細くなる。
「何か困ることでもあるのか、ボイド」
税関長は口ごもった。
その一瞬で十分だった。衛兵が動き、エルマーの両腕を押さえる。机へ魔封錠がかけられる。
エルマーは喚き、暴れ、私へ唾まで飛ばした。
「覚えていろ、この役立たず女! 紙しか見えない石女め!」
私は顔色ひとつ変えず、ハンカチで頬を拭った。
「そうですね。紙しか見ていなかったら、あなたはもう少し長く逃げられたでしょう」
衛兵に引きずられていく彼を見送りながら、私はようやく深く息を吐いた。
着任二日目。
たぶん、後戻りはもうできない。
でも不思議と怖くはなかった。
机の上の証拠が、私の手の中でまっすぐ繋がっていたからだ。




