第三話 辺境税関への辞令
王都を出てから五日目、車窓の外から見える景色はすっかり変わっていた。
なだらかな丘と麦畑はいつしか消え、剥き出しの岩肌と針葉樹の森が増えた。風の色まで違う。薄く、鋭く、肌を切るように冷たい。御者は「この先は北の息が強いですから」と言いながら外套を貸してくれたが、それでも肩がこわばる。
旅のあいだ、私はずっと資料を読んでいた。
フェルンベルク公爵領の歳入報告、港湾使用料の推移、税関職員の離職記録、王家文書院から渡された簡易調査メモ。そこに並んでいたのは、要するに「ひどい」の一言に尽きる数字だった。
過去三年で税収は二割減。
一方で貨物量は増加。
倉庫事故多発。
密輸摘発率低下。
職員の退職率は王都平均の三倍。
まともな役所なら、こうはならない。
どこかで流れている。金か、物か、その両方か。
昼過ぎ、馬車が最後の峠を越えたとき、海が見えた。
鉛色の空の下、重たくうねる北海。湾の奥に築かれた石造りの港町。その背後に、黒い城壁を持つ城塞がそびえている。
「グラナート港です」
御者の声に顔を上げた私は、しばらく息をするのも忘れていた。
美しい、というより強い景色だった。風にも波にも噛み砕かれないぞと睨み返しているような町だ。
港へ近づくにつれ、匂いが増える。潮、魚、煙、油、鉄。
荷役の叫び声、鎖の軋み、カモメの鳴き声。王都の洗練された喧騒とは別種の、生きるための音が重なっていた。
税関庁舎は港の東端、石積み倉庫群の隣に建っていた。
立派な外観のわりに、入り口脇の掲示板は古い通知が剥がれかけ、窓枠には塩が吹いている。維持が行き届いていない建物は、それだけで内部の管理も想像がつく。
受付に辞令を差し出すと、眠たげな顔の門番が私と書面を見比べて眉をひそめた。
「文官補佐……? 女が?」
「辞令に不備がありますか」
「いや、そうじゃねえが。伯爵令嬢様がこんなとこに来るとは思わねえだろ」
門番は奥へ消え、しばらくして太った中年男を連れて戻ってきた。
灰色の上着を窮屈そうに着込んだその男は、私の辞令をちらりと見ただけで唇を歪める。
「ハロルド・ボイドだ。税関長をしている。ようこそ、グラナートへ――と言いたいところだが、こちらも忙しい。中央のお嬢様のお遊びに付き合っている暇はない」
「お遊びのつもりはありません」
「だったらなおさら困るな。現場は紙の上の理屈通りには動かん」
彼の胸元には公務印章。だが紋の流れが淀んでいる。頻繁に他人へ貸しているか、規定外の押印をしている時に出る乱れ方だ。
初対面の一分で、ずいぶん分かりやすい人が出てきたものだと思う。
「まずは宿舎を案内していただけますか。荷物を置いたら、今日の勤務記録と貨物台帳を拝見したいのですが」
「は?」
「着任初日ですので、現状把握を」
ボイド税関長が露骨に顔をしかめる。
「……長旅でお疲れでしょう。今日は休まれては」
「お気遣いありがとうございます。ですが、王都からここまで来るあいだ、休みは十分にいただきました」
会話が険しくなりかけた、その時だった。
「なら、見せろ」
低く、よく通る声が背後から降る。
振り返ると、入口に立っていたのは、長身の男だった。
銀に近い淡い髪。氷を思わせる青い目。濃紺の外套を肩へかけ、軍服に似た簡素な黒衣を着ている。飾り気は少ないのに、空気そのものが張り詰めたように感じられるのは、その立ち姿のせいだろう。
周囲の職員が一斉に姿勢を正した。
「公爵閣下」
ボイド税関長が急に声色を変える。
フェルンベルク公爵、レオンハルト・フェルンベルク。
北辺を預かる当主にして、氷竜公の異名を持つ人。前線で自ら剣を取り、海魔の襲来を退けた戦功で知られる一方、冷酷無比で近寄りがたいとも噂されている。
その本人が、まっすぐ私を見ていた。
「レーヴェンベルク嬢か」
「はい。アイリス・レーヴェンベルクです。本日付で文官補佐を拝命いたしました」
「辞令は本物だ。私が受理した」
「……閣下自ら、ですか」
「人手不足でな。応募してきた人材の経歴くらいは確認する」
それだけ言うと、レオンハルト公爵はボイド税関長へ視線を移した。
「彼女は今日からここで働く。宿舎と執務机を用意しろ。必要な帳簿と印章管理簿も開示する」
「しかし閣下、中央から来たばかりの娘にそこまで――」
「なぜできない」
声は静かだった。
だからこそ逆らいにくい。
ボイド税関長は汗を浮かべ、「承知しました」と頭を下げた。
私は内心で少しだけ驚いていた。まさか着任初日に公爵本人が出てくるとは思わない。
「長旅だったな」
レオンハルト公爵が私へ向き直る。
「宿へ案内させる。今日の閲覧は一刻までだ。それ以上は認めない」
「ですが、確認したい資料が」
「一刻までだ」
命令、というより線引きだった。
おかげで反論の余地がない。
「……承知いたしました」
そう答えた瞬間、彼がわずかに頷く。
それだけなのに、不思議と「話が通じた」という感覚があった。
公爵は踵を返しかけ、ふと思い出したように言い足した。
「夕方以降は風が強まる。港を一人で歩くな」
「お気遣い、ありがとうございます」
「気遣いではない。新任文官が初日に海へ落ちたら面倒だ」
言い方は冷たいのに、内容はまっとうだった。
私は少しだけ口元が緩みそうになり、慌てて表情を戻す。
宿舎へ通されたあと、荷解きもそこそこに私は庁舎へ戻った。
与えられた机は古びていたが、天板はまだ使える。引き出しには前任者の置いていった欠けた封蝋炉と、半分乾いたインク瓶が入っていた。
窓の外には港。灰色の海。行き交う荷車。
机に初めて手を置いた瞬間、奇妙な静けさが胸へ降りる。
ここには、私のやるべき仕事がある。
そう思えた。




