第四話 氷竜公爵との初対面
着任初日の資料閲覧は、一刻どころか、それだけで頭痛がするほど濃かった。
まず、貨物台帳の筆跡が不自然に揃いすぎている。
複数人で書くはずの欄が、ほとんど同じ癖で埋められていた。あとから一人が清書し直したか、あるいは最初からまとめて書き換えている。
次に、印章管理簿と倉庫出納簿の時刻が噛み合わない。印章は夜八つに保管庫へ戻されたことになっているのに、夜九つの貨物引き渡しが正規押印で処理されている。
さらに退職者名簿。三年で二十三名。理由は「家業都合」「体調不良」「規律違反」と雑に並んでいるが、そのうち半数以上が会計係か記録係だった。
つまり、数字を見られる人間から先に消えている。
「ひどい……」
思わず声が漏れた。
隣の机で帳面を抱えていた若い女性が、びくりと肩を震わせる。栗色の髪をきっちりまとめた、痩せた文官だった。
「す、すみません。何か足りませんでしたでしょうか」
「いいえ。あなたのせいではありません」
「でも、その、今お渡しした台帳で……」
「ええ、よくここまで揃えてくださいました。助かります。お名前を伺っても?」
「マルタ・ヒースです。会計係、でした」
「でした?」
「今は雑務係です」
言いながら、彼女は視線を落とした。
書類を抱える指先には小さなひび割れがいくつもある。寒さと紙で荒れた手だ。
「会計係が足りないのでは」
「足りません。でも、私は計算が遅いって……。その、前に大きな誤記があって」
「あなたの誤記ですか」
「分かりません。私の印はありました。でも、その日の私は熱が出て早退していて……」
そこでマルタさんは口をつぐんだ。
口をつぐむ人の顔は、王都で何度も見た。責任を押しつけられ、でも証明手段がなくて沈黙する人の顔だ。
私は台帳をもう一度開く。
問題の月次決算欄には、彼女の署名印が確かにある。だが印章の底面に流れるべき魔力がわずかにずれている。本人の手で押したとしても、印泥に混ぜ物をされれば誓約痕は濁る。これは不正使用の典型だ。
「マルタさん」
「はい」
「この月の原票、まだ残っていますか」
「え……たぶん地下保管庫に」
「案内してください」
彼女は戸惑いながらも頷いた。
地下保管庫は湿気がひどく、古い木箱が積み上がっていた。帳票袋には年代ごとに札が付いているが、乱雑そのものだ。
私は問題の月の袋を開き、一枚ずつ確認していく。
原票の数字は整っている。
月末の集計だけが、別筆跡で書き換えられていた。
「やっぱり」
「何が……?」
「あなたの誤記ではありません。合計欄だけあとから差し替えられています。しかも、保管手順にない紙質です」
「で、でも、そんなこと言っても……」
「言えます」
私は差し替え票を光へ透かした。
薄い灰色の筋が浮かぶ。港の役所で使う公用紙ではなく、民間の安価な再生紙だ。おまけに署名欄の下には、削って消した古い文字列の痕まである。
「どなたが最終集計を持って行きました?」
「たしか……ボイド税関長補佐が確認すると言って」
「補佐の名前は」
「エルマー・ジンです」
その瞬間、頭の中の線が一本つながった。
退職した会計係たちも、おそらく似た形で責任を負わされたのだろう。書き換えは上から。押印は下へ押しつける。よくある手口だ。
「マルタさん、今夜のうちに他の月も確認します」
「今夜?」
「ええ」
「一人では危険です」
階段の上から声がした。
見上げると、レオンハルト公爵が保管庫の入口に立っていた。なぜこんなところへ、という疑問が顔に出たのか、彼は短く言う。
「新任が初日に消えたら困ると言ったはずだ」
後ろには護衛が一人いるだけだった。
公爵自ら役所の地下まで見に来るものなのかと少し驚く。だが、彼の視線は私の手元の差し替え票へ落ちていた。
「見つけたか」
「会計改ざんの証拠になりそうなものを」
「誰が」
「まだ断定はしません。ただ、会計係に責任を被せる形で継続的な差し替えがあった可能性が高いです」
レオンハルト公爵はすぐには返事をしなかった。
代わりに、私の隣まで降りてきて、原票と差し替え票を見比べる。
その時、彼の手が私の手袋の甲へかすかに触れた。
驚くほど冷たい。
本当に氷みたい、と思ってしまうくらいに。
「……失礼」
思わずそう口にすると、彼はわずかに眉を動かした。
「いや。冷たかっただろう」
「少し驚いただけです」
「体質だ」
それ以上を語るつもりはないらしい。
私は話を戻した。
「今夜中に保管庫の資料を押さえたいです。明日になると消えるかもしれません」
「なら封鎖する」
「封鎖、ですか」
「私の権限でな」
あまりにもあっさり言うので、逆に面食らう。
公爵は護衛へ指示を出し、保管庫の出入りを今夜から制限するよう命じた。マルタさんは半分放心したようにその様子を見ている。
「……閣下は、私を信じるのですか」
尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「まだ信じてはいない」
「正直ですね」
「だが、君は昨日の夜会で泣き喚かなかった代わりに、相手の契約だけは忘れず確認したそうだな」
「情報が早いですね」
「王都の噂は北辺にも届く」
「でしたら、私が冷たい女だという評判も」
「役人に必要なのは、まず冷静さだ」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
王都では欠点としてしか数えられなかったものを、初めて別の名で呼ばれた気がしたのだ。
「続けろ、アイリス・レーヴェンベルク」
公爵は私の名前をきちんと区切って呼んだ。
「ここで何が腐っているのか、全部見せてみろ」
私は無意識に背筋を伸ばしていた。
「承知いたしました、閣下」




